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1978年に大学1年生になって東京に出てきた私に見えた東京の風景 [1978年]

            




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1978年当時の新宿の様子
2013年現在ABCマートがある場所は
ワシントン靴店だったし、
ビックロは三越だったことが分かる。
右にカメラのさくらやが見えるがビックカメラになってしまった。
 
 
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銀座(有楽町)になった日劇。現在は東宝シネマズなどが
入っている高層ビルだが、当時はこんな威容を誇っていた。 
                              
   


 当時の私は未来を夢見る18歳。ちなみに私は1959年生まれ。従って1978年当時はまだ高校3年生で春には卒業という状態にある。これを書いている時点からでは40年近く前の話だ。この年齢になると、40年前でも時間的な距離感を感じない事がある。特に記憶が鮮明な青春時代については。時間感覚とは不思議なものだ。

さて、後年に働く事になる音楽業界ではどのような事が起きていたかというと、細野晴臣氏の「はらいそ」が発売され、2月に結成されたYMOが11月アルファーレコードからデビュー。アルファーレコードは田町駅の海側へ向かう交差点の角のビルにあり、ユーミンが稼ぎ頭だった時代だ。坂本龍一(通称:教授)は「千のナイフ」をコロンビアから発売。
山下達郎氏は12月にRCAレコードから「Go Ahead」を出している。当時RCAレコードはアメリカのレーベルだが、渋谷の宮益坂を登り切った交差点の角のビルにあった。RCAの看板がビルの外にあったから間違いない。ここの中にあったディアハートというレーベルは80年代に入ってMIDIレコードになり、大貫妙子さんEPOさんらが坂本龍一氏らと同じレーベルアーティストになった。売れる前の清志郎さんや陽水さん、泉谷しげるさんが出演していた伝説のライブ喫茶「青い森」もこの周辺にあった。陽水さんによれば来生たかおさんとの出会いもここだったという。
私が長年に渡って支持することになる山下達郎さんの音楽との出会いは、大学時代に友人が私に「Go Ahead」を録音したカセットをくれたことからだったが、それ以来、私は達郎さんの中毒になり、58歳になった今でもライブに通っている。当時達郎さんを知っていた人は周辺に殆どおらず、マニアな音楽嗜好者だったと言ってもいい。

なお、補足すると先ほど書いた日本のロック・ポップ史に残る偉人とも言えるこの3名、つまり細野、坂本、山下氏のソロアルバムは、一般には全く認知がない時代でもある。つまり彼らはまだ売れてない時代なのだ。
もう一名加えると、現在でも現役の小田和正氏が所属していたオフコースは、この時点でヒット作品を生んでいない。小田さんも全く売れないミュージシャンの仲間だったのだ。今考えると不思議だが、この時期はそうだった。
ちなみにこの年の4月4日、キャンディーズは後楽園球場で解散ライブをしており、6月にはサザンが「勝手にシンドバット」でデビューしている。
矢沢永吉氏はソロとして最初のヒット曲を資生堂のタイアップで「時間よ止まれ」を発売している。なお、時間よ止まれのドラムスは高橋幸宏氏でキーボードは坂本龍一氏が演奏している。化粧品メーカーがロックなどとタイアップし、音楽業界に新しい息吹を与え始めたのも1978年前後だったろう。
また当時は、ポプコンで優勝した世良公則とツイストがブイブイ言わせておりピンクレディーもまだチャート内で元気だった頃だ。
日本のロックミュージックは、まだまだ日本の一般音楽嗜好層に届いたとは言えてない時代で、ロック好きは例外なく洋楽の影響を受けているため、洋楽を聞かない人達以外には日本のロックは支持されていないマイナー扱いの時代であった。従ってサザンやツイストのようなシャガレ声系のバンドボーカリストの登場は当時センセーショナルだったのだが、その先陣とも言えるミュージシャンは、柳ジョージーとレイニーウッズだと言って過言ではなかろう。
そんな時代背景の中、私はまさに大学受験の現役受験生時代であったが、自分が全国の受験生に対してどの位の学力位置にいるのかを正確に把握しようとしていたとはとても言い難い状態だった。
実際当時の私は小心者で、正直に自分の学力位置を知るのを意図的に避けていたとも言える。全国レベルでの本当の自分の実力を知ることを相当躊躇していた部分があったは事実なのだ。
阿南高校という長野県の当時の南信州地区でも2か3番手に位置づけられている学年(200名程度)での規模での成績が学年で10番~15番程度だった私が、全国でも高位置にいないだろう位は想像がついたが、積極的に分析し事実を把握するのは自分の小さなプライドが保てなかったのだろう。(なお、残念ながら現在の阿南高校は長野県でも下から数えた方が早い位、偏差値の地位を落としてしまっている。つまり勉強の出来ないと思われる人たちの集団になってしまっているが、それでも別の才能が出る期待はしている。なんせ我が校の先輩には峰竜太さんがいらっしゃるのだから・・。)

つまり認めたくはないのだが、実際は自分がたいした成績でないのをある程度は認知していた訳だ。
当時の自分の感覚値は、学校時代習っている勉強が分かる、分からないという部分だけで言えば基礎的な部分は理解は出来るが応用問題に非常に弱いという感じだった。
英語なんかでもちょっと構文の変わったものが出てくると途端に意味が理解できない感じだったと思う。今でこそTOEIC試験で800点位までは取れるようになって(この点数は本当に出来る人からすれば決して高得点ではないのだが・・・)、英会話には何とか不自由しなくなった今と比べれば、現役時代の勉強に対する理解力は圧倒的に欠けていたと思う。
その傾向は学校主催の旺文社の国模試での成績を見ても明らかだった。私の成績は、自分の希望学校に関して全て「C」判定でどうにもこうにも雲行きが怪しかった。「C」判定その成績での合格の見込みは30%以下というものである。有体に言えば合格の見込みはない部類である。その頃私の考えていた希望大学は、一番高くても法政大学で、それ以外は専修大学(経済、法務、社会)、獨協大学などだった。
社会に出て働き始めると、東京大学とか高学歴の連中に多々会うが、あのレベルの連中の脳構造は私には羨望だった。それでも、後年私が一部上場企業の管理職になれた事を鑑みればば、世の中は良くしたもので、学力だけが社会人の実力として必ずしも比例しない部分が存在してくれる事が分かった。お陰で、私の人生はそれなりに面白い部分を見せてくれたのも事実だ。
実際、天才+神童と言われた片山さつき議員にしても、失言の数々で政治家としての地位は全く上がらないし、同じく元官僚の豊田真由子議員の例の暴言等を見ても、頭脳の良し悪しだけでは社会を適切には生きられない事は明白だろう。学校の勉強が出来る事がすなわち社会で良いポジションを獲得できるかと言えば必ずしもそうでもないという事だ。(ただし、確率は高くなるとは言っておこう)

1977
年秋の進学相談の段階での保護者との面談では、自分の希望や意思を伝えていたが、両親からは常々言われていたように、私には入試に失敗できない事情があった。父は私が入試に無事合格しても、大学3年生になる段階で地方公務員として定年退職を余儀なくされていた。当時の定年は55歳であったためだ。そのため父は退職後の2年間だけはなんとか別の場所で就職し、私が卒業する1982年までは家計を繋ぐ準備をしていた。

母は積極的に心配をする性質であったため、色々と担任とも進路について相談をしていたようである。その中で出てきたのは推薦入学という方法で、担任と両親が大学のレベルと私の成績を勘案し導き出されてきたのが「和光大学」である。
全く聞いたこともない名前の大学だった。蛍雪大学という受験専門雑誌で調べてみると「W」の項に2つだけあった中の1つの大学と分かる。
もう一つは都の西北の雄・早稲田大学である。和光大学は当時創立10年目の新しい大学で自由闊達な感じの大学であると書いてあった。大学のレベルはアベレージ、つまり受験偏差値で言えば55
程度の学力をもつ人間を受け入れる大学であるということだ。担任によれば私の当時の成績であれば十分推薦試験に合格するだろうと言われていた。当時の私の心理としては、推薦合格に価値を見出せていなかった。
どこかしら通常入試というガチンコの実力合格によって大学入試を突破することが正しいと信じていたからだ。

担任から呼ばれて大学のパンフレットをもらい説明を受けた時のことを記憶している。担任は十分に良い大学だと太鼓判を押してくれたが、それでも私の小さなプライドを十分満たしてくれることはなかった。
当時の私の感覚は、友達に自慢できるのは和光大学のような大学ではなく、世間で名の知れた大学であるからだ。若い頃は自分自身に特別なブランドをつけたがるが、当時の私もそうだった。
推薦入試という提案に小さな抵抗を見せた私に対して、母は再三再四、父の定年退職という現実を説明して説得した。また推薦でも合格すれば「大学生」として生活でき自分たちの親としての子供に対する最低限度の責任を達成できるということもあった。
将来の履歴書に大学卒業という項目があるのかないのかはその後の人生に大きな影響が出てくるし、また当然だが履歴書に残るのは「卒業履歴」で「受験履歴」でないということもあった。
また私が通常の筆記入試による合格ができるのであれば、そちらを選択しても構わないという条件も提示してきたので、そういうことであればと頑なだった私は推薦入試に同意した。今考えれば随分と生意気なものである。

1978111日から2日間に及んだ東京町田市にある和光大学の推薦入試の筆記と面接試験を受けるため学校を訪れる。当時の日記によると、この前日の10日に一人で上京している。
ところが一旦家を出てから電車用に使う学割を自宅に忘れたため、高校に行き再発行を求めるために915分の列車で阿南高校に向かい、(高校に向う電車は数時間に1本だったという理由もある)高校で学割書類を再発行して貰ってから直ぐに飯田駅まで折り返し、何とか1150分飯田発の急行伊那一号で諏訪まで向かい、その後1428分のあずさ5号で新宿に向かい1712分に到着している。とんだトタバタを演じていたようだ。
当時、中央線の車窓から見える東京の最初の風景は、新宿西口に建設が顕著になり始めた高層ビル群だった。まだ京王プラザや住友ビルなど、全部合わせても5棟程度しか建設されていない時代で、周辺には空き地が拡がっている時代だった。「太陽にほえろ」という人気刑事ドラマのオープニングは、この西口高層ビルをヘリコプターから空撮した映像から始まっていたが、私にとって東京を感じる最初の光景は常にここだった。(ちなみに東京都庁は、有楽町駅前の現在の国際フォーラムのある場所に建っており、現在の都庁がある場所は、都営5号地とかいう空き地だった)
新宿に到着後、国鉄(当時はまだ民営化前でJRではない)山の手線で原宿駅へ向かい、駅前でハンバーグ(多分マクドナルドだろう)の夕食を食べている。
価格は150円だったようだ。2013年の現代でも対して価格が変わらないのはインフレ率を加味しても相当に違和感があるが、逆に当時の方が高価だったと言えよう。
そして宿泊施設である青山会館に1740分に到着している。
部屋に入ってテレビのニュースを見ていると、小田急線経堂駅前の交番勤務の警官が女子大生を強姦して殺害したというニュースが流れており、この事件は今でも記憶に残っている。

111日、6時半に起床し、8時には宿を出る。受験には同じ阿南高校から胡桃沢君が訪れていた。しかし受験現場は思いもよらない事態に巻き込まれて試験が遅れた。和光大の学生が学費値上げ反対のバリケードを張って試験実施を妨害していたのである。当時の和光大学は時代錯誤とも思える学生運動の最後の砦になっていたのだ。
学生運動は、70年代前半の東大紛争と浅間山荘事件以後、その意義や存在は学生運動による犯罪発生や社会意識の変化によって急激に下火になっており、立て看板やヘルメットを被ってタオルでマスクをしてシュプレキコール(メガホンを使って主張を声だかに張り上げる行為)を上げるかつてのスタイルがこの当時でさえも石器時代的なイメージとして映った。


「こりゃ大変なところにきたなあ」と半ば呆れていたが、田舎では滅多に見ることができないイベントに少々興奮気味にもなっていた。寒空の中、一時間余り学校敷地内で立ちんぼを食らっていた我々には学校側から何の説明もなく、苛立っていた。

10
30分になってやっと学内へ移動することになったが、教室で長い間待たされた。どうやら運動学生と教授陣が話し合いをしていたようだ。受験開始段階のスケジュールは殆どキャンセル状態となった。運動学生のメガホンを通じての主義主張は、受験を目的に来た我々には馬耳東風で、今考えても戦略的に全く意味を成していない行動だった。
学生運動をしていた連中は我々の受験を人質にとって主張を学校側に通す戦略だったのだろうが、この手の連中の戦略と戦術はいつも的ハズレである。おまけに当方の迷惑を全く顧みない自己完結な感じは、往年の連合赤軍の連中と同じようなものだった。ちなみに連合赤軍は、色々と理想的な国家思想を語っていたが、結果的には仲間の殺し合いに終始した極めて下等な行動癖のある連中だった。
このため受験生の一部がバリケードを張っている学生に「迷惑だ!」と罵声を浴びせ、解除要求を出すに至り学費闘争をしている学生らの旗色は悪くなった。そもそも学生のためにやっていると勘違いしている連中は、これから学生になる我々にネガティブなイメージを与えてしまったからだ。そういう意味で全く戦略性もなく、反対のための反対だったのだろう。
そもそも運動学生達の主張は、学校の一方的な値上げが我々受験生にも不利益であるとして共に戦おうという「親和路線」なのであったが、バリケード闘争によって最も不利益を被っていたのは他でもない我々受験生だったので、この部分において彼らの戦術は読み違えが明らかだった。
論理矛盾のため味方と考えられていた受験生が心理的には学校側につき、結局バリケードは解除され1430分に論文受験が始まった。全く無駄な時間だったが、学生運動をしている連中の先を読む力のなさを知り、ますますあの連中には与しないと心に誓った点では無駄ではなかったかもしれない


和光大学1978.jpg

当時学校の壁面には仰々しいメッセージが掲げられていた。
そもそも奪還なんかできるはずもないし、結局できなかった。
ある時はここの壁面全体に読売新聞が張られていた事件もあった。
また1985年代には、写真の広場で集会をしていた
過激派同士の内ゲバ事件があって革マル派1名、中核派8名が負傷した。
私が通学していた時代でも校門にあたる道路上で常時、機動隊の監視員がいた。
一体どういう大学なのかと思っていた。

 

そもそも文章が苦手な私に与えられたテーマは“物価問題”で800文字というものだった。どのような論文を書いたのかは全く記憶がない。今でさえも物価問題を800文字で語るのは相当困難だ。ひょっとしたら学校側が大してこの論文に重きを置いていなかったのではないかもしれない。極端に言えばちゃんと文字が書けて、酷い漢字の誤りが無いことをチェックするだけだったのかもしれない。
(現在だったら、物価高騰の問題の一因が金融緩和による金余りや円安による輸入材の値上がりなど
で、行き場を失った投資マネーが流れ込み、投機的な原因によって物価上昇の遠因を作っているなどと適当に書いただろうが・・)

いずれにしても当時の私の能力では文書も内容も大した出来ではなかったろう。この日のスケジュールはこれで終了。

翌日の12日の午後は面接であった。私は好奇心から大学に行く前に昨日の警察官による殺人事件で話題になっていた経堂駅前の派出所を見に行く。警官が独り立っていたが特に変わった様子もなかった。
緊張感を必要とする受験時期の割りには私の集中力散漫な様子が伺えてお恥ずかしい。
1435分大学に到着し、1545分から面接が開始される。面接官は2名でその内の独りはその後の私のゼミ主任となる先生であった。確か桜井先生と言っただろうか?
面接内容は父親のことや性格についてだった。面接官はその後私のゼミの担当教授となる人物でであった。現代のような圧迫面接もなく出来不出来もわからないまま3分程度で終了した。面接そのものも意味があったのか不明だ。
私はその足で新宿駅へ向かい17時発のあずさに乗って実家へと帰った。

一週間後の1月19日木曜日、校内で一緒に受験に行った胡桃沢君が合格の連絡を受けて喜んでいたので、私も不安を募らせながら実家に電話を入れる。すると合格電報が届いているということを(多分母親から)伝えられ内心ホッとする。
母もホッとしたに違いない。これで最低限度大学生への道を確保した。
両親にとっては非常に安心を与えたようで、2月から始まる入試に関しては、最低限の心配をしている程度であったようだ。

1978210日、私は法政、東洋、専修、獨協大学の入試に挑戦するため代々木にあるオリンピック選手村を改造した学生村に13泊連続で滞在した。
宿泊したのは10名程度の大部屋であったが、全国から同じ目標に向かって来ている学生が集結していたのでお互いの事情を話し合ったりして健闘を讃えあった。ここでの思い出はさほどないが、学食が美味しくなかった事だけは記憶がある。それでも他に食事をする場所も知らないため我慢して過ごした。受験期間中にいくつかの合格発表があったが、受験校で仲良くなった前後受験番号の人間が合格し、私の番号だけがなかっり、同じ部屋の人で次々と合格を決める人を横眼に見ながらという屈辱も味わった。

1978年受験リスト:

210日:渋谷区代々木オリンピック記念公園内施設へ入居。大部屋へ。

211日:専修大学 経済学部入試

213日:専修大学 法学部入試

216日:東洋大学 法学部入試

217日:獨協大学 法学部入試 :専修大学経済学部発表日 不合格

219日:専修大学 法学部 結果不合格

220日:法政大学 社会学部入試 結果不合格

222日:東洋大学 経営学部入試 結果不合格

223日:実家へ戻る :獨協大学 法学部発表日 不合格

226日:再び上京 :東洋大学 法学部発表日 不合格

227日:東洋大学 社会学部入試(結果不合格)

(しかし相当頭の悪い人間だってことがバレる結果だね。頭の良い人が本当に羨ましい。獨協大学の入試は、埼玉の春日部というところだったと思うが、寝過ごして危うく遅刻しそうになった。最小が世界史だったが、一問目から殆ど分からなかった記憶がある・・。笑。)



結果的に受験の結果は和光大学のみが残り、私には選択の余地がなくなった。振り返って見ると私は大した学力を持っていないことが明らかである。
今にして考えても何でこんなに落ちるかな・・と思うほどである。実際高校時代まで、勉強が自分の中で十分消化された感覚を持ったことが無かった。
成績こそ全学年180名内で10番~15番程度だったが、勉強をはっきりと理解していたかと言えば良く覚えていない。あのボンヤリとした感覚は、今でも時折私を悩ませる。実際大人になっても、何年かに1度、試験勉強が間に合わない夢を見る。(その場合、何故か物理と数学の勉強が試験日までに追い付かないという感じ)

とにかく結果的に“両親のリスクヘッジの勝利”だった。私には希望とは別の大学に行く決断をしなければならないとい事実が残ったが、結果は明らだったのでまっさらな気持で腹をくくって和光大学へ行く決心がつき東京生活への準備が始まった。
まず住む所を探さなければならとかった。
東京の長期間の生活を経験している兄の秀樹だけである。それ故私は東京への第一歩で兄の助けが大きかった。

兄は当時西友松本店に勤めていたので、東京への調査に向かう前日である37日火曜日、兄の職場まで電車を使って独りで向かう。城東松本店で働いていた兄の職場に行き、彼の退社後2人で夕食を取り、兄の住んでいたマンション(いわゆる寮である)に一泊する。まだ3月ということもあり非常に寒い。翌朝3時半に起床し、兄は私を自家用車に私を乗せて東京へと連れて行ってくれた。
930分、和光大の総務課に行きこれから住むべきアパートの候補となる場所の情報を3ヵ所提示してくれた。

物件1978.jpg

物件の一つ。これは断った。


鶴川、百合ヶ丘、読売ランドだったが、私と兄の結論は、小田急線読売ランド駅から徒歩で15分ほど読売ランド方向の小高い丘の頂上にあった和田アパートという古い物件だった。今考えると大学が勧めてくれた物件にロクなものはなく、町場の不動産屋も見ておくべきだったが、アパート探しに時間を掛けたくなかった事もあって泥縄な感覚で決定してしまった。
いずれにしても、大学が勧めた中の1件であるアパートがある丘の頂上への最後の坂道は急傾斜のため、車で登ると宇宙ロケットの発射台にいるような気分にさせられるような急な
斜を持つ坂だった。4畳半の部屋が1階と2階に計16世帯集まった建物で部屋には本当に小さな台所だけがありトイレは共同というその場所が私の関東での出発点であった。家賃19千円。管理費500円。電話はなく大家さんの呼び出しのみ。風呂は無い。しかし一人暮らしが初体験であり、何が不足で何が十分なのかも良く分らない私にとって、ある意味で親元から離れて生きるために、屋根がついていれば十分だったのかもしれない。地方出身者にとっては全てがアドベンチャー感覚だった。
アパートも決まり、夜は兄に。渋谷のロサビル内にあったサントリーコンパという私には大人びた場所に連れて行かれる。その日の宿泊先はうずら荘という記録が残っているが、どこにあったのかは不明。名前を見る限り大した場所であるはずがない。
トイレは和式で、テレビは白黒だったようだ。時代を感じる。



(1978年当時の読売ランドでの生活風景はここに記載)
http://skjmmsk-zero.blog.so-net.ne.jp/2012-02-10

宿泊所1978.jpg

宿泊所のうずら荘


197843日月曜、再び兄の車に家財道具を積んで東京へと向かう。
長野県地方は雪のため途中でチェーンをはめなければならなかった程だったが、甲府を抜けるあたりで雪は止み始め、関東に近づくに従って天候は回復していった。東京に到着後、池袋で昼飯を食べ、その後読売ランドのアパートに荷物を入れた後、駅の近くにある銭湯に出かけ、その後近くの食事処で夕食を食べた記憶がある。

私にとって翌日4日は、キャンディーズというアイドルの解散コンサートが後楽園球場のファイナルコンサートを見るというイベントがある日で、前の日の夜にフジテレビの夜のヒットスタジオで後楽園球場からの生中継を放送していたのを読売ランドの食堂で見た記憶が残っていた。

キャンディーズTV.jpg


この翌日兄は地元へ帰り、私の独りきりの生活が始まった。なんか不安でもあり期待感もあり複雑な心境だった。

44日、この日オールナイトニッポンに自分で応募して手に入れたチケットをでコンサートを見る。自分で初めて買ったコンサートチケットだった。アイドルグループだったキャンディーズのファイナルカーニバル(場所:東京後楽園球場で現在の東京ドーム付近)である。
とにかく日本中の注目を集め、NHKの7時のニュースにも取り上げられた程の社会現象を起こした3人の女の子たちがトップアイドルを引退するという一大イベントだった。当時この大イベントを仕切っていたのは当時のキャンディーズのマネージャーで、大手芸能会社アミューズの創設者である大里洋吉氏で当時26歳。
当時の大里氏は既にアミューズを創設し、原田真二氏をブレークさせていたが、原田氏が事務所を辞めた時期でもあった。その直後にサザンが事務所に入ったのだが、サザンはキャンディーズのイベントを終えた6月にデビューとなる時代の流れの中にいる。
球場周囲は、熱狂を超えて狂乱に近く、コンサートは天気にも恵まれボルテージは上がっていった。国民の注目を集めているイベントのチケットを持っているという事だけで、自分に何となく優越感を覚えさせていた。
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万人が収容できる東京後楽園球場の3塁側ジャンボスタンド(2階U列290番)でコンサートを見守った。開演175分、終演2135分。4時間半で52曲を演奏。興奮と感動でグチャグチャになった頭を整理するためにその日の深夜のオールナイトニッポン(所ジョージ氏)でこのコンサートの模様を録音放送していたので徹夜で全部聞いた。

 

(キャンディーズのファイナルカーニバルについてまとめたブログ)

http://skjmmsk-zero.blog.so-net.ne.jp/2012-01-31


ラジオを聞きながら自分はこのコンサートを実際に見たんだと改めて感動と興奮を再体験し、東京って土地のアドバンテッジを感じながらそのままアパートを出て早朝の一番列車で実家へ戻った。その後49日には再び上京。

410日、大学に行き入学手続きを行った。この時同じ高校だった胡桃沢君(現在彼は地元の役場に勤務しているようだ・・)と彼の友人だった片岡君という人物と行動を共にしていた。その後この片岡君が紹介してくれた調直樹君が、大学1年~2年にかけての最も時間を過ごした友人となる。
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日は受験の時に遭遇した学生運動関係の輩がセクト間でのメガホン応酬をしていたが、見ていて余りにくだらないので昼過ぎには学校を離れたようだ。


この日の使用金額リストを見ると雑誌(週刊プレボーイ)140円、パチンコ200円、電車賃200円、焼きそば200円、ココア50円、昼飯を学食で食べ250円の計1030円を使ったとある。当時の一日の生活費は大体1,000円程度が目標だった。改めて記録を見ると新聞が50円、映画が1,100円、アナログ版アルバムが2,500円、公衆風呂が160円の時代であるが、新聞と風呂以外は今と値段は変わらないがインフレ率を勘案すると、当時の映画やアナログ盤はちょっと高い気がする。余り変わらない感じもある。



19785月の音楽シングルチャートはこんな感じだった。

1位:微笑返し キャンディーズ

2位:カナダからの手紙 平尾昌光&畑中葉子

3位:サムライ 沢田研二

4位:乙女座宮 山口百恵

5位:迷い道 渡辺真知子

6位:UFO ピンクレディー

7位:愛よ蘇れ 野口五郎

8位:追いかけてヨコハマ 桜田淳子

9位:二十歳前

10位:冬が来る前に 紙ふうせん



原田真二のシャドーボクサーや世良公則とツイストのあんたのバラードが20位以内にいた時代である。またアルバム(当然CDではない)チャートは1位がアリスⅤ、2位が未知との遭遇のサントラ、3位が原田真二のデビューアルバム「FEEL HAPPY」だった。当時の日本の音楽状況がまだまだ歌謡曲全盛時代で、日本テレビの番組「スター誕生」出身の歌手である山口百恵や桜田淳子、高田みづえ、岩崎宏美らがチャート上位におり、その中にニューミュージック系ロックと言われた原田真二やツイストが牙城に食い込んで来た頃だった。特に広島出身の原田真二は、ティーンでのデビューながら天才的な音楽性で一挙にスター街道を走っていた。ビートルズに影響を受けたその音楽性がちょっと真似の出来ないセンスだった。そして現在の日本ロック界における超スーパーである桑田佳祐率いるサザンオールスターズが世間に登場するのは翌月の六月のことである。(その後、ある1時期サザンと仕事をする日が来るとは思わなかったが・・・。)
日本の音楽シーンは歌謡曲ベースの時代から、フォーク、ニューミュージックの時代を経てロックバンドがメジャーになりつつある移行期だった。しかし当時はまだ日本のロックバンドもニューミュージックのカテゴリーとして捉えられていた。が、「はっぴえんど」を起点とした日本のロックバンドの成立シーンは、SUGAR BABEやキャロルなどのインディーでサブカルな時代を経てメジャーな立ち位置を確保するようになり始めた時代と言って良い。

私にとって最初の試練は食事であった。なんしろ実家で我侭放題の生活を送ってきた私である。好き嫌いも多く、つい数週間前まではカルビーのポテトチップスを食事代わりにしており、夕食といっても白いご飯を好まず餃子や肉ばかりを好んで食べていた生活を続けていたので家庭以外の食事を食べ続けなければならないというのはチャンレンジングな体験であった。
東京での生活に慣れなくてはならない私の第一歩の克服事項が食事だったことは疑いの余地がない。記憶する限りで最初に食べた定食というのは読売ランド駅に併走する世田谷道沿いにあった定食屋(現在は無くなっている)で頼んだ350円のコロッケ定食だったろうか。
何故そんなに印象的だったかというと生まれて初めてドンブリ飯を食べたからである。
前述したように私はご飯というものをこれまであまり好んで食べてこなかった。そのため定食屋で出されたご飯の量に少々たまげた訳である。ただそんな我侭小僧も他人様に囲まれて、人様に出された食事を沢山残す訳にいかないという位の常識は持ち合わせており、何とか全部腹に収めた。
しかし人間とは恐ろしいものである。その後一ヶ月で私の食事習慣は全く別物になり実家に帰ってもドンブリ飯が出てこないと満足できなくなっていた。


田舎から出てきた大学一年生の生活は全てが新鮮であった。なんせ何も知らない田舎者である。知らないがために全てが初体験なのであるから当たり前でもある。
田舎では絶対に見かけないお洒落で綺麗なモデル並の容姿の女性達、また一風変わった人物たち、見たことのない髪型や服の人間、本気でロック系な人々、マジな学生運動家、本気で共産党を支持している若者、民主青年同盟とその支持者、立て看板、外国人、生き方も視点も違う同年代、芸能人の子供、芸能人そのものなど、東京の生活は、私にとって毎日がテーマパーク的な感じだった。
特に和光大学は、その後の雑誌の調査でロック偏差値が日本でナンバー1と名誉なのかなんなのか分からない価値を見出されているような学校だっただけに、その後、音楽系アーティストの輩出が多い大学でもあった。

この時期になると友達の輪も段々と拡がって行き、大学にも知り合いが多くなり自分の居場所が出来るような感覚があった。新しい知り合いが増えることは当時の私の人生でも刺激的なことの一つであった。また若かったせいもあってそれ程人見知りもしない性質(たち)だったこともあった。入学間もないこの時期は授業にもまじめに通っていたが、教室で教えられている勉強の中身が自分の将来の人生にどのように役立つのか、もしくは役立てようとするべきなのかを緻密に考えられるほど、私の脳の能力はまだ成長が十分でなかった。とにかく新しい環境に希望を持ち、比較的純粋な気持ちでいた事は確かだ。あんな自分にはもう戻れないな・・と思う。

522日、近所にあったサンコーというダイエー系のスーパーのレジのアルバイト募集に応募し採用され、人生で初めてのアルバイト経験をする。この頃はとにかく本格的オーディオセットを揃えたくて食事を削ってでも金を貯めたかった時期だった。
当時既にAIWAのカセットデッキだけ持っていたが、他には何もなかった。コンポーネント式ステレオを揃えたかった私は、とにかく1つずつ機器を購入してゆく予定でいた。そして最初に買ったこのデッキはカセットテープの特性に合わせられる細かい調整ツマミが装備されており、当時のマニアックな私の心を捉えていたものであった。当時は頑固でマニアックだったので、自分の要望に合わない機材には見向きもしなかったが、高価過ぎて手が届かない難点があった。目線が高すぎたとも言える。


さて、サンコー(現在はマンションになっている)というスーパーのレジとしてバイトを始めた私だが、ここを選んだのは私の下宿先である和田アパートで前の部屋に住んでいた専修大学の同年代の学生で千葉県出身の「丸(マル)さん」という名の男性が既にここでバイトをしており私を紹介してくれたからだ。しかしここでは大きな挫折を味わう。当時サンコーのレジ係は社員教育のため、客が渡す金額(購入金額)と支払いの差額、つまりお釣をレジの暗算で行うシステムを導入していた。


このため1日の中で数人が交代するレジ作業の過程で生じる差額が問題となるが、社員従業員やパート女性が行うレジでは平均しても100円~300円程度だった。しかし私の担当しているレジではある日1,000円単位の差額が生まれ、確率論から言っても私が原因だと考えざるを得ない状況に追い込まれた。
またレジの打ち間違えや訂正伝票などを連発し次長という人物に日々怒られていた。そそっかしいというか、頭が悪いというかバイトを始めて2週間程経った頃の日記によると、612日に差額が3,228円も出てしまい完全に窮地に陥る。その後3階の電気売り場に配置転換され(左遷ですな)、近所の系列店に報告書を取りに行くだけという、出来るだけ店内に居て欲しくない感じにと取り扱われ、さすがに鈍感の私もコリャ限界だなと感じ取り、結果的に辞表を提出して辞めることを決断。
私の初のバイト経験は約一ヶ月ちょっとで廃業に追い込まれた。日記に貼り付けてあった当時の私の稼ぎは総額58,698円だったが、社会の片鱗に晒された苦い思い出となった。また当時の時給は1時間450円で残業付で563円だった。しかし今なら苦もない暗算が当時は苦労していた自分を振り返ると情けない気持ちになる。余りにも未完成過ぎたと言える。

折りしもバイトを辞めると決めていたその日の朝、626日、実家から祖母の中村富子が急逝したという連絡が入り急遽実家に戻ることとなる。つい2ヶ月前に東京へと来る際、祖母から小遣いとして渡された4万円を学校構内で盗まれ、侘び状を書いてはみたものの気分は吹っ切れない気持ちでいた。何時も世話になるばかりで何も返して上げられなかったという懺悔に近い気持ちで一杯だった時期だった。私は祖母に対して優しくされたという思い出しかない。孫ということもあるだろうが、苦言の一つも言わず、本当に私には良いおばあちゃんに徹してくれた人だった。
明治生まれの祖母は、欧米への憧れの強い女性だったようで、彼女が18歳の時に撮影されたという映画「風と共に去りぬ」に出てくるような洋式ドレスを身にまとった写真を撮っていたのを見て彼女の西洋への憧れていた気持ちを感じた覚えがある。


結局祖母は一度も日本を出ないままこの世を去ってしまった。その祖母が洋式ドレスを着た写真は、後年私の母が複製して送ってくれたのだが、現在でも私の部屋に飾られている。
明治時代に撮影されたその写真に写る姿は、当時としては不良と判断されるような行為であったようだが、そうした時代の流れとは異なる生き方や考え方をする部分と、海外や新しいものへの強い憧れや好奇心を持つと言う当りはきっと祖母のDNAだと今でも感じる次第だ。
享年79歳。脳溢血による、見事なほどあっけなくも美しい最期であった。私も彼女のように死にたいと望んで止まない。

当時の音楽業界においては、元キャロルの矢沢永吉氏がソロシンガーとしての頭角を現してきていた。彼は自分自身を「成り上がり」と呼び、夢を実現する若者のカリスマになっていた。資生堂のCMにも使用された「時間よ止まれ」の大ヒットで一般的にも認知される存在となり始めた頃だ。ちなみにこの曲のキーボードは将来一緒に仕事をすることになる、まだ世に出る以前の元YMOのメンバー坂本龍一氏とドラムは高橋幸宏氏である。彼のような困難を突破して行くような生き方に私も当時の人々も共感を持った。


ある夜の夕食のメニューがメモで残っていた。キャベツ(89円)+コンビーフ缶(138円)とインスタントミートボール(98円)と自炊のご飯。

7月のある水曜だったろうか。私は実家から持ってきたナショナルの「高雄」という白黒テレビを見ていた。フジテレビ、夜の10時は「夜のヒットスタジオ」だ。この日もヒット曲満載だったが、初めて見るバンドが登場していた。サザンオールスターズである。
当時余り良く知らなかったが先日新宿の帝都無線というレコード屋に行った際のシングル1位になっていたバンドだった。
曲名が「勝手にシンドバット」というふざけたタイトルだったので記憶があっただけだった。期待もせずにバンドの演奏が始まった。白のランニングシャツとジョギングパンツのバンドが「ラーラーラー」と始めた瞬間、私の心と体は1万マイル彼方まで飛ばされてひっくり返ってしまった。

声、歌、曲、全てが新しかった。何を歌っていたのか理解出来なかったが、日本語が英語に聞こえた。「いま何時?そうね大体ね」というのも痺れた。こんな凄いの見たことも聞いたこともないと感動し尽くして、翌日シングルレコードを買っていた。その後30年間サザンは不動のロックバンドである。あんなぶっ飛び体験は以後山下達郎さんなどを入れても僅かしかない。その彼らは現在でもトップの現役だ。私の世代が一緒に生きてきた彼らは数十年に1人の才能を持った人たちだと言える。


7
月2日、首になったバイト先から現金手渡しの給料が出た。58,698円だった。言っておくが、当時は銀行振り込みなんて方法は給与支払いにはなく、直接手渡しだ。従って私はクビになった会社の人に会って直接金をもらわなくてはならなかったのだ。しかし仕方ない。

翌日全額貯金し、生まれて初めて自分の貯金が10万円を超える。この頃私は、「はしだのりひこ」というフォークシンガーと交流があった。交流と言うと大げさだが、たまに事務所を訪れたり彼のコンサートに行ったりしていた。彼は私が高校時代、長野県各地を巡り、地元のアマチュアミュージシャンの演奏を紹介するラジオ番組の司会をやっていた。その彼の番組が私の地元を訪れる度に番組応募してオリジナル曲の生演奏をしてラジオでオンエアーされていた。そんなことが続いたある時期、彼のレギュラー番組に2週間連続でゲストとして参加したことさえもあった。飯田市のバスターミナルのあるビル内にある信越放送のスタジオで収録をしたのであるが、私にとっては芸能界の端っこに入ったような天にも舞い上がるような出来事であった。

つかの間のスター気分が味わえたようなものだ。将来ミュージシャンを夢見ていた私にとってのはしだのりひこ氏は、プロの世界に実際に生きているミュージシャンだった。彼との関係を繋げていたかったのは、ひょっとしたらプロへの道、音楽業界への道が開かれるのではないかという淡い期待感もあったかもしれない。

さてこの年は猛暑だったようだ。7月初めの時点で梅雨らしさはなく、私の部屋は30度近くあった様子でかなり暑さにめげている様子が日記に記載されていた。当然クーラーなんか装備している身分ではなく、ただただ暑さに耐えていたようだ。今で言う熱中症に近い状態だったと思う。しかも当時は冷蔵庫すら部屋になかったのだ。よく生き残ったものだと思う。


とにかく東京に来たからには憧れのミュージシャン、もしくは音楽業界で働きたいと思っていた私は、音楽専門一般誌のGUTSかなんかの記事広告にあった「クニ河内氏がバンドメンバー募集」というものにデモテープを送っていた。その結果が来て2次選考に来てくれという手紙が届いていた。この話はまた後で。さてその他クソ暑かったこの年の7月は結構色々活動的にやっていて、その中に初体験アルバイトである「神宮球場での弁当売り」っていうのがあった。
試合はスワローズ対ジャイアンツ。場所は神宮球場である。7月8日土曜日、この日が1日目であったが、あいにくの雨、というか豪雨。作業着に着替えてあの首から提げる平台みたいなものに60個余りの弁当を詰め込み客席内で売り歩く。
雨のせいで最初の2030分は全く売れずじまい。それでもすこしづつ商品が動き始めてだんだんその気になってきた頃再び豪雨。ずぶ濡れになりながらもなんとか大声出して売っていたが、スワローズの選手はダッグアウトからも出てこない位だった。今思えば球場関係者が弁当を捌くためにワザと遅らせたのだろう。試合中止の発表も白々しい程遅く、その後この日の業務は終了。売り上げ33,500円でバイト代も出ない感じ。翌日は15時半頃に球場へ到着。王選手(元ジャイアンツ選手で後の元ダイエー監督)のバッティング練習を見てスタンドへ叩き込む様子に感動していた。
仕事としては昨日の経験があるため少しはこなれてきて、なるべく団体客を探して売り歩く。これは先輩のアルバイト経験者から聞いた手法で、この方法が最も弁当を効率的に捌けるというのだ。
特に外野よりの内野スタンドにはそうした客が多く、同じ弁当売りが殺到する。結局この日は結構売れたので6回裏辺りからは在庫も無くなり内野スタンドで試合を見ることが出来た。巨人のシピンが本塁打を打ったりしたが試合は時間切れ引き分け。バイト代の金額の記録なし。多分4,000円程度だったと思われる。但しお釣が900円合わなかったので差し引かれている。効率を覚えないと美味しくならないバイトだった。


7
11日からは前期試験期間となる。フランス語の試験とかあったが、出来るはずもない。経済原論は半年後を期限とした問題で、Q1:マルクス主義の思想体系について、Q2:資本主義経済の運動施策、Q3:商品分析、Q4:価値形態の発展、Q5:商品の物神崇拝性についてへの解答をレポートすることになっている。社会人になったから結構自分自身で経済を勉強した今になって見ても余り興味を惹かれない内容である。
大学に入学して早3ヶ月、早くもボンクラ大学生の初期症状が出てきてしまっていた。53歳の今の私から見れば4年間を勉学に費やせるというのは当方もなく贅沢な環境である。しかし悲しいことに当時の私は全くそうした感覚の中で生きていなかった。
殆どの学生は同じようなものだろうが、要するに勉学を積み上げた先に目指している目的、目標が無かったからに相違ない。
大学にいて勉学環境に居る動機が希薄なために、真剣に勉強しようなんて思いもしないのである。それでも単位を取得できて卒業できれば学士様になれて履歴書に大学卒業と書くことが出来る。実際は大学生活をまっとうすることは将来の履歴書のための辻褄合わせにあったとも言える。


7
20日、エキストラのアルバイトをする。当然生まれて初めてである。エキストラとはテレビ、映画の中に登場する主人公の周囲に存在する通行人やその他大勢の役割をこなす人たちのことである。こんな仕事があるなんてさすがに東京だと思った。世田谷区成城にあった三船プロの撮影所(俳優・三船敏郎氏のプロダクションが経営していた撮影スタジオのこと。彼の娘は後にタレントとなった三船美加さんだ。
撮影していたのは「大江戸捜査網」。初めてカツラのちょんまげを被る。こうした場合、エキストラは大部屋で支度をする。支度部屋にはベテランのエキストラがおり、私のような超新人に色々と丁寧に教えてくれる。ベテランのエキストラは20年近くもエキストラとしてやっている人で、殆どが当然のように役者志望であるが、その想いを果たせずこの道に生きているような方々だった。

ただこのキャリアのエキストラはドラマ一言セリフがあったりするちょっと偉いエキストラなのだ。例えば主人公が子供を連れて道を歩いているようなシーンで子供のおもちゃを露天商であるエキストラから買うような際にエキストラが子供や主人公に「毎度ありがとうございました」と言う程度のことである。
それ故殆ど世間に認知されるほどの出演部分はない。また中にはタレント紛いの役者がばっこする中でこうした本物の役者志望の人間がエキストラに甘んじているという現実を垣間見て複雑な気分だった。人生のキャリア設計とは愚直なだけでは開けないという事実の1つかもしれない。
当時の出演は、里見浩太郎氏・栗田ひろみ氏。
午前の出番は1回で、午後は通行人で1回のみ。後日もらったバイト代は2500円程度だったか。

21日も初めてのバイトで大学生活の中で最も実務数が多かったのが「引越しのバイト」。朝730分には、渋谷駅ハチ公前に集合。大学の友人の調君と一緒なのが心強かった。クライアントは日本警備保障の板橋の事務所。でかいロッカーや机があるので結構シンドイ。滝のような汗にまみれてこの日のバイト代は4,400円。確かこの時代、学生援護会なる組織が山の手線の高田馬場駅傍にあり、そこに友人の調君とバイトを探し行っていたと思う。彼とは引っ越しのバイトをよくやったものだ。それ故に馬場の学生援護会にもよく通っていた。(なんせネットもスマホもない時代ですから直接行くしか方法が無かった)


7
28日、目黒のヤマハ(目黒不動尊の隣)で前述のクニ河内氏オーディションの続きがあった。リハーサルスタジオに集められた10数名の様々な面々が一同にアドリブ演奏を行うという設定で、私の最も苦手な感じだったが、適当にごまかしてキーボードの演奏をする。今考えてみると、当時のクニ氏のオーディションというのはどこに目的があったのか判然としない。多分このオーディションで面白い逸材が見つかれば事務所に関わらせて何らかの形でレコードデビューの道を開き、そのプロデュースをクニ河内氏が行うというものだったのかもしれないが、結果的には思ったような逸材が集まらなかったということで自然消滅してしまったと言える。
素人の私から見ればクニ氏は明らかにプロの人間だったが、後に関わった20年近い自分の音楽業界の経験から改めて見て、当時の彼の活動を鑑みると自分の将来の仕事ネタを探していたオーディションだったとも言えなくはない。つまり「企画」であったという訳だ。
当時アレンジャーとして『タモリ』の最初のアルバムのプロデュースを行い様々なアレンジでその才能を見せてくれたが、やはり純粋な音楽ものとしての評価ではなかったため、メインストリームでの活動が厳しい状況だったのであろうか? 私が音楽業界に入った5年後以降の段階で彼の表立った活躍を聞くことは全くなかった。


7月30日、円は19030銭で円高だとニュースが言っていた。2013年の基準なら明らかに大幅で異常なほど円安だろう。
またこの日、過去日本に返還された沖縄が前日まで使用していたアメリカの交通法規を変更し日本の法規へと移行した日とある。まだ第二次大戦の残り香がある、そういう時代だったのだ。

731日、クニ河内氏のオーディションの結果が来る。それによると、バンドとしてドラムス、ベースに適当な人材がおらず、バンドとしてのスタートが少々無理であり保留するという回答だった。
今ならドラムとベースが見付からなければバンドオーディンそのものを開催する意味すら理解出来ないものだが、そもそもクニ氏がどのようなビジョンのバンドを求めていたのかは遂に示されなかった。今にして思えば適当な飯ネタが居なかったなという感じという解釈が正解のように思える。当時はド素人だった私なので、そんなことも分からない時代だったし致し方ない。


8
月に入ると世間と私の注目は「さらば宇宙戦艦ヤマト」だった。オールナイトニッポンの煽りもあったが、6日の公開初日は今では考えられない興奮状態の最中で、渋谷東急レックス(現在のHikarieがある場所に建っていた映画館のビルの中にあった)は2,000名の徹夜組が出て朝5時に緊急オープンし上映開始、また同じ頃新宿東映も満員の状態だった。沢田研二のエンド主題歌も大きな話題となり怒涛の大ヒット作品となった。田舎者の私にとって、オールナイトニッポン主催のイベントに参加できるというのは、超興奮するものだった。加えて生放送で全国と繋がっている訳で、いつもなら田舎でラジオを聴きながら参加している人たちを羨ましく思っていたが、今は自分が参加できる状態であり、私にとって宇宙の中心にいるかの如くであった。

この月私にはもう一つのイベントがあった。永ちゃんこと矢沢永吉のコンサート「GOLD RUSH 78」に行ったことである。それも女の子と。
「成り上がり」でスーパースターになった矢沢氏の初の球場でのライブだから気持ちが盛り上がらないはずはない。またこのライブに私が誘ったのは学校の同級生の井川知英子さん(当時18才)だった。実は彼女はタレントの愛川欣也氏の娘さんであったのだが、この事実に関しては当時未確認の噂の状態だった。それとは関係なく私は彼女に仄かな恋心を抱いていた。彼女は私の人生で会ったことのないタイプで妖精のような女の子だったからだ。それ故コンサートに誘ったのだが、こうした行為も人生で初めてであった。それ故慣れない私はコンサートの前日に水道橋にある後楽園球場周辺を事前に下見して、後楽園遊園地の導線や夕食の場所やら喫茶店の位置を確認していた。今にして思えばなんて純情なわたし…。
当日が来て、遊園地で暫く時間を過ごした後に行った後楽園球場は、暴走族の5万人集会のような感じで、私のような「普通」の感じの人が少なくとても違和感を感じた。しかし皆矢沢永吉を応援して来ている人たちだったので、思ったよりも安全な感じだったが、会場の周辺は警視庁から来ていた警官や警察車両で埋め尽くされていた。
私は3塁側のダッグアウト側位にいたのであるが、コンサート終盤になると観客が興奮し始めて、内野席を覆うネットによじ登り始めて混乱してきた。コンサートが終了し、興奮冷めやらぬ私は彼女に夕食でもと誘うが「今夜は帰らなきゃいけないの」というのでそれ以上は無理に誘えず、前日の下見は空しく無駄になった。その後の私のデートはいつもこんな感じだった。

当時の入場料は、3,000円。後日談であるが、彼女の父である愛川欣也氏はその後、現夫人の「うつみみどり」さんと不倫の末再婚、そのため一家は一時離散状態。知英子さんは大学3年生の頃に退学、その後暫く消息が無くなってしまったが、彼女の消息を改めて知ったのは私が大学卒業後だった。それは写真雑誌で有名なフライデーで紹介されており女優として初出演となった「なみだ橋(だったか?)」という映画でヌードになった記事だった。友人から電話連絡をもらった私は、写真を見て愕然としてしまった。そしてこの時期から私の女性に対する距離感は全く分からなくなってしまった。その後彼女は小説家と結婚、2000年代に入ってから久しぶりにメールのやり取りをしお互いの元気な存在を確認した事があるが、大学時以降、直接お会いしたことはない。もういいお母さんになっているので、元気でいてほしい。

(矢沢永吉 ゴールドラッシュ 東京後楽園球場をまとめたブログ)

http://skjmmsk-zero.blog.so-net.ne.jp/2012-02-16


8
29日には王貞治氏が大洋(現ベイスターズ)を相手に800号ホームランをかっ飛ばす。また井上陽水さんと石川セリさんの結婚も発表された。

9月はまだ学校が夏休み期間で少し退屈していたようだ。大学の夏休みの宿題となっていたレポートのテーマを探す中で、当時新田次郎という作家が出版した「聖職の碑」というドキュメンタリードラマの先駆けとなった本を読む。そして本を読み終え、夏休みの宿題のテーマに合う題材を見出し、それをきっかけにある人物に出会うことが出来た。
この本は大正時代私が嘗て住んでいた地域である伊那地方の中箕輪尋常小学生で実施した駒ヶ根登山学習の最中に起こった不幸な遭難事件を題材にした小説であった。
予測もしなかった気候の変動のため引率の先生や数多くの生徒の命が失われ、当時の大きなニュースとなっていた。小説の中に登場していた小学生である「唐沢可作」が遭難を逃れ九死に一生を得て生還したという記述があったが、調べたところ事件後50年余を経ても彼が伊那市で生存しているという事実を知り、私は彼に手紙を書いてインタビューを申し込んだ。数日後電話によって唐沢氏から手紙に対する返事をもらい取材の許可を頂く。


9
15日、私は伊那市上伊那農業高校側にあった唐沢氏の自宅を訪問する。訪問に際しては実家から父が車を運転し、母も嘗て自分たちが住んでいた土地を久しぶりに見たいということで一緒について来た。唐沢氏は当時小さいながらも10以上の会社を経営している人物であった。自宅の応接間に通された私は、小説に書かれていた駒ケ岳での遭難時の話をじっくりと聞いた。遭難時から生還後の人生に至る話を本当に臨場感溢れる情感で聞かせてもらった。特に可作氏の名前だが、子供時代は「よしなり」と読んだそうなのだが、現在は「かさく」と変えたとおっしゃっていた。
可作氏は特に母親の影響に関して語ってくれており、厳格な母の教育の影響が現在の自分を支えてくれているのだと目を潤ませて語ってくれたのが印象的だった。「誠実に生きていれてば、人間自信を持って生きて行けるはずだ」と語ってくださった。また「周囲から崩されそうな時があっても必ず報われる」とも付け加えてくれた。
現代で起こっている偽装食品などを見ると彼の考え方を知って欲しいと思う。私はこのインタビューと体験をレポートにまとめ夏休みの宿題として提出した。
918日には19歳となり、自分がだんだんと大人に近づいて行くのを感じる。
22日、聖職の碑が全国公開。鶴田浩二を主演にしたこの作品は全国でヒット作品となった。ちなみにこのレポートは夏休み後に提出し、先生の評判はすこぶる良かったのにも関わらず、成績評価は“B”であったので不満に思った記憶がある。
2013年
現在、唐沢可作氏は既にご逝去しており、彼の名前を冠したスポーツ大会が現在でも伊那市で行われているようだ。


9
29日、実家の母からあるノートを渡される。ノートはB5版で母の筆跡のものである。母によればこのノートには私を妊娠した時点から1歳半辺りまでの記録が日記として書かれていると言う。
見てみると確かに1959226日から始まっており、妊娠時の過程や出産、育児過程が書かれていた。自分の存在する以前の自分のことを目にするのはとても不思議な感覚だったと記憶している。

10月、学校も始まっている。夏休み中に両親と協議をし、25万円程までに貯まった私の貯金の使い道を希望のオーディオ購入ではなくて運転免許のために利用したらという意見を受け入れた。
理由の第一は私が望むようなオーディオ装置を揃えるには、現在の2~3倍の予算が必要で、現在のスピードで貯金をして行ってもあと最低でも1年から2年程度かかる計算だった。果たしてそれまで待てるのか?という気持ちと、当時自分の住んでいる部屋の実態を考えて理想のオーディオ装置が必要なのかなどの意見の集約が判断の基準となった。頑固な私も色々な想定を聞かされ陥落したのだろう。
(当時はオーディオマニアっぽい信奉があり、機材がこれでないとダメだみたいな思い込みがあった。社会人になってから音楽業界に入り、連日レコーディングスタジオで過ごしてみると、実はオーディオって際限がなく、また個人差による善し悪しがあり答えのない世界だと分かり、一定程度以上は自分の実生活では対応できないのでコダワルのを止めにした経緯がある。)
そこで私は考え方を切り替え自動車運転免許取得に目標を転換する。105日から向ヶ丘自動車学校に行き手続きを行い通い始める。

1014日に兄が遊びにくる。私という東京の拠点が出来て上京し易くなったのだろう。兄はこの時期長野への転勤命令が出ている。この上京時期、兄が昔住んでいた下目黒514にある高木さんというお宅が大家さんだった当時の兄が居たアパートを訪ねている。この家の直ぐ側には自殺未遂で身体付随となったフランク永井氏の自宅があった。この月の下旬にかけてはとにかく自動車学校に通い、なんとか早く免許取得にと注力していたようだ。この時期、日本シリーズではヤクルトが阪急ブレーブス(現在のオリックスブレーブス)相手にシリーズ初制覇達成。

113日、専修大学生田校舎内における学園祭イベントであるサザンオールスターズのライブを見に行く。サザンは勝手にシンドバットの影響で既に全国区の人気者になっていた。ライブの無料整理券取得に物凄い人数が並んでいたが、5時間近く並んで何とか入場し会場後部の下手寄りの座席に腰を下ろす。今にして思うと一人で5時間近く並んで見るなんて随分と忍耐があったものだ。私の直ぐ側に並んでいた男性2人組は、ギターの大森さんの知り合いらしく周囲に聞こえるようにその話をしていた記憶がある。その中の一人は会話の語尾に必ず「・・くち」というヘンテコリンな言葉をつける人だった記憶も鮮明にある。
この日はTBSの人気番組、ザ・ベストテンの生中継があり、そのためコンサート内で番組のリハーサルも行われたために、勝手にシンドバッドを3回聞くことが出来た。20時からライブが始まり、一枚目のアルバム「熱い胸騒ぎ」を中心とした演奏が続いたが、ベストテンが始まり生放送のウインドウに入ると、客席が興奮に包まれた。私も自分の見ている現場の光景が全国に中継されているんだと考えるだけで田舎者の私は興奮し、アドレナリンで脳内が満たされた。
黒柳さんと久米さんの声が会場に響く中、サザンはシンドバットを歌った。中継後もライブは続き、私のサザン初体験は終わった。やっぱり東京地区に居ると色々と面白い出来事に遭遇できるチャンスが多いと改めて感じた日であった。


11
月5日、兄が松本の女性と見合いの末、遂に結婚をするかもしれないという情報が入ってくる。11日は私の実家の嫁になう人が訪れるという情報が入る。どんな人だろうかと胸を膨らます。後日談であるが、残念ながらこの女性とは結果的に結婚に至らなかった。故に私はこの人に会っていない。兄には余り良い思いでではないようなので、この話はその後したことがない。仮に兄がこの女性と結婚していたら、優もヒロも誕生していなかったであろう。

この11月に他にあった事と言えば、英語教材の販売勧誘である。アパートに見知らぬ女性から電話がかかってきて、学研30周年記念の一環の記念行事で私が選ばれたというのである。リーダース・ダイジェストの勧誘にありがちが感じで疑ってかかったが、電話営業の女性の口上が上手く、新宿で会って話を聞くだけならと了解してしまう。
英語教材の勧誘は今に始まったことではないのであるが、新宿紀伊国屋書店側の喫茶店で待ち合わせをし、やって来た勧誘員の女性が綺麗な人だったので、つい油断してしまった。色々な特典に関して熱心に話しをされてグラっと来ている所に契約書なんかを出されるものだから結構迷ってしまう訳だ。当時月額8,000円の分割で36回払いという感じだったように思う。バイト2~3回程度だから十分可能だし、尚且つ英語が身につき友達も増えるみたいな話しを判断できる程当時の私も大人ではありませんでしたが、やはりどうにも判断がつかず仮契約という形でその後確認をしてからということでその場は逃げた。
翌日父に電話で相談したところ、とんでもない!と説教をされてその翌日に仮契約を解約するため新宿の事務所に出向き契約解除を正式にする。

同日、作新学園のエース投手であった江川卓氏がその後「空白の一日事件」と呼ばれた運営上設けた契約便宜上の空き日を利用して巨人軍との契約を締結し世間を敵に回す。25日には一橋学院という予備校で開催された共通一次試験対策模試の試験官のアルバイトを行った。私が試験官で良いのかいなと思ったが、バイト料5,500円は魅力的でした。

12月に入ると自動車免許が4段階に入り、路上教習を行っている。1日は井川知英子さんとクニ河内音楽事務所に遊びに出かけた。そして8日思いがけないニュースが飛び込む。井川さんの父である愛川欣也氏とうつみみどり(当時はうつみ宮土理)さんが先月11月に既に結婚しており、前妻とは離婚しているというニュースが飛び込んで来た。テレビのワイドショーには、井川さんの自宅に押しかけたマスコミがインタフォーンで話しかけているシーンがあり、その応答をしているのが明らかに井川さんの声だったのを見て困惑する。普段見ている芸能ニュースの景色が違ってみえた一瞬だった。

13日、自動車学校の卒業検定試験を突破する。15日、神奈川県の二俣川の陸運局で受けた試験に合格し、晴れて自動車免許の交付権限を得る。交付は22日の予定。19日、旭川はマイナス21度、私の部屋も5度しかなかった。おまけに私の部屋には暖房設備が「こたつ」しかないから背中が寒い。
22
日、神奈川の二俣川で免許の交付を受けてその足で新宿に向かい実家への帰路に着く。当時は中央道の直通バスがなく、直通急行の時間も限られていたので、この時は上諏訪まで急行で移動し、上諏訪からは各駅で3時間近くかけて飯田へ向かうという形だった。
久々に実家に着き、深夜親が寝静まってからどうしても免許取立ての私は車を運転したくて父親の車をそっと持ち出してドライブ。しかし深夜ということもあり最初は蛇行したり、ライトの操作が分からずガードレールに突っ込みそうになったりかなり危険な状態だった。今にしてみれば無謀の一言である。

28
日、フジテレビで放送中だった「白い巨塔」の最終回放送日、主演の田宮二郎氏が猟銃自殺をするという衝撃的なニュースが飛び込む。ドラマの最終回では田宮氏演じる財前教授が癌によって死んでしまうという衝撃的な終わり方をするのだが、その主演俳優が最終回を目前にして実際に亡くなってしまったという小説顔負けのニュースであった。彼は財前教授を生き写しにしたような名優だったので衝撃が大きかった。

31
日、日本レコード大賞はピンク・レディーのUFO、最優秀歌唱賞は沢田研二の“LOVE抱しめたい”だった。ピンク・レディーの大賞受賞辺りから、このイベントの国民的行事であるという側面が削がれて行ったように感じる。このイベントが国民を巻き込んだもんではなくて、音楽・芸能業界だけに向けられた業界のイベントへと変質して行った裏事情が次第にアカラサマになっていった事にもよるだろう。そして紅白は白組が勝って79年へとバトンタッチして行った。


こうして2013年現在から1978年の自分の1年を振り返るとこの年の私には本当に多くの事が起こっていたことが良く分かる。自分の日記を読んで改めて思い起こした事もあり、また読んでも全く記憶の彼方に消えてしまっていてその事実すらも思い出せない内容もあった。特に感情面の記憶は、記録されていた文字からだけでは伺い知れない場合が多かった。
長野県の田舎から東京に出てきた私が、将来ミュージシャンになりたい(もしくは音楽業界で働きたい)とその道に通じる窓の在りかを必死にもがいて探していた様子や、日常に沸き起こっている事象の全てが新鮮に受け止められていることを改めて思い出す。
井川さんという女の子はその後に彼女が大学を退学をしてから直接会ってはいないが、その後女優としてデビューし、数年後には20歳程年上の小説家と結婚したというニュースを聞く。
その後ネット時代になって名前を検索してみると、彼女のWEBサイトがあり、メールをしたことで返事があり、彼女が元気であることを知る。ありがたいことに私の事も記憶していてくれていた。子供さんもいて元気そうだった。

私にとって4月から始まった大学生活は、実質的な学問の場ではなくて、社交の場となってしまっていた。それでも私の人格形成においてこの時間はとても大切な時間であった事は疑いようがないです。
しかし1978年を振り返ってみると、自分の変わらない部分、変わった部分が非常に俯瞰して分かった気がします。
これは同世代の方に共通しているだろう、自分の内面に生き続ける少年性と、成長して社会に適用した大人としての自分とのせめぎ合い、対立、融合してゆく過程は苦しくもあり、楽しくもあり、不思議なものであります。

前述したように私は大学試験には落ち、推薦で入学。大学のレベルも大して高くない、そんな人間がその後どうなったか・・。
音楽業界に約20年在籍。様々な音楽作品作りの現場に携わり、作曲、編曲、シンセプログラミングなどもやったが、結果的にはまあまあのレベルで終了。その後、何故か一部上場会社に転職し、韓国ドラマブームの一翼に乗って事業が大きくなり、その成果でプロパーを差し置いて管理職になった。この会社への入社は、知り合いの伝手だったので、裏口入学みたいな感じだが、他の社員の大学のレベルを考えると私が管理職の中で一番偏差値が低いんじゃないと思ったりもした。そういう意味で、私の人生は常に正面突破ではなく、裏口ばかりだったような気がする。それにしては頑張った方だろうかねえ??

大変に数少ないとは思うのですが、こんな私的で個人的な長尺の文章に付き合ってくださってありがとうございました。
せめて1978年という時代の伊吹を感じ、共有して頂ければと思い記載をした次第です。

                                       20071029日 初稿

2016年12月21日 改定

2017年4月25日 一部追加改定 


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