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音楽業界の苦境は乗り越えられるのか? [音楽に関わるブログ]



音楽業界の苦境は乗り越えられるのか?





時代の流れというのは恐ろしいものだ。そして一度流れ出した時代の変化は誰にも止めようがない。



「音楽業界」。



私も20年余りを過ごし、今でも一番好きな業界だ。



アナログレコード、CDと音楽メディアの変化はあったが、パッケージビジネスモデルは50年近く変化がなかった。



2000年代アップルがituneを出すまでは…。



2015年、ituneitune
music
に、そしてLine MusicAWA、スポティファイなど音楽配信サービスが最後のパッケージビジネスの聖地日本を直撃している。
しかし2015年10月に入手したある情報によれば、Line Musicは、無料会員ID800万加入に対して課金IDは15万件(1.8%)、AWAに至っては、無料会員ID300万加入に対して課金IDは3000件(0.01%)だったという。JASRACなんかも配信サービスによる伸びでの印税収入を期待していた向きがあるが、これでは期待に応える事は難しいだろう。配信サービスという最後の切り札も日本のマーケットで成立しない雲行きになると、音楽業界の生き残りはかなり厳しい様相に見える。



そういえば先日NHKクロズアップ現代で以下の特集を放送していた。

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「あなたは音楽をどう愛す? ~新・配信ビジネスの衝撃~」



http://www.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail_3681.html





ここには私に知人も多く出演していたが、全体的な印象として音楽産業はまだまだ未来があるという感じの演出だった。

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ところで改めてだが現代の音楽産業って一般ビジネス的な視点で見るとどの程度の産業なんだろう?と



2014年度の音楽ソフトだが、生産レベルで約2500億円程度だ。音楽ビデオは約677億円程度。音楽配信が約430億円。(日本レコード協会調べ)

合計で3200億円。(生産レベルなので実売上はこれ以下だ。多分7割程度だろう)

これにライブエンタ産業の約2700億円、JASRAC(日本音楽著作権協会)が約1000億円を加えて総額約7000億円。



これが現在の音楽業界のだいたいマーケットサイズだ。昔レコード産業は、豆腐産業と同じなんて言われ方もしていたが今はそれ以下だ。



ちなみに約7000億円は、1997年のピークだったレコード産業だけの生産額とほぼ同じだ。当時は周辺ビジネスを入れて約1兆円近くはあったのだろうかと思うが、ここ20年で確実に市場サイズは縮小していることが分かる。

業界は違うが2014年のトヨタの売上は2兆円、ソニー辺りだと連結だが8兆円以上ある。

現在の音楽産業はそれらの数分の一のサイズに過ぎず、そこに様々な人間(財務系の人たちはプレイヤーというが・・)が無数に関わっているというのが実態だ。(どの程度の人間が関わっているかは勘定出来ない)





こういう狭くて過酷なマーケットで生きていると確実に発生する事案がある。



格差だ。勝組と負け組が鮮明になる。確実に中間層がいなくなるのだ。



サザン、ミスチル、B’z、嵐、AKBなど我々が良く知っているような人たちで、アリーナクラスやホール級を間違いなく埋められるようなアーティストは実際のところ、極々一部だ。

他の人たちは良くてもZEPP級、もしくはそれ以下だ。

場合によっては街場のライブハウスをツアーしている人だっている。それでもライブハウスで客が埋まればまだまだ良い方だろう。

ここ20年間の音楽ビジネスモデルの変化は、ミュージシャンや周辺関係者の収入構造に大きな変化をもたらした。

つまり印税だ。

これまでパッケージに関連する印税収入によって時間的モラトリアムを得ることで次の作品を作るエネルギーや金を得ていたが、それが無くなり収入と時間の両方を一挙に失ってしまった。

ここ数年ライブビジネスが急激に成長した理由は、ミュージシャンたちにとって日銭を稼ぐ方法がこれしかないからだ。当然キャパの大きな場所で演奏すれば、効率的に対価を得られる。それでもアリーナ級を埋められるのは一部に限られるし、ホール級で全国ツアーして動員できるアーティストも同様だ。

ライブは興行なのでリスクがある。客が埋まらなければ損を出す事だって覚悟しなければならない。

またミュージシャンの収入がライブ活動によるものが主になるということは、知的集約型から労働集約型の比率が高くなったという事になる。



こうした変化はミュージシャンに暗い影を落としている。

NHK
クロズアップ現代でも取り上げていたが、売れる音楽の多様性が本当に無くなってしまった。理由はパッケージモデルの崩壊で、レコード会社が多様なミュージシャンに投資できる環境が無くなったからだ。



音楽は趣味嗜好が強いため多様性の確保が重要だ。しかしビジネスモデルの変化で新人に時間と金をつぎ込めなくなり、レコードメーカーは苦境にたっている。また新しい才能も以前ならデビューしてチャンスをつかめることが出来た素材も現在では自力で世に才能を問う事を迫られている。





私が音楽業界に入った1980年代、音楽産業は成長軌道にあり、多くのミュージシャンが華を添えていた。才能が才能を呼び、Center Of Universeという気分にさせてくれるような時代だった。レコード会社はある意味ドンブリ勘定な部分が多く、売れているミュージシャンとまあまあ売れているミュージシャンの利益を未来の才能につぎ込む余裕があった。

様々な企画を持ったレーベルを立ち上げて色々な音楽分野に挑戦を了としていた。それは当時のレコード会社が全般的に売れているミュージシャンの金を再投資出来たからだ。

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1950年代から始まったロックンロールブーム以降既に65年余りが経過し、ロック、ポピュラーミュージックは殆どの音楽形体が出尽くした感がある。もちろん時代を背負う若い連中が新しい解釈を加えて世に問う方法は変わらずあるだろう。

表現者が変わり、過去を知らない人たちには“新しい”と映るに違いない。

しかし、私のような世代には、いつか来た道だし、若い連中には「新発見」ではなく、「再発見」でしかない。

飽和し、成熟した領域では伸び代を探すのが難しい。また少子化の影響は相当あると思う。1947年から3年間に生まれた団塊の世代は約800万人余だ。比較して現代では2015年までの3年間に生まれ世代は400万人余だ。約半分程度だ。当然特殊な能力が生まれる確率も半分以下になる。



現代の音楽業界に息苦しさは、そこら辺りにも原因があるのだろう。



クロズアップ現代ではクラウドファンディングを利用した音楽活動サポートモデルを紹介していたが、あのやり方で音楽を職業として一生やり続けるのは至難の業だろう。



かつてのヨーロッパでは、宮廷が芸術家のスポンサー役だった。損得のない世界だったため、多大な文化への貢献をした。

やがて音楽が大衆をスポンサーにして成り立ってきたのはレコードの発展と時を同じくした時期以降だ。

音楽家にしろ噺家にしろ「芸」を売り物にする職種は、自分の芸を大衆に向けて発信し、対価を得なければ成立しない。

そういう意味で、対価を得られる「芸」もしくは「芸風」でなければ職業には出来ないとも言える。





数十年前、ミュージシャンになる人の動機の多くには一旗揚げる=有名になって金持ちになるというのが一般的なものだった。もちろんそれだけじゃなく、純粋に音楽を突き詰めて生きて行きたいという人もいた。そしてそのどちらも許容できるビジネス規模が存在していた。



私の時代に比べてミュージシャンを目指す門戸は相当狭い。実際私の周辺にも路頭の迷っているのか音楽やっているのか分からない人びとが無数にいる。

そういう人たちに対して私はかなり複雑な気持ちになる。



50
年後、音楽産業があるだろうとは思う。しかしその時代の音楽産業には対価を払うべきアーティストがどの程度残っているのかは懐疑的だ。ひょっとしたら50年後は“アーティストが人間ではないかもしれない”とも思っている。でもやはり、「人間業」だからこそ感動も深い。

仮に人工知能が奏でる音楽が素晴らしくても、アルゴリズムが導き出したとすれば、興ざめするだろうことは疑いないだろう。

そういう時代が来ない事を祈るばかりだ。

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消費財となりつつある音楽の行方 ~LINE MUSIC、AWAを使用してみて [音楽に関わるブログ]



消費財となりつつある音楽の行方 ~LINE MUSICAWAを使用してみて


最近珍しく買った本がある。「スタジオの音が聴こえる 名盤を生んだスタジオ、コンソール&エンジニア」。

著者は高橋健太郎氏。

スタジオの音が聴こえる 名盤を生んだスタジオ、コンソール&エンジニア

スタジオの音が聴こえる 名盤を生んだスタジオ、コンソール&エンジニア

  • 作者: 高橋健太郎
  • 出版社/メーカー: DU BOOKS
  • 発売日: 2015/06/05
  • メディア: 単行本


 

実に音楽愛の籠った著書だ。世界中の主要なレコーディングスタジオを取材し、そこで生み出された名盤の数々の背景を、レコーディングスタジオや機材、エンジニアという普段光の当たらない視点から語っているちょっとマニアックな本だ。一般の人には興味を持たれないだろうが、元々スタジオ生活が長かった私には、これほど機微に響く本も数少なく、貪るようにして読んだ。
そして私が生きた時代に生み出された(過去形という所に注目)音楽の数々が、本当に個性的なミュージシャンや録音スタッフ、環境によって支えられていた事がハッキリ理解出来た。

当時の音楽クリエイターやスタッフたちが、コンソールにしろ、録音環境にしろ自分たちの音作りに邁進していた事が分かる。

70年代以降の日本の音楽生産現場では、どうしてもレコード会社が用意する試験管的で整理整頓された環境で録音する傾向が強かったと思うが、海外の場合、教会であったり普通の部屋であったりと、ともすると余りレコーディングに向かないような雑音の入りやすい環境で録音する連中も結構多かった事が分かる。彼らの目的ははっきりしていて他の連中とは違う音を探していた結果としてそういう場所でのレコーディングをしていたのだ。



また、いわゆるレコーディング・スタジオという環境の整った場所においても、10ccの「I’m not in love」にみられるような過去に例を見ない方法によってサウンドを構築する連中も出てきており、「音楽とサウンドの個性化」こそが全てだった。



日本においてもそういう傾向をもった人たちがいなかった訳ではない。しかしそういう個性的な音を嗜好する人々は、大抵の場合規定のメジャー路線の上には存在しなかった。大滝詠一、細野晴臣氏らがいた「はっぴえんど」しかり、山下達郎氏のバンド「SUGER BABE」しかりで、個性的であるほど売れないというのが当時の日本の音楽環境だったと言える。また皮肉な事に彼らのほとんどは、メジャー路線の音楽の土台を支えるような位置で活動を続けていた。



しかし1980年にYMOがブレークすることで、70年代音楽業界の裏でくすぶっていたマニアック系なミュージシャンが次々と一般音楽市場で頭角を現し、彼らが培ってきたマニアックな音楽が一般人の耳にも馴染む時代が到来する。大滝詠一の「A LONG VACATION」、山下達郎氏の「RIDE ON TIME」、高中正義氏の「Blue Lagoon(正確には1979年発売)」など裏方だった彼らが華々しく日本の音楽の表舞台を彩った。当時のレコーディング風景はまさに実験室と言ってもよく、ありとあらゆるアイデアを使って過去にも他にも無いサウンドを追及していた時代だった。そうしたエネルギーは音楽に集約されレコード音源として今に伝わっている。



さて、2015年になり、LINE MUSICAWAApple
Music
などの音楽配信サービスが立て続けにサービススタートした(小洒落た会社はこれを”ローンチ”なんて言いやがる)。



私もLINE MUSICAWAのアプリをダウンロードし、実際に使ってみた。私にとってこれらのアプリの良い点だなと思ったのは、自分の音楽嗜好のアンテナには普段引っかかる事がないような音楽に容易で手軽に触れる機会を持てるという点だ。

ちょうどそんな時期、NHK総合のクローズアップ現代で「あなたは音楽をどう愛す?
~新・配信ビジネスの衝撃~」というタイトルの番組が放送される。見てみると知り合いが沢山出演し、コメントをしていた。いずれにピーク時の日本の音楽産業を支えてきた重鎮ばかりだ。
その内容は以下で全て読む事が出来る。

http://www.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail02_3681_1.html



この番組が語っていたのは、配信というビジネスでミュージシャンは糧を得て、次の作品を生み出せるのだろうか?という点だ。
解説のピーター・バラカン氏は、以下のように語っている。

「結局、インターネットでタダで聴けるっていうことが可能になったときに、もちろんみんなそういうのを利用するようになったんですね。実は昔、ラジオを聴いてれば音楽をただで聴くことができたんですよ。
そういう意味では何もたぶん変わってないと思うんですね。それともう1つ、図書館というのがありますよね。
住民税を払っていれば自分の住んでる所の図書館は自由に使えるわけですから、本も読めるし、CDも聴けるし、ビデオも見られますし。
そういうものだから、無料で音楽を楽しむことは昔からできたんですね。
そういう意味ではあまり変わってないと思います。」

なるほど・・と思った。しかし変わった事が1つある。昔はそれらがパッケージ購入に繋がっていた。

1つ気になったのは、LINE MUSIC内でリスト化されている様々な曲には、お気に入りの数を示す数値を見る事が出来るようになっているが、明らかに数値の多いアーティストは、現在旬であるアーティストだけだ。私のようなロック嗜好の人間が聞きたいようなアーティストの所に見える数値は限りなく小さい。つまりLINE MUSICAWAなどの配信音楽の聞き手の多くは、そういう聞き方が刷り込まれている3035歳以下の世代が中心だろうと推察されるのだ。





音楽視聴の世界ではここの断絶が大きいと思っている。従って作り手の想いをどこまで創造してくみ取れるかどうかもそれに依存するだろうと想像できる。



いわゆる団塊~40代後半に集中するロック世代は、少なくともアナログレコードが主流だった1988年までに音楽を嗜好し、その後CDの時代を経て嗜好や聞き方を固定している。最近出た学説では、35歳までに体験した音楽の嗜好や聞き方は一生変わらないそうだ。



そういう意味で、2015年以降の音楽嗜好者は我々とは全く音楽への向き合い方が違うのだ。

つまり「音楽+時代+アナログ盤・CD盤というモノとして捉えられた世代」から、「音楽データ世代」に変革したからだ。

「唄は世に連れ世は唄に連れ」なんて言われて久しいが、音楽配信の時代になると時代を映す音楽の顔は見えにくい。



LINE MUSICAWAを使って感じるのは、自分専用の音楽ラジオという風情なのだ。FMから流れてくる聞きたくもない音楽を聞かずに自分の嗜好に会った音楽に手軽に接する事が出来る反面、音楽そのものが出来るまでの背景や心情に深く入る事が難しい。理由は簡単で、そうした制作に関わる人や場所の情報が殆ど見当たらないからだ。

特にアナログ盤やCD盤のような物理的接触が持てないため、音楽や音楽に付属するモノと時代や自分の心象風景を己の記憶に刷り込む行為は希薄になりがちだ。



しかし音楽配信で音楽を聴くのが当たり前の世代にとってそうした事はどうでもいいのかもしれない。



つまり音楽は単純な消費財となりつつあるのだ。



音楽制作現場を知るものとしては悲しい現実だ。

音楽を作るためには莫大な時間と金、エネルギーが必要だ。それが消費財化するとすればどんな動機で音楽を作れるというのだろう?



加えてLINE MUSICAWAApple
Music
などはミュージシャンへの印税還元率が低い。相当数聞かれないとまとまった金にならないのだ。ある試算によればYOU TUBEで500万円を稼ぐには1億回の視聴が必要だという。
芸術と金の関係性は微妙な問題だが、金にならなければ現代社会ではその活動を継続できない。


基本的に芸術とは人間の生活必需品じゃない。従って古来よりパトロンによって活動が維持されてしてきた歴史がある。

近代になりビジネス化することでパトロンの役割は消費者が担ってきた。レコード業界にとってパッケージビジネス・モデルはより良く機能し、それによってクリエイターにも一定の益をもたらした。パッケージビジネス・モデルは一定の金銭価値を付加出来た。
実際、3000円のCDが市場で一枚売れるとレコード会社には1500円強が売りあがる。
2000万円の原盤費用と2000万円の宣伝費にジャケット制作費500万円を原価とし、1枚当たりの原価は450円だ。また著作権使用印税180円とアーティスト等印税3%分(90円)を合算して差し引くと、670円が残る。この原価に対する損益分岐ポイントは約6.7万枚だ。原盤、宣伝、ジャケット費用をもっと下げれば損益分岐ポイントは大幅に下がる。そしてこれを超えた部分からは、レコード会社は殆ど原価ゼロに近くなり、お札を刷っているのと同じ状態になる。
パッケージビジネスの強みは、レコード会社が一定の楽曲数をまとめて売ることが出来た点と付加価値を管理できる点にあった。
しかし配信によってそれらは全て奪われてしまった。

メーカーの利鞘は次の新人発掘や音楽制作への投資の根拠になった。(もちろんレコード会社のディレクターがミュージシャンを口実に経費を散在する根拠にもなったが・・・)
しかし時代の変化と共にビジネスモデルが変化し、商品としての音楽が無防備な丸裸になり、そのため消費性向をも変えてしまった。

こうした観点から、個人的には「音楽が不活性化する時代」に入ってくると思う。


音楽に限らず芸術的な才能の開花には一定数の参加者が必要だ。一定数の参加者数は、その分野でキチンと食える可能性があるという事が前提だ。金銭的にメリットが伴わないとして参加者数が減れば、才能の開花する確率は確実に減る。確率は減れば芸術の質は自然と低下する。質の低下はやがてサービスの維持を困難にするため保守的になり、画一的な音楽ばかりが世に出回るだろうと想像する。



そういう意味で自分が最近聞いているのは1950年代~1970年代が多い。自分が多感だった時よりちょっと前の時代の音楽だ。実際知らない曲だらけだが実に魅力的だ。当時の独特な音楽は今でも興味深いし才能の宝庫の集積は時代を経ても色褪せない。またそういう音楽の殆どは、高橋氏の著書の中で語られている場所で作られているのだ。



時代の様々変化は仕方ないが、人間というアナログ動物との整合性は常に気を配るべきだろう。



主観的物言いで申し訳ないが利便性によって失うものだってある。不便だった時の方が豊かだったりもすることも多い。



私は、LINE MUSICAWAなどのサービスを運営する人たちに音楽文化を豊かにするツールであるように設計して欲しいと願っている。金儲けのツールだけに特化するならさっさと撤退して欲しい。それはやがて自分たちのビジネスモデルを疲弊させることになる。



だって彼らのセールスポイントの中心を担っているは、「音楽」だし、それを生み出しているのは「クリエイター」なんだから。


参考記事-1:

そんな記事を出していたらNHKのクローズアップ現代で、「あなたは音楽をどう愛す? ~新・配信ビジネスの衝撃~」という特集を組んで放送をする(2015年7月7日 夜)ことになっていた。私にしては意外とタイムリーな記事をアップしていたんだな・・なんて思ったが、元同僚のピーター・バラカン氏のコメントが興味を引くことになるだろう。

参考記事-2:

この記事も興味深かった。
「1曲聞くと何MB?Apple MUSIC / AWA / LINE MUSICの通信量を調べてみた」
http://www.appps.jp/175088/


私の結論:

ストリーミングサービスでの音楽を楽しむためには物理的制約(通信料と通信量と通信環境)のハードルが結構高い。もちろん多くの音楽(特に新曲)にアクセスできる利便性は良いと思うが、現状では自分の好きなアーティストが全く聞けないケースもかなりあり、個人的にはipodに戻してくれないかな・・・という感じ。(まあ時代ですから無理でしょうな・・・)
いまさらだが、SONYのWALKMANにしようかな・・とも思っている。

 

 






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マイケル・ジャクソンの名作“Beat it”のデモ音源にまつわる秘話 [音楽に関わるブログ]

Beat It.jpg
 

マイケル・ジャクソンの名作“Beat it”のデモ音源:

http://lacienegasmiled.tumblr.com/post/77598143356/as-jackson-couldnt-fluently-play-any-instruments



マイケル・ジャクソンは稀代の天才ミュージシャンだったが、一般的にはアイドル扱いだった。彼の奇行と才能は、その評価を二分するものだったかもしれない。
彼の最期のパフォーマンスを記録した映画“This is it”を見るまでもなく、ダンスエンターテインメントの先駆者とも言える彼は、ライブで実際に唄い踊っていた。1987年のBAD TOURを後楽園球場で見た時も、彼がリアルに唄って踊っているのが分かった。昨今の口パクライブをやっている連中に爪の垢を煎じて飲んでもらいたいが、あれだけのダンスをしながらでも唄える人は唄えるのだ。
今回、マイケル・ジャクソンの名作“Beat it”のデモ音源がネットに公開され、話題になっているのだが、実際彼のデモを聞くと、その才能に驚愕させられる。この音源を唄っているのは全て彼のようだ。以下に紹介するレコーディング・エンジニアのコメントを読むと更に驚くが、マイケル・ジャクソンがそんじょそこらのアイドルとは一線を画す人物だった良く分かる。有り余るほどの才能を持った彼だからこそ苦悩も多かったのかもしれないが、このデモを聞いた時、彼の凄さの一端に触れた気がするのだ。


(レコーディング・エンジニアのコメント)

マイケル・ジャクソンは楽器の演奏に長けていなかったため、彼の作った曲がどのようなサウンドになるかを彼自身によるリズムや唄で表現し、楽器によって演奏され曲が完成する以前の段階で何層ものボーカル、ハーモニーやリズムを入れたデモテープを残した。

マイケルのレコーディング・エンジニアの1人であるロボミックスがマイケルの作業の様子を語っている。
「ある朝マイケルが徹夜で書いたこの新しい曲を持ってやってきたんだ。そしてギターの演奏者を呼んだのさ。マイケルは演奏して欲しい全てのコードと音符を唄って聴かせたんだ。“これが最初のコードの最初の音、次の音、その次の音” “それで次のコードの最初の音はこれ、2番目はこれ、3番目はこれ” って具合にね。やがて我々はシュアー製のSM57と言うマイクを通じて、彼の心の底から滲み出るような深遠なヴォーカルパーフォーマンスをコントロール・ルームで目撃することになったんだ。彼は我々に全てのストリングスのアレンジを唄って聴かせたんだ。全てのパートだよ。以前スティーブ・ポーカロ(TOTOのメンバー)の目撃談を教えてくれたことがあるんだが、マイケルは、ストリングスのアレンジを、ヘッドアレンジでやっていたのを見たと言っていたんだ。ハーモニーなどの全てだそうだ。8小節をループにするような小さな単位のものじゃなく、文字通り楽曲全体のアレンジを唄で表現してアレンジしマイクロカセットレコードに吹き込でおくそうなんだ。だから人々がマイケルの事をアイドル扱いしてミュージシャンじゃないと言っているのを聞いて笑っていたよ。」

Beat It:
https://www.youtube.com/watch?v=Ym0hZG-zNOk



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音楽という魔法と現実のミュージシャン生活の展望/ミュージシャンを職業とする事とは? [音楽に関わるブログ]

今後の音楽産業展望(2014325日記載/2017年1月6日追記)

 

戦後に誕生した日本の音楽産業は、60年余りを経て変貌中だ。ituneの出現でパッケージビジネスモデルが崩壊。2016年末、ユニバーサルミュージックが山崎まさよし氏や秦基博氏を要するオフィスオーガスタを子会社化した。オフィスオーガスタの創業者は化粧品事業に集中したかったようで、芸能部門の引き取り手を探していたと聞く。オーガスタの社員の多くは40代と聞くため、外資系メーカーに移籍した事で数年でその命運が変わるだろうと思われる。また所属アーティストもこれまでのように創業者が守ってくれないだろうから、売上のない順に契約を切られる運命だ。
レコードメーカーが既存の事務所のM&Aしたケースは日本ではこれまで殆ど類がない。そもそもオフィスオーガスタに食い込んでいたのはソニーミュージック系のアリオラというレーベルだが(秦基博氏がレーベルに所属している)、どうやら長期に検討をしていたという情報もあるが、オーガスタやソニー内の条件が合わなかったという見方が有力である。当然アリオラから稼ぎ頭が消える訳だから彼らによって生じる売上利益の穴埋めが課題になる。
またオーガスタ側も後継者問題を抱えているという事情もあるようだ。これはオーガスタだけの問題ではないであろうが、オフィスオーガスタには適切な後継者が育っておらず資本規模の大きい法人に身売りをした方が存続できると判断したのかもしれない。これはオーナー経営者による芸能事務所の抱える普遍的問題だろう。
いずれにしても、現代のレコードメーカーは産業構造を大幅に変貌しなければならなくなっている。流通と宣伝力を除くとメジャーと呼ばれるレコードメーカーの優位性はかつてを比較して無くなってきているからだ。夜の本気ダンスや4 Limited Sazabys辺りの活動を見ていると、もはやメジャーレーベルが音楽業界の中心でないことは明らかだ。1970年代の日本のロックがアーティストやスタッフによる自主興行をしつつ、レコードメーカーがそれに乗っかるという経緯で発展した現象が現代に起こっている。夜の本気ダンスや4 Limited Sazabysはその周辺にロック仲間を形成しており、自主興行によって動員を伸ばし、固定ファンを獲得している。ロックの本質的な在り様を考えれば、夜の本気ダンスや4 Limited Sazabys辺りのミュージシャンの生き方は「先祖返り」していると言って良いだろう。

さて、夜の本気ダンスや4 Limited Sazabysの大先輩となる日本のロック・フォーク系ミュージシャンの中ではデビュー30~40周年を超える人たちも出てきている。それらを華々しく迎えられる人たちもいれば、地方のライブハウスで迎える人たちもいるし引退同然の人も多い。そんな人間模様は悲喜こもごもをしているが、それでもそれぞれの人たちがそれぞれのレベルで活動を継続出来ている事は素晴らしいと言える。

実際、ミュージシャンに憧れる若い人たちの殆どは、売れて有名になって金持ちになりたいという俗人的な動機が多いだろうし、それが普通だ。
しかし、ミュージシャンは売れてから人生を全うするまでミュージシャンで在り続けられるかの方が明らかにハードルが高い。
1ところで、947年生まれで現在(2017年現在で70歳)でも確実に一線級で活躍していると言い切れるミュージシャンは何人いると思われますか? 調べてみました。2名です。細野晴臣氏と小田和正氏だ。ひょっとしたら他にもいるかもしれないが、ネットで調べても彼ら以外には知らない名前が出てくるだけだった。小田和正氏はアリーナ級のツアーをやっているし、細野氏も作家活動も旺盛で、またツアーミュージシャンとしても十分集客している。
1947年の出生数は約260万人。仮に男女半々として、男子130万人だ。つまり、この2名は65万分の1の確立で生まれた天才ということになる。ちなみに翌年の1948年を調べると、故・大瀧詠一氏、谷村新司氏、井上陽水氏辺りとなる。かように長期に渡って活躍し現役でいられるミュージシャンが出現する確率とはこの様に小さいものだと分かる。飛び抜けた才能ってこの位の確率でしか出現しないものなのです。

プロ以下アマ以上の才能の人たちは、30代後半から活動そのものが厳しくなり、40歳を待たずして殆どが生活に行き詰る。このレベルだと、額面月収30万円も厳しいだろう。サラリーマンと違って自営業者のミュージシャンで額面月収30万円は、サラリーマンで言えば額面月収20万円以下程度に等しい。またこのレベルだと殆どは音楽だけでは食えない。
ピンキリ的に表現した場合、ピンは音楽以外にメディア出演や執筆、講師(ピアノの先生なんかを含む)活動、講演活動などで補えれば相当良い方だ。キリとなると、音楽活動自体が副業となる。それでも人生を掛けてミュージシャンになろうという人たちが数多く居なければ、我々がその才能に接する事も少なくなる。
先日、80年に大ヒット作の「ペガサスの朝」を出した五十嵐浩晃氏の取材を間接的にしたのだが、彼のコメントは非常に含蓄があった。
彼はヒット量産のメジャー音楽システムに翻弄され、十二指腸潰瘍になって数年のブランクを経験したという。そしてそれがキッカケで一旦地元の札幌に戻ったそうだ。周囲は都落ちしたと感じただろうが、自分には今考えても適切な判断だったと語っている。
札幌で落ち着いた生活を得てからは書けなかった曲も自然と書けるようになり、改めてメジャーレーベルとの契約を始めたが、基盤は札幌に残したらしい。
その後彼は北海道を起点にした活動に変え、その後30年近く、音楽関係の活動意外にも講演、解説(将棋)、執筆などで生活しているという。彼の発言の中で、「90年代、町内のお祭りに出演してでも唄っていた時、友人から五十嵐がお祭りで唄うの?なんて言われた事があったが、他に(自分は今更)何して食って行くんだよ!!」とい気持ちがあったと語ってくれた。
彼のこの言葉の中に、音楽で食い続ける事の難しさと、続けるための胆力を見た想いがした。池田聡さんという80年代に多くのヒットを出した彼出さえも、スケジュールの大半は、地方のライブハウスもしくはライブカフェでの活動だ。
しかし彼らは昨今増え始めているローカル型ミュージシャンの走りとも言える。その前にそれを始めたのが熊本を拠点に変えた南こうせつ氏だが、東京を起点に活動するミュージシャンとローカル型ミュージシャンという形態は、ネット時代になりツイキャスなどの影響もあって今後一層明確化してゆくのだろう。

そこで今後の音楽産業の在り方を大胆に予想してみたい。
(予想なので各位の意見の違いはご了承ください)

<!--[if !supportLists]-->(1)<!--[endif]-->今後10年以内に日本のレコードメーカーは大手4社に集約される。残るのはソニー、ユニバーサル、エイベックス、ワーナー。他はこの4社の傘下に入るか、部門化するだろう。

<!--[if !supportLists]-->(2)<!--[endif]-->メジャーレコードメーカーに籍を置きながら、全国規模に影響を持てるメジャーアーティストと地元に住み、地元を根城にして活躍するローカルアーティスト二極化する。この中間的存在は殆ど希薄化し、長期生存は出来ない。メジャー系は最低でもホール以上のツアーが出来るアーティストが主流となり、全国ツアーで数万人単位の動員が最低ラインとなる。一方ローカルアーティストは、地元店舗、商業施設、公的イベントや公的施設などを中心にした活動が中心となる。いずれにしてもライブ演奏の出来ないアーティストは生き残れない。

<!--[if !supportLists]-->(3)<!--[endif]-->ローカルアーティスト市場の拡大により、狭いマーケットに新たな競争原理が発生するため、ローカルアーティストの生存競争が一段と激しくなる。従って長期に活躍出来る極僅かな人間と、出ては消える新人~中堅クラスの新陳代謝が起こる。

<!--[if !supportLists]-->(4)<!--[endif]-->ローカルアーティストは参入障壁が低いため、見込みの甘い連中が挑戦してくる事が考えられ玉石混合となる。そのため若い連中でこの分野に挑戦するが、30歳中盤で行き詰まり、自立していないがために辞める判断が遅くなり、転職等の方向転換するにも一般社内への復帰が困難であるため、中年ニート、引きこもり、パラサイトなどの社会の重荷になるような人間を多数産み出すマイナス面を秘めている。

<!--[if !supportLists]-->(5)<!--[endif]-->ローカルアーティストの生存にはニッチでAURPの高い固定客(もしくはスポンサー)をどの程度長期に渡って掴む事が出来るかが勝負となる。但し、ローカルアーティストもメジャーと同様で30年を超えて活動出来る人間は極々僅か。

<!--[if !supportLists]-->(6)<!--[endif]-->メジャーレーベルの中には、ローカルアーティストのメジャー化を図る動きが出るだろうが、多くは地方での活躍を選択し、メジャーでの活躍に依存しない形を取るだろう。

<!--[if !supportLists]-->(7)<!--[endif]-->ローカルアーティストは地方で起こったゆるキャラ市場のような全国的なランク付けをする動きが出るだろう。しかし、ゆるキャラと違い、ローカルアーティストは人間なので、そこで一抜け出来ないと生活そのものに影響をするだろう。

<!--[if !supportLists]-->(8)<!--[endif]-->ローカルアーティストは、音楽活動だけでは殆ど食えない。地元のメディア出演、ネット配信による広告収入、執筆、講演活動、ファンクラブ、イベント制作、など、様々な活動をミックスする必要がある。また自分自身で仕事を生み出す企画提案力が必要となるだろう。
こうした活動を通じて人脈や仕事関係を構築し、長期活動に耐性を作る必要がある。また殆どの場合、受け仕事の選好みは不可能。

<!--[if !supportLists]-->(9)<!--[endif]-->ローカルアーティストが長期活動に耐性を作る場合、年齢の若い時期のキャリアにおいて、一定程度大きな予算のついたイベントやコンサートなどの業務に携わる経験をした方が良い。大きな予算の仕事には多くの人間が関わり、複雑な工程を経るため仕事のレベルも高くなる。その経験や失敗が必ず次の仕事の肥やしになる。

<!--[if !supportLists]-->(10)                <!--[endif]-->今後音楽は、殆ど消費財のような使われ方をするだろう。消費財からの脱却は、今のところ生身と芸を見せるライブで対抗するしかない。デジタル化による音源の消費財化は弊害だが、音楽は原点に戻っているとも言える。ネット配信による広告収入を期待する向きもあるが、これで食うためには日々アクセスを大量に得られる企画を生み出し、送り続けなければならない。これがどれ程大変かはやってみれば分かるし現実的には不可能だ。
結局完全な個性と価値はライブに集約し、まともに唄えない歌手やミュージシャン崩れは、ファンタジーの想像と提供をすることが条件となるだろう。

メジャーであろうがローカルであろうが、「芸」で飯を食うのは非常に高度な能力と生き残りのための戦略が必要だ。ネット社会になって、自分の作品を他人の目に触れさせる事が容易になった時代だからこそ、偽物は消費すらされずに消えて行くだろう。
芸をマネタイズするためには、まず本物の芸力が必要だ。20代でこれを読んでいる方にはピンと来ないかもしれないが、30年から40年を自分の芸力によって支えて生きて行くというのは、実際尋常な事ではない。我々が普段テレビやメディアを通じて知っている有名ミュージシャンというのは、実は非常に稀な才能の集団なのだ。
自分自身にその力があるかどうかは、経験と反応によって確かめて行くしかない。地元に住んで活動している場合、殆どが完全な経済的自立をしていないため、自ら辞めるという判断に行きつき難い。

「自分の才能に気がつくのも才能の内」と言われた事があるが、まさにその通りだと思っている。
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代中盤までにデビューし、売れないまま契約終了となり、それでも音楽活動を続けている人々は意外な程多い。彼らの生活実態を統計的に計測したデータが無いので、正確なコメントが出来ないが、同世代のサラリーマン所得を上回っている人たちは殆ど皆無だろう。
音楽は麻薬と似ている。音楽は余りにも素晴らしい。音楽の麻薬による魔法が解けないまま人生を台無しにする人も多い。私の周囲にもそういう人は多い。でもその魔法を解く事が出来るのは自分自身だけなのだ。サラリーマンをやりながらでもリッチが音楽生活を満喫できる道もある。
プロミュージシャンの道というのは、本当に特別な才能を持続出来る人のみに与えられたものなのだ。また、かなりのレベル才能を持った人でも、40歳代を迎えて活動が厳しくなる人が多く出てくる。私は、自分の理想と現実のギャップに苦しみ、逃れるように酒を煽り、50歳を目の前に亡くなった人も知っている。天才と謳われた宇多田ひかるも、いつの間にか活動が停止しているし(2016年やっと再開)、サザンやミスチルほどでも、数年を1サイクルにするような活動に変化する。(桑田さんはずっと走り続けているが・・・)
一流スタジオミュージシャンと言われる人たちでも、狭い需要をせめぎ合う。だから、自分の立ち位置を自覚出来るかどうかも才能の内ということなのだ。

ミュージシャンに憧れている人たちは、この職業が命を削るほど過酷だと覚悟した上で、挑戦して欲しいと思う次第なのだ。

 

最近このようなブログ記事を読む機会があった。私にはちょっと複雑な気持ちがよぎった。それは職業ミュージシャンって奨学金を与えて育成する存在なのだろうか?ということだ。もし仮にそういうシステムを是とするにしても、それはかなり才能を選別された人たちへの援助であった方が良いだろうということだ。もちろん選別の裾野を広げるためにあえて奨学金というチャンスを与える方がいいという考え方もあるが、この辺りはちょっと難しい問題だなあ・・と感じた。と同時に現在のミュージシャンとはそういう事でもしないと生まれないほど産業構造が縮小し、魅力がなくなってしまっているとも言えるのかもしれない。レコード会社や映画会社に若い才能が入って来なくなったと聞くが、縮小産業に若い人が人生を掛けるはずもなく、それによって才能が出る確率が下がるのは悲しいが、もはや止めようがないもの事実だろう。やはりロック、ポップミュージックにとっては、80年代前半までが最高の時代だったと言えるかもしれない。

 

http://blog.livedoor.jp/monday_friday/archives/66316356.html 

 

 

プロミュージシャンになる方法と生活:

http://okguide.okwave.jp/guides/52856

元プロミュージシャンの実態を語ったもの:

http://badcat3547.blog35.fc2.com/blog-entry-23.html


レコーディングエンジニアが語るDerek & The Dominosの 'Layla' [音楽に関わるブログ]

Derek & The Dominos 'Layla'
Producers: Tom Dowd • Derek & The Dominos

 

エリック・クラプトンは1974年の初来日から2014年で40周年を迎えた。228日に行われた武道館でのライブは、彼の集大成ともいえる演奏を披露し、来場者の心に様々な人生模様を投影させた。ライブ後のクラプトンファンのオフ会に参加すると、初来日を見てから40年で通算160回も公演に通った人物や、世界中クラプトンを追っかけている人々に出会った。
その熱意に私は本当に圧倒された。



 

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2014年2月28日東京武道館最終公演
ドラムはSteve Gadd。
(撮影:H.K)


今回のライブでも、かの名曲”Layla”がアコースティックバージョンで演奏された。この曲がザ・ビートルズのジョージ・ハリスンの妻だったパティ・ボイドへの想いから書かれたというのはロックファンには余りにも有名な逸話だ。

 

 

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若かりし頃のパティー・ボイド
やっぱ当時の彼女はかなりカワイイ。

1991年クラプトンは、日本だけで開催されたツアーでジョージ・ハリスンと共演し、この曲をステージ上で一緒に演奏している。当時東京ドームでこのライブを見ていた私は、自分の元奥さんとの不倫をネタに唄う恋敵を、どんな感覚で同じステージに居たのやら?と想像していたものだった。
後に発売されたクラプトンの自伝に描かれているパティ・ボイドやハリスンとの関係は、部外者には理解を超えた所がある。
ある時期からパティ・ボイドとの関係に冷めていたハリスンだったとは言え、クラプトンが彼の妻に恋していることを告白されながらも友人関係を継続出来ていたのは、2人にしか分からない世界観や価値感があったのだろう。

この曲が出来た頃にクラプトンが在籍していたバンド、Derek and the Dominos(デレク&ザ・ドミノス)が、バンドの試運転時に出演したコンサートの紹介時に、司会のトニー・アシュトンの口からバンドの名前飛び出したことでなし崩し的に正式名称になったのは、ロックファンでは知る人の多い事実だろうが、この説にしても仔細微細には数バージョンあるようだ。
レイラへのDuane Allman(デュアン・オールマン)の参加は、マイアミにあったクリテリア・スタジオでレコーディングをやっていた時、プロデューサーのトム・ダウドに誘われオールマンブラザースバンドのライブを見に行った事がきっかけだったというのが通説だが、以下のインタビューを読んでみると時系列のニュアンスが異なっている点が面白い。

この時代にクラプトンが書いた作品は、本人が自伝で語るように殆どがパティ・ボイドに向けられものだ。当時のクラプトンは、ボイドにジョージと別れるように促していたというし、それが叶わない苛立ちを作品にぶつけていたとも自身で語っている。
以下のインタビューの翻訳は、当時のレコーディングに関わった人々の貴重な証言だ。中には音楽誌で認知済みの内容も多くあるが、知らなかった事実も同じく多い。
2人のエンジニアが1つのアルバムに関わっていた様子は興味深いし、トム・ダウドとの関係性も面白い。
またこのセッションで通説になっていた事実も、当時の現場にいた人間の仔細な証言によって通説とは異なっていたものも多い。そういう事を踏まえこの記録を残しておこうと思う。また彼らのコメントの中にはレコーディング業界の常識的な知識がないと理解出来ない部分も多いため、直訳ではなく、補完して訳に組み込んでいる場合があるが、予めご了承してほしい。
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リチャード・バンスキンは語る。(この人物について調べたが誰だか不明である)

いいだろう。例の話については知っているだろう。
エリックとジョージ・ハリスンは心を許し合った友人同士だった。一緒にギターを弾き、お互いのレコードにも参加している。ただ、エリックはジョージの妻で元モデルだったパティー・ボイドに夢中になり、混乱状態の最中に、音楽を通じたラブレターとも言えるこの曲を書き、彼の苦しみ、もがきを伝えようとしたんだ。

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この歌詞を読むと、12世紀、アゼルバイジャン人作家ニザーミーがある若者の報われる恋について描いた「
ライラとマジュヌーン」と、クラプトンが生み出したロック史最高のラブソングと言われる彼自身のレイラの間に同一性を見出せるだろう。
捉えどころのない恋人に対して “誰も君の側に居ない独りぼっちの時はどうしているだい?/ずっと隠れ廻って逃げ回ってないで そんなのはバカげたプライドじゃないか”と駆り立てるように切ない声で唄っている。

今の話ほど世間には知られていない事なのだが、実はこの曲は3つの別のパートに分かれて録音されている。クラプトンとDuane Allman(デュアン・オールマン)による名人芸とも言えるギターをフィーチャーした(2つの)部分、ドラマーのジム・ゴードンの作曲と演奏によるピアノのコーダ(後奏)部分だ。本質的にこれらは、芸術的即興による偶然の産物であり、ミュージシャンたちと彼らのバックヤードを支えるエクゼグティブ・プロデューサーであるトム・ダウド、兄弟のレコーディング・エンジニアである、ロンとハワード・アルバート、さらにカール・リチャードソン、チャック・カークパトリックとマック・エマーマンらとのコラボレーションの賜物だった。

 


クリテリア・スタジオでの遭遇:


トム・ダウドはロック、ポップ、ジャズ、ソウルミュージックやリズム&ブルーズのアーティストたち関わった伝説的なレコーディングエンジニアであり音楽プロデューサーだ。クラプトンと出会ったのはクリームの1967年のアルバム“Disraeli Gears”の時だ。
同じ年、14歳のロン・アルバートは、仕事を得るために16歳だと偽り、マイアミにあるマック・エマーマンのクリテリア・スタジオに行き、その直後、エンジニアのキャリアをスタートし始める。兄でミュージシャンのハワードは、以前からロンを自分のバンドの音響や照明の面倒を見させており、1969年にヴェトナム戦争従軍ら帰還すると弟の職場に潜り込んだ。


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Photo: Elliott Landy / Redferns
Eric Clapton performing live at the time of 'Layla'.

「サンフランシスコで陸軍を除隊になったんだ。そしてマイアミに戻る前、ニューヨークに飛んで結婚したのさ」ハワードはそう回想する。
「弟のロンがマイクの全リストを送ってきたので帰省途中、解説を読みながらマイクがどんな形をしているかなどを見ておいたんだ。それでスタジオに着いて直ぐにやった事は、今までのやり方を全部ひっくり返してしまうということだった。結果的にそれは功を奏したんだ」
「当時のレコーディング・エンジニアは、ドラムを録音する時、バスドラに1本、スネアに1本、オーバーヘッドマイク1本って具合だった。俺の場合はそういうやり方に反して、全てのシンバル、ドラムセットなど全てにマイキングをしたのさ。だってその方が道理に適っていたし、以前からそうするべきだったんだよ。それによって様々な実験的なマイキングを試すことになりドラムスティックにも立てたが、これは上手く行かなかったな」

「我々が幸運だったのは、クリテリア・スタジオにはマークっていう機械オタクが居た事だね」とロンが付け加える。
「彼はドイツ、オーストリアなどに旅行に行き、素晴らしいコンデンサーマイクを買い集めていたんだよ。でもこれらのマイクは基本的にストリングスやホーンといったオーケストラ用に使われていたんだ。俺達のようなロックのレコーディングには使用させてもらえなかった。ハワードが来て、なんであのマイクが使えないんだ?っていうから、許可されないんだよって答えていたんだが、それでも“なんでなんだ?”って言うんだよ。それで我々はまだ誰もやったことがない、タムなんかにもコンデンサーマイクを使用し始め、後に“ファットアルバートドラムサウンド”と呼ばれるものを構築したんだ。これらはヨーロッパ製の素晴らしいコンデンサーマイク群によってもたらされたんだが、以前のように2つから3つのマイクで録音する方法とは対抗するものだった。ハワードは殆ど独りでこの方法を編み出したんだよ」

ヘッドマイクは2本でいい!

1970年、ロンとハワード兄弟は、Curtis, Jerry(カーティス・ジェリー) Wexler and Jimmy Douglass(ウェクスラー&ジミー・ダグラス)のプロデュース、Arif Mardin(アリフ・マーディン)の編曲で、Billy Preston(ビリー・プレストン) and the Memphis HornがフィーチャーされたR&B界の名サックスプレイヤー“King Curtis(キング・カーティス)”のアルバム“Everybody's Talkin'”で初めて一緒にエンジニアとしての仕事をすることになった。
この作品は、比類のない音楽的影響を及ぼし、その後アルバート兄弟がプロデューサー兼エンジニアとして関わった、Aretha Franklin, Frank Zappa, the Rolling Stones, Jimi Hendrix, Joe Cocker, Jimmy Page, Johnny Winter, James Brown, Joe Walsh, Wishbone Ash, the Average White Band, Buddy Miles, Crosby, Stills & Nashそして, もちろん, Claptonthe Allmansなどの多くの作品に道を開いた。

「時折私(ハワード)は、ロンがサウンドを整えている間、スタジオのブースに行き、バンドの中に混ざって、アレンジや曲に関わるようにしていた」とハワードは兄弟のユニークな共同作業を語ってくれた。
「他の時だったが、私がマイクをセッティングし、ロンがコンソールの前に座ってサウンドを調整していた。お互いに手を取り合ってやっていたよ。決まり事はなかったな。両方ともコンソールの前に居る時は、4本の手があったから非常上手くやっていたよ。何かやるべきことがあれば、ロンは理解していて私が何かああしろこうしろという前にやってたな。以心伝心さ」

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Photo: Michael Ochs Archive / Redferns
Derek & The Dominos (left to right):
Eric Clapton, Bobby Whitlock, Jim Gordon and Carl Radle..

「我々はいつも自分達が(他のエンジニア連中より)有利なポジションにいると思っていたんだ」とロンが付け加える。
「多くの違うグル―プと仕事をしていた時は、例えばギターやドラムのヤツがハワードと親しくて、歌手やキーボードが僕と親しい場合、レコーディングに際して両者を対抗させるような感じに出来るんだよ。(例えば)今僕はヴォーカルの作業中だから、他の(バンドの)連中はハンバーガーでも買ってきてくれっていう感じで、(作業環境を作るのは)思い通りだったよ。我々の初期の師匠とも言えるトム・ダウドから、バンドのレコード制作とは猛獣使いと似ていると教えられていたんだ。ライオンは常にトラとは別の檻に入れておかなくてはならないとね。また同時に相手がリードシンガーでなくてもバンドのメンバー全員に尊敬と威厳の念を持てと言われてたね」

「トムは自分の哲学を我々に押し付けたりしなかったが、彼自身のスタジオやニューヨークにあるアトランティックのスタジオ中の幾つかでは貫かれていたね。トムは、好きなものは自分の近くに置くべきで、嫌いなものは遠ざけるべきと信じていたんだよ。

夕食のテーブルに座って嫌いなものがあったらその皿は遠ざけて近くに置かないだろう。その理屈をスタジオのコンソールのフェーダーにも応用していたんだ。つまり通常とは間逆に設置されていて、音量を大きくする場合は、フェーダーを手前に下げるという感じにしていたんだよ。
トムのスタジオでミックスをする時は、トムがオーディオ的な意味で両刀使いだったので、とても難しかった。彼はいわゆる普通の卓では(音量を上げる際に)フェーダーを上げる方法でやっていたが、自分のスタジオでは(音量を上げる際に)フェーダーを下げる方法でやっていたんだ。アトランティックのスタジオは、トムのために逆フェーダーを取り付けた特注のMCIのコンソールを注文するはめになった。当時、そんなモノを記事で読んだ事もないし、人から聞いたこともないし自分の目で見たこともなかった。完全にトム・ダウトオリジナルの卓だったんだよ」

「当時の我々は幸運な事に、クリテリア・スタジオでMCIの創立者で機器デザイナーでもあるJeep Harned(ジープ・ハーンド)の協力の元で、MCIの全ての機材の実験場として活用することが出来るという非常にユニークな環境にいたんだ。また運の良いことに、ハワードは右利きで、俺(ロン)は左利きだったんだ。それで卓の前に2人で座る時に、例えばパーカッションを左利き側に、ギターを右利き側に配置してオーバーダブするような事になると、俺からするとパーカッション側を、ハワードからするとギター側に手を伸ばしてイジルのが面倒になるんだよ。
(補足:この発言は、ハワードが卓の右に座り(右利きだから)、ロンが左(左利きだから)に座っていることを想定していると思われる)
この当時まで、全てのサブグループ(フェーダー)は、コンソールの右側にあったんだ。それでMCIはサブグループ(フェーダー)をセンターに配置した試験用機器を作り、それが500シリーズのコンソール卓になったんだよ。サブフェーダーがセンターになったことで、ハワードの右手、俺の左手が中央部に届くようになった。それで面白いのは、これが(その後のレコーディング卓の)世界的基本フォーマットになったってことなんだよ。サブ・グループをコンソールのセンターのスイートスポットに配置したっていうのは、なかなか良いアイデアだったな」

最上のもの:

その間Eric Clapton(エリック・クラプトン)は、Cream(クリ―ム)やBlind Faith(ブラインド・フェイス)のようなスーパーグループで経験した過剰とも言える試練から逃れるため、1970年の春、何人かのミュージシャンの組み合わせ・・、Delaney & Bonnie(デラニー&ボニー)のキーボード奏者でシンガーのBobby Whitlock(ボビー・ウィットロック)、ベースのCarl Radle(カール・ラドル)、そしてドラマーのJim Gordon(ジム・ゴードン)によるバンドに参加する。Eric & The Dynamos(エリック&ザ・ダイナモス)と名乗っていたバンドは、彼らの最初のお披露目ライブで、司会者によってDerek & The Domino(デレク&ザ・ドミノス)と紹介されそれがバンドの通称となる。彼らは直ぐにイギリスでのサマーツアーに突入し、その後マイアミに飛び、アルバート兄弟が'Bacteria(バクテリア)'と表現している、Laylaやその他の最上のラブソングを収録した2枚組のアルバムを録音する。


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Duane Allman with his trademark groovy sideburns and 'tache.
Photo: Michael Ochs Archive / Redferns

 


1998
年末、トム・ダウドがオールマンブラザースバンドの“Idlewild South”にロンやハワードと共に関わっていた時に、ある事がどのようにして起こったかを教えてくれた。

「ある日、私(トム・ダウド)は、レコーディングセッション中でバンドは録音中だった。そしたらスタジオの秘書が来てRobert Stigwood(ロバート・スティグウッド)から私に電話だと云うんだ。この電話は断れなかったから、録音中だったが電話に出たんだ。バンドが演奏を終わってコントロール・ルームに戻ってきた時もまだ私は電話中だったんだ。電話が終わり、受話器を置くと、メンバーに録音中の電話について断りを入れてから彼らに電話の内容を説明をすることにしたんだ。
”今Robert Stigwood(ロバート・スティグウッド)と話していたんだ。エリック・クラプトンのマネージャーだ。しばらくエリックとは連絡をしてなかったが、どうやらエリックがここでレコーディングをしたいらしいというんだ・・・”と云うと、デュアンが、“そいつって・・”と云うなり、クリームのある有名な曲のフレーズを弾いたんだ。それで私はそうだと答えた。すると“ここでレコーディングをしたいっていうのかい?”というので“そういう話のようだね”と答えた。デュアンは“じゃあ、彼がここでレコーディングしている時、ちょっと見に寄ってもいいかな・・?”というので、“二人共通点があるから上手く行くと思うし問題は無いはずだ”と答えたよ。そして後は成り行きに任せただけさ」

「数週間後、エリックとボビー・ウィットロックや周りの連中がスタジオに現れた。私はまだ彼らの楽曲が最終段階まで詰められていなかったので、一緒になって曲を煮詰めた。演奏は全て録音し、これは絶対にイントロだ、とかこれは曲に入らないとか指示しながら曲をまとめていったんだ。そんな作業をしている最中、電話が鳴った。デュアンからで、奴らは来ているか?といい始めた時に、現場の作業中の音が流れたんだ。そしたらデュアンが“連中がいるな!ちょっと寄ってもいいか?”と云うので、私はコントロール・ルームにいたエリックに“デュアン・オールマンと電話で話しているんだが、ちょっとスタジオに顔を出しても構わないか?と言っている”と伝えたんだ。エリックは私を見ると、“これを演奏している男の事か?”と、Wilson Pickett(ウィルソン・ピケット)のレコードに収録されている'Hey Jude'の後奏をギターで弾き始めたんだ。私はそうだと答えると、エリックは“じゃあ(来て)1発やってもらおうか”と云ったんだ。それで一緒に演ることになったのさ」

Wilson Pickett - Hey Jude (w/ Duane Allman)  
https://www.youtube.com/watch?v=0y8Q2PATVyI


「こうして全てのパーツが揃った訳さ。その日の夜、私はDerek & The Dominosのメンバーをマイアミ・ビーチのコンベンションセンターに連れて行き、Allman Brothers Bandの野外コンサートを見せたんだ。そしてコンサートが終了すると(デュアンを含む)皆でスタジオに戻ったって訳さ。ジャムセッションが始まりアイデアが交換され、デュアンがエリックのギターを抱え始めたのさ。エリックはデュアンにどうやっている演奏しているかを見せ、デュアンはエリックにスライド技法と呼ばれているボトルネック奏法を見せたんだ。2人とも昔から知り合いのようだった。デュアンはバンドのギグの予定があったのでその日の夜の間にスタジオを出なくてはならなかった。しかし2~3日後、デュアンは仕事の義務から解放されて(スタジオに)戻ってきて、あとは歴史が作られたって訳さ」

パワーアップしたレズリースピーカー:


(参考映像)

http://www.youtube.com/watch?v=El0CwSLS_g4


Laylaのレコーディングセッションでユニークだったのは、我々(アルバート兄弟)が手掛けたフェンダーギター用のレズリー(スピーカー)だろう。エリックはこの組み合わせ(ギターとレズリー)に心を奪われていて、頻繁に使っていたよ」とロン・アルバートは語る。

「このセットには、(改造によって)可変式で大きく(ヴィブラート周期の)スピードを替えられる装置を付けてあったんだ」とハワードが付け加える。「おまけにスピードを調整することが出来たんだ」とロンは続けた。


「このレズリーが設計された過程では、2つのフットペダルがあったんだ。1つはレズリー本体のスイッチをオン・オフするためで、これだとギターアンプだけで鳴るか、ギターアンプとレズリー本体の両方が鳴っているかを選択できる。もう1つのスイッチはローター(レズリースピーカーの中で回転する羽)のオン・オフ用で、これによってローターの回転のある無しを制御できた。足元のスイッチを操ることで効果の度合いやオンオフを調整することが可能になったのさ。でも我々にはこれだけでは不十分だったので定常的に(ローター)スピード調整が可能な約14kgほどはある大型の可変装置を考案したのさ。この機械は、モーターの回転速度を電圧でコントロールできるように設計していて、それまでは不可能だった半減速でもどのようなスピードでも自分たちが好きな早さでローターを廻す事が出来るようになったのさ。ハワードはハモンドオルガンのB3奏者だったので、B3のレズリーのスロースピン(遅い回転)に慣れ親しんでいて、回転のオン・オフを左手で行っていたんだ。それで(以前のレズリーの回転速度の効果と比較すると)速くもなく遅くもない速度によって生み出されるこのサウンドを、ギターにも取り入れることにしてみたんだ。その上でペダルを使ってオン・オフすることで、(ローターが)動いたり止まったりするのと同じような効果を得られるようになり、エリックのお気に入りのサウンドになったのさ」

止まらない音楽:


エンジニアのハワード・アルバートが振り返る当時のオールマンブラザースバンドの日常。

「連中は腹を空かせた貧乏ミュージシャンだった。古いウイーバーゴ製のツアーバスに住んでたよ。スタジオを一歩出ると文字通りギュウギュウ詰めの生活環境だった。スタジオでレコーディングの仕事が無い時もそこに住んでたなあ。彼らの家()はスタジオの駐車場だったし、他に行く所が無かったんだ。だからいつもスタジオの近くに居たんだが、(そういう事情もあって)デュアンは色々な連中のセッションに顔を出していたよ。当時の彼らは若くてハングリーだった。我々が望む事について何でも尊重してくれていたし、彼らがいつも我々の周りに居てくれたお陰でとても創造的な瞬間を掴むことが出来たんだ。結局当時、バンドをレコーディングするに際して、2人のリードギターと2人のドラマー、ハモンドB3オルガンや驚異的にメロディックなフレーズを演奏するベーシストと一緒にやる方法論なんて確立されていなかったからね。それに当時のデュアンのスライドギターは彼のキャリアを通じて絶頂期だったよ」

「当時を振り返って自分達の環境が物凄く特別だったと思うのは、僕ら兄弟間で行った様々な実験的試みだけではなく、トム・ダウドが、彼のエンジニア兼プロデューサーとしての初期のキャリアにおいて、文字通り僕らを信頼し見守ってくれた事なんだ。彼は発想豊かな人だったし、僕らにもそう感じていてくれたみたいで自由にやらせてくれたんだ。だから“君たちが自由にやりたくなったら俺(トム)はお役御免だ”という感じだったのさ。実際これは我々にとって物凄いチャンスをもらったようなものだった。トムは、夜10時、11時、深夜頃までには家に帰ってしまったからね。でもオールマンの連中とのセッションは(その時間でも)終わってないんだ。おまけに彼らは他に行く場所も無かったからね。我々は一晩中レコーディングして、そういうのを幾晩もやり、昼頃になるとトムがスタジオにやって来るんだ。で、我々の成果を聞くのさ。彼に承認されるか、否決されてやり直しなったとしても、我々にとって最低限のクリエイティブな時間を持てるという点において満足だったよ」

「あの当時、多くの“友愛”に満ち溢れていたんだよ」とロンが付け加える。特にアトランティック・スタジオでのセッションにおいてそうだったのは、お互いを良く知っていて理解していたからなんだ。Karl Richardson(カール・リチャードソン/エンジニア)がやってきて我々がやっていたプロジェクトに関わったり、彼がやっていたプロジェクトに我々が関わったりという具合だった。カールは間違いなく“Layla”で重要な役割を果たしている。ただセッションの95%には関わっていない。Chuck Kirkpatrick(チャック・カークパトリック/ミュージシャン/エンジニア)も同様だ。だからレコーディングセッションが徹夜状態になったある時点から、カールやチャックが加わってダビング作業をしていたのは特に変なことじゃなかったんだ」


「コンソールの上にはいつも全ての手が乗っていた状態だった。何故ならデュアンが家に帰ってからエリックが演奏したいと言い出したり、エリックが家に帰ってしまってからデュアンが演奏したいと云う場合、誰かがケアーしてあげなくちゃならない。このセッションではMack Emerman(マック・エマーマン/エンジニア)も多少貢献している。貢献の詳細は忘れてしまったがね。
多分彼は様々な場所でのダビングに参加していたと思う。ただ殆どの作業はハワードと私(ロン)がメインで取り仕切り、それに続くカールやチャックなどがあの歴史的レコーディングセッションを下支えた訳さ。誰もがあの作品の貢献したと思っている。実際、再発盤のボックスセットの'Layla'を見ると、チャックが律儀に手書きで記録したあの美しくも有名なトラックシートを見る事ができるだろう。僕らなんかはトラックシートにぞんざいな文字で記録するんだが、チャックは次の日に来て全て清書し直すんだよ。ちょっと変な行為でもあったが、お陰で偉大なる永遠の記録として残ったんだからね。だって現代でもキチンと読めるからね」

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チャックの清書によって上質保存された
当時のトラックシート

 

'Layla'のセッションの時、クリテリア・スタジオの小さい方のスタジオであるBスタのコントロールルームには、MCI社製の24イン、16アウトのカスタムメイドの卓が窓際に置かれていた。セメントの壁にはアルテックのLansing 9844というラージスピーカーがソフトマウントされていたんだが、そのお陰で部屋の低域が充実したんだ。加えて大型のMCI社製大型で黒い16トラックのテープマシーンJH16、通称“'Dumbo”が鎮座していた」

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アルテック社製9844スピーカー

「あのレコードは、3つのセクションで成り立っていた」とロンが付けくわえた。
「インプット(入力)部分は左、中央部はマイク入力用、ドラックの割り振りとエコーの送りと戻しで右側の端には伝統的なミックス要のセクションが装備されていた。非常に先進性があって良く考えられた設計をしていた。'Layla'だけではなく Average White Band(アベレージ・ホワイト・バンド)やAretha Franklin(アレサ・フランクリン)と同様にJimi Hendrix(ジミー・ヘンドリックス), Joe Cocker(ジョー・コッカー)それにAllman Brothers(オールマンブラザース), Johnny Winter(ジョニー・ウィンター)やLeon Russell(レオン・ラッセル)なんかでも使用されたコンソールなんだよ



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MCI社製のJH-16レコーダー
(16チャンネル)

 

1976年、イギリスにいてSutherland Brothers & Quiverというバンドのレコーディングをしていた時、あるドラマーが親友でもあったことでセッションに顔を出して演奏をしてくれたんだ。そのドラマーからDave Gilmour(デイブ・ギルモア)という1人の紳士を紹介されたんだ。ある週末、デイブの農場で開かれたバーベキュー・パーティに招かれ、彼の家の納屋を改造して作ってあったスタジオに連れて行かれたんだ。ドアを開けると我々の目の前にクリテリアの古いBスタにあった例のコンソール卓が鎮座してたのさ。デイブはそれが我々が手掛けたコンソールだとは知らなかったし、我々もそれが彼の自宅のスタジオにあるなって全く知らなかったという訳さ。不思議な因縁だろう。」

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フロリダのオーディオ・ヴィジョンスタジオでの
アルバート兄弟の現在の様子。

「現在ヒットファクトリースタジオとして知られているクリテリアのBスタのコントロール・ルームが来客用のラウンジに改装されている間、前述のアルテックのLansing 9844sスピーカーはハワードのリビングルームのテレビ用スピーカーとして利用されていたんだ。」

Duane Allmanが初めてドミノスのセッションに加わった時、バンドは既に3つの曲、つまり'I Looked Away', 'Bell Bottom Blues' and 'Keep On Growing'.を録音していた。デュアンは、'Nobody Knows You When You're Down And Out'でこのセッションでギターデビューをし、その後は他のアルバムでもあの神業ともいえるスライドギター奏法で貢献してくれたのさ。それらの演奏はクラプトン自身の演奏に影響を与え、T-Bone Walkerのヴォーカルリフから拝借したことで生み出された、ロック史で最も有名とされているギターリフによって'Layla'は別次元になり、楽曲のオープニングを確固たるものにしたのさ」

「セッション中、クラプトンとデュアンはスタジオにあったボールドウィンピアノを背にして、いつも寄り添っていたよ。また他の3名のメンバーやら彼らの機材やらでクリテリア・スタジオのBスタのライブ・ブース内はかなりギュウギュウだったよ。もし、コントロール・ルームからガラス越しにブース内を見ているとすると、ピアノは左側に置かれていたとハワードは回想する。そしてピアノの閉じられた蓋の上にはエリックやデュアンが使っていたフェンダーのツイードのチャンプアンプが置いてあったな」


「我々はいつもクリエイティブじゃければならなかったんだ。」ロンが付け加えた。
「録音ブースのスペースは、それほど大きい訳じゃなかった。だからメンバー全員をそこに入れる算段をしなければならなかったのさ。ピアノは壁際の一角を占領していたし、(モニター用の)キューシステムは基本的な事しかできなかった。ステレオでしか送れない音声を各人に1回線分しか確保できなかったから、自分の演奏を(個別の音量で)モニターするのは至難の業だったのさ。だから演奏者のモニター環境を確保するために、小さいギターアンプを使っていたんだ。そうしないと皆がとんでもない大音量で演奏し始めるからね。そうなるとピアノやドラムの音は、なかなかギターの音から隔離した状態で録音出来ないんだよ。おまけにデュアンとエリックには生のドラムやピアノ、ハモンドオルガンの音がキチンとモニター出来難い環境だったので、僕はAKG414というタイプのマイクをピアノの中に突っ込んで蓋を閉めると、(ピアノを)キルト布で3重に巻いてガムテープで留めたのさ」

 

「シュアー製のSM57とエレクトロヴォイス製の635sマイクは、ギターアンプを録音する時に使用したね。部屋の反対側ではBobby Whitlock(ボビー・ウィットロック)がハモンドを弾きレズリースピーカーが鳴っており、何本かのSM57を使って上部、下部を補足した。部屋左の最も奥まった角にはドラム・ブースがあり、アルバートによって宇宙船のようにされた円形のブースの中にはJimmy Gordon(ジミー・ゴードン)のドラムセットが組んであり、望遠鏡みたいな形をしたソニー製のECM51でハイハットを狙い、2本のノイマン製のU47をオーバーヘッドに、同じくノイマン製のKM84をスネアに、アルテック製の633ソルトシェイカーをバスドラに、そしてノイマン製のU87をタムに配置したんだ。隣のブースにいたCarl Radle(カール・ラドル)のベースは、DIDirect Injection/卓と楽器を音響的に直接接続する機器)」で対応した」

sonyecm51a[1].jpg

ソニー製のECM51マイク

 

「当時、ベースアンプに関するマイキングについてはエンジニア間で様々な論争があったよ」とロンは振り返る。

「あるグループは(ベースアンプにマイクを立てる)自分達のやり方を信奉していたしな。我々は彼らをなだめすかしながらも自分達のやり方を貫いたのさ。ミックスの際にベースアンプをマイクで拾った音を使うのは稀だった。ベースアンプをマイクで拾った音を使う事でユニークで特別なサウンドにならない限り、その使用については全く論理的じゃないと考えていたからね」

 

 

文字通り全てを録音した!



「当時、我々は全てを録音していたんだ」とロンは続ける。
「テイクワンを録って1度再生して聞き直す、テイクツーを録って1度再生して聞くっていう手順は踏まなかったんだ。全てを録音するために常時レコーダーを廻し続けていたのさ」
「スタジオに足を踏み入れると、誰かがリフを弾いていたり、何かを演奏し始めたり、あれを試そう、これを試そうというという感じだったんだ」とハワードが付け加える。
「とにかくずっと録音していたんだ。そうしている内に、全員がこのテイクだ!っていう瞬間が来るんだよ。それから細かい部分をあちこち修正するのさ。普通、1曲録音するのに3回~4回通しで演奏するんだが、その前には既に3~4時間も演奏しているんだけどね」

classic5criteria_l[1].jpg
クリテリア・スタジオの今日の姿。
ヒット・ファクトリーに買収され、レイラが録音されたスタジオBは、
完全にリフォームされたクライアント用のラウンジになっている。
 

 

「他のトラックにおいて修正やオーバーダブをしないのにも関わらず、OKテイクから残るのは基本的にはリズムギターとドラムのみだった」とロンは語る。
「ストーンズやDerek & The Dominosのようなバンドは、元のアイデアに戻ったり、多くの修正を施したりするということは本当に必要とされるまでしなかったので、ライブ演奏中のミュージシャン間の化学反応を大切にしていたんだ。そうでなければそもそもバンドで演奏する意味なんて初めからなくなるからね」

これに反してクラプトンは、'Layla'のリードヴォーカルをライブルームに設置されたノイマン製のU87の前に立って、数夜かけてヴォーカルをダビングした。数テイクの中からチョイスされたあとUrei社製のコンプレッサーで処理された。

ロン・アルバートは、「トム・ダウドはスタジオにいる人間のムードを読む五感のようなものがあった。ヴォーカルが今夜のうちに録れそうかどうかなどはいち早く察していた」と回想する。
「彼の凄いところは、プロデューサーとして、ミュージシャンが(演奏やアイデアの)引き出しをなくしているような時でも、まだ十分なアイデアの余地があるかのように配慮し、パフォーマンスし易くするために十分な時間や環境を与え、別に日にやり直して、もう一度演れるようにしてあげることなんだよ。彼は絶対に“今夜のお前ら全然だめだ、もう止めよう”みたいな感じでミュージシャンを追い込むことはしなかった。本音では今夜はひどい出来で、全然録れそうもないなって思っていても、おくびにも出さなかった。そういう時彼は、もう一度、別の日の夜に彼らとトライして、キチンと録る事にかけて、ピカイチの才能だったね」

(補足:クラプトンの自伝によれば、当時の彼は極度のアルコール依存とドラッグでシラフでいた事が殆どなかったと言っている。当時のスタジオ内のクラプトン(やメンバーたち)が、常に酔っぱらっていたかハイになっていただろうことは記述からも容易に想像がつくが、そういう環境下であのパフォーマンスを引き出したダウドの手腕と功績はもっと評価されるべきものかもしれない。日本にも音楽プロデューサーを名乗る人は数多いが、本当の意味での音楽プロデューサーとは、本来どうあるべきかについて、ダウドの考え方やアプローチは参考になるだろう。)

 


テープ編集の芸術:


「前述したギターとレズリースピーカーの組み合わせによる効果は別にして、'Layla'で使用されたイフェクターは唯一“EMT”というテープループ式のエコーマシーンとJim Gordon(ジム・ゴードン)のパーカッション部分にダビングしたテープを使った逆回転シンバルだけだった。当時はそんなにイフェクター類に恵まれていなかったんだ」とロン・アルバートは振り返る。


「当然プラグインなんてなかったしね。今みたいにプラグインに恵まれデジタル機器に囲まれている時代からみると、自分達があの環境下で(あのようなサウンドを)どうやって作れたのかが不思議な位なんだが、何とかやりくりしてたんだと思う。編集という部分を考えても、ハワードは信じられない位“マルチテープの編集”に長けていたんだ。もちろんこのアイデアの根源はトム・ダウドなんだがね。ハワードはその辺りではちょっと遅れていたかもしれないが・・。
とにかくハワードはテープ編集の名手で、曲にマッチした素晴らしいイフェクトを編み出してくれたのさ。
編集の秘訣の1つには、我々が演奏を録音する際のテープ上のトラックの配置があった。一番典型的なのは、今日でも一般的な方法でもあるが、アナログ録音の場合、95%のセッションでは1トラック目にバスドラを配置し、2トラック目はスネアって具合なんだ。だが通常ハワードと私は、ベースギターとバスドラという配置していたんだ。こうすることで、テープをカットするためのキッカケとなる(音の開始の)タイミングをキチンと掴むことができるのさ。テープの中央部に当たる8チャンンルから10チャンネル付近で垂直に対して45度のアングルでテープを切り、別に切ったテープと1つに貼り合わせると、音の頭の部分はまだテープに残るんだよ」
「(編集後も)音の前後関係はキチンと継続されたんだよ」とハワードは続ける。
「もし多少のノイズがあったとしても、認知出来ない範囲に埋もれるからね」

コーダ(後奏)について:


'Layla'

 

のレコーディングが完全に終わると、ドラマーのJimmy Gordon(ジミー・ゴードン)が、ピアノの辺りをうろつき始め、あの曲をこの上なく優しく、また愛らしくウィットを持ち、緊張感のあるブルースロックに先導された世界観に対して、完全に対立したようなコーダ(後奏)を思いついたんだ。
「このサウンドを聞いて痺れたことで、皆が“曲の中に取り込んでしまえばいいじゃないか?”と言い出したんだ。いわゆるLaylaのパート1とも言える部分にはピアノは入っていない。パート2はジミーが演奏するピアノで幕を開け、パート3はパート1と2がスムーズに繋がるように、ピアノソロの終盤で、誰もがクールだなと感じ始めた辺りでバンド全員の演奏が戻ってくるのいいだろうということになった」

結局“Layla”の入ったアルバムのレコーディングは約3週間かかった。その内1週間はミックス作業に費やされた。アルバート兄弟とダウドは、文字通り全ての指をつかってフェーダーの上げ下げをした。時代はまだコンピューター管理のオートミックスの前だったのだ。

「ある種の感情や性的緊張があのアルバムに記録されていることで、時代の象徴となったのは、かなり控え目な言い方だろうし、音の中に点在するドラッグの影響は、良い方向に出ていたと思うよ」とロンは語った。
「あのセッション中のドラッグ使用は、本当の深刻な時があったからね・・・」
ハワードは「ただ幸いなことにドラッグがあからさまな悪影響を与えなかったんだ」と付け加えた。

その後、19795月にベースのCarl Radle(カール・ラドル)がドラッグとアルコールによって亡くなった。
1970
年の最後の3ヵ月にはまるでその後の全ての未来を予言しているようでもあった。バンドがイギリスとアメリカでLayla” のアルバムを引っ提げてツアーをしていた時、Bell Bottom Blueや編集して短縮バージョンになった”Layla”がアメリカのチャートを駆け上っていた。ただ、イギリスではアメリカのような初期的な成功は見られなかった。
1972
年のバンドの解散、ヘロイン中毒によるクラプトンの一時的なリタイア、またDuane Allman(デュアン・オールマン)のバイク事故による早過ぎる死にも関わらず、“The History Of Eric Clapton”という編集盤のアルバムで'Layla'7分版のフルバージョンとして再リリースされ、発売から約10年かけ、その年の夏のシングルとしてアメリカとイギリスの両方のチャートでトップ10入りするという偉業を成し遂げた。

補足:クラプトンのライブは日本国内で数限りなく行われていたが、“Layla”がコーダまで演奏されたバージョンで披露されたのは確か2001年の武道館が初めてだったのではないでしょうか?
(間違っていたらごめんなさい)
いつもは演奏されないあのピアノのフレーズが出てきた時は”ドキッ”としたものだ。確かこの時の模様はNHKのBSで放送されたと思われます。私も武道館の1階南東の席で堪能致しました。

EricClapton_AlbumCover_History_of_EC[1].jpg

 

エリックとパティ・ボイドについて言えば、エリックの粘りは報われたと言って良いだろう。ボイドはジョージ・ハリスンと別れ、'Layla'がレコーディングされてから9年後、エリックと再婚した。しかしその結婚生活も1988年には終わりを迎える。だが自分の横恋慕を題材にした愛の賛歌は永遠に残ることとなった。
曲のコーダは、Martin Scorsese(マーティン・スコシージ/orスコセッシ)の1990年の古典的名作映画グッドフェローズの中で使われ素晴らしい効果を生み出した。
また1992年にクラプトンが出演したMTVのプログラム“Unplugged”で披露したアコースティックバージョンは、彼のキャリアの中で最大とも言える成功を収めた。それでも、苦痛を秘めたリードヴォーカル、時間を超越したギターのリフや、ピアノとスライドギターを組み合わせたコーダは、この曲をロックの名作にし、永遠と歴史に残る作品となったのだ。

クラプトンの言葉を借りれば、「何かを所有しようという強力な力、私はその力に心地良さを感じたことは一度もない。だから演奏する度に圧倒されるのさ」ということになるだろう。



以上。


(事実関係等に誤認等があればお知らせください。修正し、訂正させて頂きます)

2014年3月15日に一度校正済み


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The Rolling Stones at Tokyo Dome Feb 26 2014 [音楽に関わるブログ]

The Rolling Stones at Tokyo Dome  

Feb 26 2014
(写真は全てこの日の映像)

 

All-EdDSC00988-Sm2.jpg

 

ストーンズの初日に行く。本来の座席は21塁側のバルコニー席だった。しかし行ってみると柱番号が違っており、座席は見切れ席だった。我々の座席の通路を挟んだ先が数日前から売り出した10,000円見切れ席だったのだが、我々の通常額(18,000円)の座席も見切れだった。同伴者はこれを予想していたようで、譲ってくれた友人に連絡をし、その友人の方の交渉によって我々の座席はアリーナBブロックに変更される。正に開演直前だった。30分の開演遅延がなければ、冒頭からアリーナで見る事は無かっただろう。

そういう訳で、2階席からグッと距離が縮まりステージが真近になったことで、テンションが100倍になる。開演は1859分。

やはりライブはメンバーが近いと感動も違う。ポールの時に比べて、写真を撮っている人は殆ど居なかった。私も基本的には写真を撮るつもりもなかったが、一部分だけは撮影を試みた。

さて、ミック・ジャガーの化け物的体力と歌唱力は度肝を抜かれた。とても69歳とは思えない。声も動きも全盛期と殆ど変わらない。約2時間のライブをあのパフォーマンスで行う彼らを見て、ナンバーワンで在り続けている凄さを見せつけられた。矢沢永吉さんも見るだろうが、彼も70歳までは現役でやろうと思うのではないだろうか?

 

Mick#02sm.jpg

 

ミックは毎朝10キロを走っているようで、トレーニングも欠かさないらしい。元々ロックは、セックス、ドラッグにアルコールと不健康の代名詞であったが、50年というロックミュージシャンの経歴維持には、地道にストイックにやらなければやり続けられないという事を突き付けているようであった。

キースのギターを持った姿は、相も変わらず他の追随を寄せ付けぬカッコ良さだった。しかし演奏面での衰えを否定出来なかったのは事実だろう。
以前のようにステージを動き廻ったり、腰を使ったような演奏は殆ど見られなかった。ステージ中央付近でギターをつま弾くように演奏する姿を見て、
70歳のギターリストの現実は過酷と言えるものだった。それでもストーンズの凄さや評価は変わらない。

 

Keith-Edit#01.jpg
 
 
 

 

Mick Tylorの演奏はなかなか見ごたえがあった。ひょっとしたら演奏面でキースを補う部分もあったのだろうか?と感じたりした。それでも往年のファンには有りがたい光景であったことは疑いない。

 

Mick Taylor#01.jpg


Mick#02sm.jpg

PAは、冒頭の処理調整を除けば全般的に非常良かった。パンチの効いたドラムサウンド、歌詞がハッキリ分かるヴォーカル、メリハリの効いたギターバランス、すっきりしているがキチンと存在しているベースなど、なかなか分かっているエンジニアだったと思う。

チケット買う時18,000円は高いなあ・・と思っていたが、終わってみれば価値のあるライブだった。キースの感じを見ていると、もう一度日本に戻って来ることはないかもしれないなあ・・・と感じたが、十分堪能させて頂いたし、心が痺れるライブだった。
そういえば、チケットの先行時は、ほとんどが2階席だったという。最後のぴあの発売がアリーナAブロックだったというので、早めの発売は後ろの席からだったかもしれない。

あと2回公演で終わるが、まだ見てない方はちょっと無理しても行く事をお勧めしておきたい。
ちなみにバッキングコーラスのバーナード・ファウラー氏とは、1986年の坂本龍一氏の初ソロツアーで一緒に仕事をした事があるが、26年振りに連絡が取れた。元気そうでなにより。滞在先ホテルは、噂通りの名門ペニンシュラホテル(銀座)だった。

なお、3月18日になって悲しいニュースが飛び込んできた。
ミックの長年のガールフレンドであるL'Wren Scottさん(49)が、ニューヨークの自宅でドアノブにハンカチーフを巻いて首つり自殺をし、オーストラリア公演が中止(もしくは延期)されたとう報だ。

http://edition.cnn.com/2014/03/19/showbiz/celebrity-news-gossip/lwren-scott-suicide/index.html?iref=allsearch

ロックミュージシャンの性と言っては余りに気の毒なニュースで、彼女の死亡詳細は憶測の域を出ないので、ここには書かない。ご冥福を祈るのと、ミックの早期の精神的回復を祈るばかりだ。

 

 

Keith-Edit#01.jpg

Mick#01.jpg

 

 

 

2月26日のセットリストは以下の通り。

Get Off Of My Cloud
It
s Only Rock N Roll (But I Like It)
Tumbling Dice
Wild Horses
Emotional Rescue
Doom And Gloom
Bitch (Fan vote)
Honky Tonk Women
Band Introductions
Slipping Away (with Keith on lead vocals and Mick Taylor joining on guitar)
Before They Make Me Run (with Keith on lead vocals)
Midnight Rambler (with Mick Taylor)
Miss You
Paint It Black
Gimme Shelter
Start Me Up
Brown Sugar
Jumpin
Jack Flash
Sympathy For The Devil

ENCORE
You Can
t Always Get What You Want
(I Can
t Get No) Satisfaction (with Mick Taylor)


参考:

 

3月4日のセットリストは以下の通り。

Start Me Up
You Got Me Rocking
It’s Only Rock ‘N’ Roll (But I Like It)
Tumbling Dice
Angie
Doom And Gloom
Silver Train (Fan vote – with Mick Taylor)
Honky Tonk Women
Band Introductions
Slipping Away (with Keith on lead vocals and Mick Taylor joining on guitar)
Happy (with Keith on lead vocals)
Midnight Rambler (with Mick Taylor)
Miss You
Paint It Black
Gimme Shelter
Jumpin’ Jack Flash
Sympathy For The Devil
Brown Sugar

ENCORE
You Can’t Always Get What You Want
(I Can’t Get No) Satisfaction (with Mick Taylor)

-------------------


3月6日のセットリストは以下の通り。

Jumpin’ Jack Flash
You Got Me Rocking
It’s Only Rock ‘N’ Roll (But I Like It)
Tumbling Dice
Ruby Tuesday
Doom And Gloom
Respectable (Fan vote – with Tomoyasu Hotei)
Honky Tonk Women
Band Introductions
Slipping Away (with Keith on lead vocals and Mick Taylor joining on guitar)
Before They Make Me Run (with Keith on lead vocals)
Midnight Rambler (with Mick Taylor)
Miss You
Paint It Black
Gimme Shelter
Start Me Up
Sympathy For The Devil
Brown Sugar

ENCORE
You Can’t Always Get What You Want
(I Can’t Get No) Satisfaction (with Mick Taylor)


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佐村河内守氏のゴーストライター問題を私なりに考えてみた・・・。 [音楽に関わるブログ]

佐村河内守氏のゴーストライター問題

 

201425日の朝7時のNHKラジオニュースの最初の一報は驚くべきものだった。聴覚障害者の作曲家である佐村河内守氏が過去18年間ゴーストライターを使っていたことが判明したのだ。
更にこの問題は、木曜発売の週刊文春でスクープされることが引き金になって公表された事も分かってきた。

私の知り合いの元音楽業界人は、“ゴーストライターが作曲した作品を自分のものとして発表することそのものを、悪いこととは思わない。そんなことを言ったら本屋にある大多数の本はどうなるのだろう。

 「別の音楽家にイメージを伝えて作曲してもらうことを十数年にわたって続けていた。このことを深く反省している」という。そこを反省する必要もないように思う。 要はマネジメント(ママ)の問題だったのだ。”と語っていた。


彼の意見には確かに一理あると思う。善悪だけで線引き出来ない難しい部分があるのも事実だし、この問題の複雑な点はそこにある。
しかし私は別の意見を持っているので以下に要約する。

 

(1)私には佐村河内守氏が何故以下の方法を使って仕事をしなかったのかが全く理解出来ない部分なのだが、仮に佐村河内守氏が最低限度のメロディーだけを作りだせる能力があったのなら、共同作家に曲のイメージを伝えてオーケストレーターにアレンジしてもらえばよかっただけだったのだ。アメリカ映画音楽の作家だって譜面が読めないが打ち込みでメロを書き、あとはイメージを伝えて全部オーケストレーターにアレンジさせて自分の名前をクレジットするというのは極めて普通の行為なのだ。ただし、佐村河内守氏がメロディーを全く紡げないとしたら話はかなりややこしい。

(2)言い方は悪いが、こういう方法で活動するなら、墓場まで持って行く覚悟で慎重に活動すべきだった。

(3)本来は聴覚障害者である事を活動の売りにすべきでなかった。

(4)共同作業を隠して仕事をするのならNスペなどに出演したり、著書を出したり災害地、被災地のようなセンシティブなテーマの仕事をすべきでなかったし、マスコミに登場すべきでもなかった。

(5)本件は本人に帰する問題。マネージメントの関与はあくまでも共犯的なもの。ただマネージメントがマネージ出来なかった点は痛恨。

 

確かに私の知り合いのこの人物が言うように出版業界にゴーストライターが多いのは有名だし事実だ。著作者名とは裏腹に殆どを編集者が書いていたりするものも少なくない。その点を肯定するつもりはない。出版業界のゴーストライター問題はハッキリ言って詐欺行為だ。その点だけに焦点を当てれば、佐村河内守氏の今回の行為は、彼一人に帰するべき問題ではなく、知り合いの意見に同意出来る部分もある。

実際、音楽業界では、表面的にクレジットされている作曲者には実は共同作家がいたりする。実際私は日本でも有名な某ミュージシャンの大ヒット作品に共同作家が居る事実を知っている。しかし彼の名前はJASRACの管理登録名もない。だが裏で出版社と別途印税契約されている事実も知っている。
但し、少なくとも原著作者が作曲、作詞に直接関わった事実はあるのが幸いだったが、これだってちょっと詐欺っぽい臭いがするし、気持ち悪い。佐村河内氏のニュースに触れて、本人は今頃居心地が悪いんじゃなかろうかと想像する。

 

さて上記(1)。これは事実だ。仮に佐村河内氏が譜面に弱くても、現実的にそんな音楽家は数多くいる。吉田拓郎氏だって譜面が読めない。アメリカの著名な映画音楽作家だって譜面が読めないのに雄大な作品を出している人がいる。映画音楽は交響楽で演奏する場合が多いが、別にスコアーを書けなくても作曲家として成立できる。
少なくとも佐村河内氏が主メロディーを紡ぐ事さえでき、それを共同作家に伝える事が出来れば、あとはオーケストレーター(編曲者)に委ねれば良かったのだ。私が不思議なのは、佐村河内氏が何故こんな簡単な手法をやらなかっただろうか?という点だ。
世間は交響楽の作曲家は、作家自身がフルスコアーを書けなければならないと思っているだろうが、実際は違うのだ。
坂本龍一氏の「子猫物語」だって、久石譲氏の「千と千尋の神隠し」だって、曲によっては別のオーケストレーター(編曲者)がやっている。もちろん彼らは主要メロディーを自分自身で作っているし、殆どのオーケストレーションも本人が行っている。
それとも佐村河内氏はメロディーも浮かばないただの凡人だったのか?


(2)は、この問題の本質だ。私の知り合いの言うようにゴーストライターの存在は否定できないが、ハッキリ言って詐欺行為だ。従ってそれを承知でやるのなら、墓場まで持って行く覚悟が必要だ。金の問題、名誉の問題などを共同作業者やマネージメントと握らなければならない。別に不正行為を勧める訳ではないが、世間を騙すのなら徹底的にやるべきだった。だから慎重に仕事をしなくてはならなかったのだがそれに失敗し、週刊誌に書かれる事態を産み、世間に手の内を明かしてしまったのだから単なるマヌケに見えてしまった点が痛恨だった。もし、それに対してのリスクを背負えないと感じていたのなら、当初から絶対にこの話に乗るべきではなかった。影の作家、新垣隆氏によれば、佐村河内氏は自殺するとまで言ったらしいが、自分の人生に相当なリスクを負うような事を頼むヤツには自殺してもらえば良かったと思う。今の現実は予想出来た訳で実際背負えない問題になってきている。今後2人に損害賠償請求が発生し、自己破産し、社会的な抹殺という考えたくない事実が起こるでしょう。場合によっては佐村河内氏が自殺して破滅するかもしれません。でも、事がバレたらそうなる事は考えれば分かったはずなんです。でもやってしまった。であれば回答は1つのはずでしょう。でもそれが破断してしまった。それだけだったのです。

(3)は、世間が一番引っかかった点だろう。罪深い事件だなと思う部分はここだ。実はこの記事をアップした夕方、実際の曲を書いたいたという新垣隆という人物が、佐村河内氏の聴覚障害事実に疑念を唱えたのだ。
仮にこれが事実だとすれば、障害者が障害を乗り越えて、才能によってだけ社会に生きて行く姿は美しく、感動を覚えた庶民は、完全に騙されたという事だ。
当初は障害者が行き詰って起こした事件のようにも見えたが、仮に障害者を装っていたとすれば、この問題の罪深さを一層混迷させてしまったと言える。
仮に障害者であったとしても、障害者であった事を全面に出して活動していた点が、今回の問題に一層の暗い影を落とした。

新垣隆氏の会見記事:
http://blogos.com/article/79742/

(4)は、簡単に言えば、裏でコソコソやらなければならない割には行動が目立ち過ぎた点がまずかったという事だ。誤解を恐れずに言えば、詐欺的な仕事をする割には、余りにも世間の目を引くようなメディアに登場してしまった点が痛すぎる。つまり慎重さに欠けていたという事だ。NHKスペシャルの佐村河内氏の言動を見て振り返ってみると、随分な役者だなあ・・と思うのです。HIROSHIMAもボツ曲の再利用と分かってしまい、もはや恥ずかしさを通り越しているんだが、姑息な事をやっている割には目立ち過ぎた演出をしたのは痛すぎる。もっと静かにやっていれば・・と思わない訳でもない。ただ、分からなければ何をやってもいいと主張しているのではないので誤解なきように。

(5)は、そもそもどんなマネージメント体制だったのか分からないが、いずれにしても詐欺的な仕事をする本質問題は、本人に帰属する。マネージメントが煽ったかもしれないし、知恵を貸したかもしれないが、いずれにしても本人の意思の問題だ。


株式会社サモンプロモーションの公演中止案内:
http://www.samonpromotion.com/jp/info/samuragochi.html

 

幻冬舎文庫:「交響曲第一番」(文庫本)販売停止のお知らせ

http://www.gentosha.co.jp/news/n332.html


日本コロンビアの交響曲第1番 HIROSHIMAの販売中止について
http://columbia.jp/owabi_samuragochi.html

 

 

当初報道を見た知り合いのコメントには、佐村河内氏への応援メッセージまであったが、ピント外れも甚だしい。他でもゴーストライターは当たり前だから佐村河内氏だけが批判の矢面に立つのはおかしいというのは論理の飛躍だろう。見つからなければそれで良いのか?という批判が聞こえそうだが、実際、やるなら墓場まで持って行くべきだった。もし良心の呵責やリスク回避をするならば、最初からやらなければ良かった。
しかし実際にバレた。やるべきでない事をしてバレたのだ。だから徹底的に批判される。当たり前なのだろう。
またバレたことで上記の販売中止など多数の会社やユーザーに迷惑を及ぼした。
これが今回の事件の事実だ。

このように、(1)をクリアーしていれば別に何も問題にならなかった。仮に佐村河内氏がメロディーも書けない音楽家だとしたら、障害の問題を加味しても、他の職業選択をすべきだったろう。障害に苦しんで生きている人は彼だけではない。

「世間は彼の音楽でなく、彼のストーリーに酔いしれていたんだよ」と指摘していたのは坂本龍一氏だ。
この問題の本質はそこに隠れていると思うのは私だけだろうか?

 


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山下達郎様のPerformance2013年について [音楽に関わるブログ]

Tatsu131224.jpg

2014年が明けた。
20131231日に聞いた、前日30日に突然逝去した大瀧詠一氏の報道。

2013123日の青山純氏の急な逝去。

2013517日に逝去したAlan O’day氏。

そして201413日、巨大ディオ「エバリーブラザースの一人、フィル・エバリー氏が逝去。
特に年末から年始3人の立て続けの逝去には驚き、また悲痛だった。改めてご冥福を祈るばかりだ。
大瀧詠一氏は、私の人生で1日だけお仕事を共にした事があった。それはいつの日か記録に残しておこうと思う。

また、私以上に達郎さんにとっては公私共にお付き合いのある方だっただろうからその心痛をお察しする。


さて、山下達郎さんの2013年のツアー。有難いことに2回見る事が出来た。

10/26のサンプラと千秋楽となった12/24のサンプラだ。

クリスマスイブにライブを行うのは2回目ということだが、クリスマスイブが千秋楽になったのは彼のツアー歴でも初めてじゃないだろうか?

198012月25日のライドオンタイムツアーで初めて見てから丸33年。彼の音楽に本格的にハマってから35年。随分と長い付き合いになった。道理で歳取る訳だわ。

ここまで飽きずにお付き合い出来たのは一重に達郎さんの「プロフェッショナリズム」への傾倒だろうと思っている。それに加え「プロとしての圧倒的な能力」という点も欠かせない。音楽業界時代を振り返っても、業界内に彼のシンパが多かったのは、プロを唸らせるほどの能力と作品だったと思う。

12/24のライブは幸運にも1階の2列目だったので、本当に近くで達郎さんの演奏を見ることが出来たが、何度見ても彼の演奏能力や表現力、歌唱力にはため息が漏れる。やはりホンモノの一流なのだ。
昨今、クチパク紛いのライブや演奏もロクに出来ない連中でさえも大箱に客を入れて金を取れる時代であるが、そういった連中の対極にいるのが達郎さんだと思っている。
最近ファンになった人にはピンと来ないかもしれないが、70年代の達郎さんはどちらかと言えばアングラっぽいサブカルの世界を泳いでいるような人で、ずっと尖った音楽をやっている感じがあった。しかし根本的な部分は今でも全く変わらないのだが、あんなに有名になっても、まだ何処となくポピュラリティーの世界を生きている感じがしない所が私の好きな部分かもしれない。
私の周辺で達郎さんの音楽を好きな人は殆どいない。でもそれでいいのだと思っている。でもサンプラザですらチケットが簡単に取れない時代になった。
達郎さんは時代を超えてもサブカルの匂いが良く似合うのだ。

2回のライブはいずれも感動的で、終わってからの数日はジーンと余韻が残り、しばらくフワフワしてました。今回はドラムの音が以前よりどっしりとした感じに聞こえました。また達郎さんのライブでは初めてだと思うが、3台のテレキャス系のエレキギターを使用。
そんな感動をちょっと記録として残そうと思います。

なお、以下記載のセットリストは、他の人の記録から引用させて頂いております。ライブ中にこれだけのメモをするのはライブ観賞の集中力が途切れて大変だろうな・・と思うのですが、ツアーも終わり、ライブ後に改めて思い出す際には大変に助かりましたのでお礼を申し上げる次第です。
私はノリノリでライブに集中して聞いていたので、メモなんて取る暇もつもりもなかったで・・。

また今回、私としては、初経験の達郎さんのMCをまとめてみました。こんなことを記録しておくと、ご本人に相当怒れそうなのだが、達郎さんのMCはとても有用なコメントが多く、時間を経過して読みなおしても、結構先の時代を見据えた内容が多いので、記載することに致しました。
なお、MC記載については、完全に現場での記憶だけを頼りに書いております。話した順番やMC毎の内容的くくりが完全に整合しておりません。自分で再現して思ったが、好きな事は結構記憶出来るものなんだということだ。記憶を呼び起こすためのツールとして、ネットに上がっていたこの日のセットリストは役にたった。
表現や仔細微細に誤りがあるかもしれませんので、その点は予めご容赦ください。だいたいこんな感じの内容を話したというご理解だと助かります。
達郎さんのMCはいつも面白いですし、良い話も多いので、ご参考に。

 

こういうものを書き残すと達郎さんに怒られるかな・・・とちょっと怖々記録として残します。特に何かを自慢をした訳でもございませんのでご容赦を。

セットリスト:


opening a cappella introduction

新(ネオ)・東京(サンプラ)ラプソディー

Sparkle(ショート・ヴァージョン)

Love Space

ずっと一緒さ

あしおと

ひととき

スプリンクラー

Paper Doll

Futari(本人はフェンダーローズ演奏)

God Only Knows(スレイ・ベル演奏)

Groovin'

光と君へのレクイエム

  (エレピ弾き語り+リズム・マシーン併用)

※エレピ弾き語りのコンポジションは10/26のサンプラのみ。

My Gift to You(楽器持たず/ア・カペラ・カラオケ使用、サックス生演奏)

Bella Notte(楽器持たず/ア・カペラ・カラオケ使用)

Have Yourself a Merry Little Christmas

 (ハンド・マイク、オーケストラ・カラオケ使用)

[バンド入場]

Dancer

希望という名の光

メリー・ゴー・ラウンド

Let's Dance Baby

 演奏内に「硝子の少年」、「Mean Woman Blues」あり

アトムの子

 演奏内に「アンパンマンのマーチ」

Loveland Island

 

[アンコール]

クリスマス・イブ

Ride On Time:メンバーがクリスマスの衣装をつける。

愛を描いて -Let's Kiss the Sun-

[バンド退場~まりやさん入場]

Let It Be Meduet with 竹内まりや、オリジナル・カラオケ使用、12/24のみ)

ラスト・ステップ(ブラウンのテレキャスによるギター弾き語り)

Your Eyes(楽器持たず/ア・カペラ・カラオケ使用、サックス生演奏)

closing SE: That's My Desire~恒例のクラッカーで締め

開演:1840

終演:2220

ライブ時間:3時間40

 

MCメモ:

本日は千秋楽です。千秋楽にいらっしゃれましたお客様はようこそです。クリスマスイブに他に色々と行く場所もあるというのに、わざわざ山下達郎のコンサートを選んで頂いて誠にありがとうございます。しかしクリスマスイブだというのこのような場所に来ていて皆さんのご家庭は大丈夫なんでしょうか?(会場笑)

私もめでたく還暦を迎えることになりました。実は、先日国民年金の書類が来て、年金受給の繰り上げの申請ができますとか・・。もうそんな歳になったのかと思いました。
しかし若い時にはまさか還暦になってもまさか自分がまだツアーをできているなんて夢にも思ってなかったです。

中野サンプラザは、業界指数が高くて、いつも切った貼ったのせめぎ合いになるんですが・・。

ほら、椅子に座って拍手もしないで脚組んで腕組んでいる人とかいるでしょ?

昨日も(1223日)も前半はちょっとそんな雰囲気があったんですが、後半取り戻して良かったんですが・・・。

そういう事で、本日は、マスコミ招待ゼロです。(大歓声)。

そういう感じをご理解頂いて、何とぞ本日の千秋楽、よろしくお願い致します。

とにかくセットリストに困りました。何を選ぶかというより何をやらないかという感じになるんですが、それこそ70年代80年代からの古いファンの方から、OPUSを初めて聞いて来て頂いている一見さんまで好みが雑多で、あちらを立てればこちらが立たずという感じですので、どこに焦点を当てればいいのかわからないので、自分のやりたい曲をやろうと思います。

今夜は千秋楽ですし、いつもと違い(先を)気にすることもないので、やるだけやって帰ります。ちょっと長くなりますが皆さんよろしくお願い致します。

80年代から90年代のツアーは、レコードを出してツアーをするという、どちらかというとプロモーションという感じのツアーが多かった時代なんですが、私の場合は、元々そういうスタイルとは無縁で、レコードが出ようが何しようが演奏したいものをやるという感じだったのです。
それでもメロディーズを出した時はメロディーズの中の曲から何曲かを演奏するという事になります。また次のアルバムが発売されるとその当時演奏されたものがその後全く演奏されないという事が起きます。そうこうする内に、数十年の間一度も演奏されないままの曲が沢山出て来るということになってしまうんです。

私が逆ダブルスコアの30才の時に発売したメロディーズをムーンレコードというインディーレーベルから出したんですが、この度デジタルリマスターを致しました。

メロディーズが発売された当時は、まだLP(アナログ盤)の時代でCDがありませんでした。その後CDが出現したのでCD化されたんですが、これは単純にアナログをデジタルに乗せ換えただけ、トランスファーしただけもので、音質、音圧などは今のレベルと比べると全く比較にならない代物で、それがずっと長い間流通して参りました。かつてポケットミュージックも初CD化された時は酷いものでしたので、再発の時は、全曲をリミックスをした上でマスタリングをしました。ですからポケットミュージックは初版と再発が全く違うミックスなのですが、これが同じものかと思う程の違いがあったのです。
今回のメロディーズ、30年という節目でやっと納得のできるデジタルリマスタリングが出来、これでEXILEの隣の並んでも遜色のない音に仕上がりました。(会場笑い)

またオリコンの初登場でベスト10に入り、これも一重に皆様のお陰だと思っている次第でございます。
なお、まだお持ちでない方のために、本日会場内で販売しておりますので、御鑑賞の記念にお手にとって頂けば幸いです。(笑)
なお、本日はサイン付きでの販売ですので、何とぞよろしくお願い致します。
そういう訳でメロディーズからはクリスマスイブのヒットがありました。録音した当時はこんなことになるとは思っておりませんでした。クリスマスイブも30周年を迎え、今回新たにリマスターを行い30th Anniversaryとして発売致しました。これもお陰様でオリコンチャート初登場ベストテンに入り、80年代、90年代、2000年代、2010年代の4年代に渡ってベストテンに入るという記録を作ることもできましたし、それだけの時間をかけトータルで200万枚というのも実に私らしいと思っております。
曲を書いた時にはこんな風になるとは全く想像もしておりませんでしたが、これも皆さんの応援の賜物だと思っております。

さてそういう事で、そのメロディーズの中から何曲かやろうと思います。今日は初めて居らっしゃった方も多いと思います。
山下達郎のコンサートは、他の人のコンサートと違ってちょっと勝手が違うので戸惑う方が多いと思います。

最近のコンサートは、とにかく客電が落ちた1曲目から総立ちになるケースがあるのですが、私には全く考えられません。何でまだ何も始まっていないのに総立ちになれるんですかね?

私のコンサートは1曲目から総立ちになったらその場で止めると昔から言って来ておりますが、そう言えば、先日ある若い来場者の女性からお手紙を頂まして、「達郎さんのコンサートは何で1曲目から総立ちにならないんですか?」って書いてあるんですよ。まあとにかくこういう具合なんですよ。

私のような人間は圧倒的に少数派なんですが、私はこのやり方しかできませんから。

今回OPUSを聞いて俗に言う勉強して来た方々は、これから演奏する数曲は、余り馴染みのない曲かもしれないのですが、私がとっては大切な曲でして、そう言う期待をしてきた方は、身の不幸と思って納めて頂ければと思います。()

(ここからあしおとへ)

時代の流れでドライブやリゾートミュージックの代表格として夏だ海だ達郎だという扱いを一時期受けておりました。プロモーションなんかに行くと、「山下さんって言えば夏だ!海だ!達郎だ!っていうイメージなんですが、やっぱりサーフィンとかやるんですか?」なんて聞かれる訳なんですよ。やる訳ないだろホントに。

だから僕は絶対にT***だけにはなりたくない。(笑)

まあ、あれはあれですごいけどね・・・。
とにかく夏っぽくないものを作ろうということでメロディーズができました。

そのメロディーズの中からもう1曲。
(
ここから「ひととき」へ)

こういうマイナーな曲をやるのは非常に勇気がいるもので。

お恵みの拍手をいただき、ありがとうございます。

私の曲には情けない男の歌多いのですが、元祖はこれかなと。

(ここからPAPER DOLL)


最近、なにかとカバーが大流行りというか、カバーがズラっと並ぶような感じでございますが、ベタなカバーアルバムばっかりで、もっと自分の個性を出してやればいいと思うのです。だから全部同じようなもんでカラオケの延長上にしか聞こえない。
そこで今夜は、山下達郎にしかできないカバーをお聞かせしたいと思います。
(ここからGod Only Knows)


これはスレイベルという楽器で、大瀧さんなんかが好きなんですが、振ったり叩いたりと色んな演奏方法があるんです。でも素手ではこの後のギターの演奏に支障がでるんです。で、なぜゴールキーパーのグローブかといいますと、軍手や野球のグローブで試したんですが、これが一番おしゃれな気がして。ねっ、いいでしょっ。 

ツアーやりながら練習しようと思ってたのに、色々とに忙しくて(バンド)メンバーに渡す楽譜が書けなくてだけどやらないワケにはいかないのでせめて弾き語りでやろうと思います。
この曲は、鹿児島でギターでやったんですが、大コケしまして、本当はギターでやる曲じゃないんですが・・。まあ、ピアノでやる曲でもないんですけど・・。言い訳ばかり(笑)
まあ、気は心でピアノで演奏します。

(Fender Rhodesとリズムトラックで演奏)
(
ここから光と君へのレクイエムへ)

SEASON'S GREETINGSはクリスマスのアルバムとして作ろうと考えていて、これは例のクリスマスイブのヒットがなければ考えなかった完全に便乗企画なんですが、色々と選曲をしてみたのですが、なかなか良い感じになりませんでした。
そこでアカペラとオーケストレーションを組み合わせればと考え、選曲の幅も広がりアルバムとして作る事が出来ました。SEASON'S GREETINGSも発売以後一度もリマスターすることなく今日に至るのですが、今回発売から20年という節目でリマスターすることが出来ました。このCDも会場内で販売しておりますので、一度お手に取って頂けますと幸いです。(笑)

実はですね、私のこうした業務連絡は、まだいい方なんですよ。(笑)

先日、ある*****系のコンサートに招待されて行ったんですが、アンコールで延々25分もグッズの説明したんですよ。さすがにバカバカしくて途中で帰ったんだけど、その後聞いたら、結局1曲しかやらなかったという話なんで、帰って良かったんですがね・・。

いつもはここでアカペラのコーナーなんですが、SEASON'S GREETINGSのリマスターが発売されましたので、その中から演ってみたいと思います。
次の曲ですが、この曲が非常に難解で、リズムが取りにくいんです。最初の15公演位は結構苦労しました。しかも歌詞がややこしくて覚えるのが大変で・・。私はプロンプターとか口パクではやりませんので、ipodにカラオケを入れてウォーキングしながら覚えました。何を自慢しているやら・・。

そういう訳で難易度が高い曲なので、途中でコケタりするかもしれませんが、こういう曲に挑戦する心意気を買って頂くということで何とぞよしなにお願い致します。千秋楽なのにまだ言い訳ばかり・・・。
(
ここからMy Gift To You )

(演奏後に“間違えなかったみたい・・”と納得の呟き)

私はディズニーのわんわん物語が好きで、幼稚園の時に映画館で見た記憶がございます。お姫様の犬と野良犬が恋をするという話なんですが、その中でレストランでこの2匹がパスタを食べるシーンがあります。そのシーンでは、レストランの主人が2匹の前で唄を歌うのですが、それがBella Notte、つまりBeautiful Nightという意味の曲なんです。

そのシーンでは、2匹がお互いにパスタを食べている間に端から食べて行って最後に唇と唇が合わさるというシーンが好きで・・・、あの、別にキスシーン好きって言うんじゃなくて、曲がですよ。(会場笑)

では、Have Yourself A Merry Little Chiristmasは一番好きなクリスマスソングなんです。なかなかこうした曲を演る機会がなく、今回はこの2曲をお届け致します。

演奏の間に話をすることをMCと云うのですが、以前の私は全国どこの会場に行っても一語違わず同じ内容を喋る事にこだわりを持っておりました。しかし段々それがめんどくさくなってきまして、今回からは全く台本なしでやっております。
ですが、特に業務連絡なんかを忘れると夜も眠れなくなってしまうんですが、今日は今のところまだ大丈夫のようです。

さて、今回のパンフレットですが、普通のアーティストだと写真がたくさんあるのですが、私の場合、そんなんじゃ売れないですし面白くもないので、メロディーズとSEASON'S GREETINGSを対談形式で掲載しました。メロディーズの方はクリス松村さんと対談しました。クリス松村さんと言うと意外に思われるかもしれませんが、クリスさんは70年代や80年代のアイドル歌謡のオーソリティーで、また音楽に非常に造詣が深い方です。ですから今回の対談はちょっと濃いィ内容になっておりますので、その筋がお好きな方には良いんじゃないかと思います。またSEASON'S GREETINGSはアレンジをして頂いた服部克久さんとの対談で、音楽的な面で対談しておりますので、その筋がお好きな方には良いんじゃないかと思います。全部で4万字ですからそこらの音楽雑誌よりも断然価値があります。会場内で販売しておりますので、観賞の記念にどうぞお手に取って頂ければ幸いです。

私が初めてここ中野サンプラザでライブを行ったのは198051日、ライドオンタイムの発売日でした。それから早33年、まさか60歳になって自分がここに立っていようとは想像もしておりませんでした。
(私も54歳になってまだお付き合いしているとは思いませんでした・・)

以来ここが私のホームグラウンドになっているんですが、別にここが好きだっていう訳じゃないんですよ。サンプラザは舞台の奥行きが狭くて音響的に難があるので、ご覧の通り舞台を前に迫り出しております。こうしないと音がこもってしまうんですよ。そう言えば、ここ中野サンプラザは取り壊しの話が出ておりまして、5年後という噂もありますが、どうなるかまだ分かりません。**公会堂という話もありますが、あそこは21時なると本当に電源を全部落としますからね。意地悪するんであそこでは絶対にやりません。(笑)

ここが無くなったら何処に行けばいいのか困ったものなんですが・・。

今回のツアーは、中野で4日、NHK2日、合計6日やったんですが、それでもチケット争奪戦が繰り広げられているようなので、次のツアーの東京はもう少し日数を増やさないといけないかなあ・・って思ってます(大歓声)

お客さんが悪乗りして長い拍手をしていた時:

これこれ、もうその辺で止めておきなさい。大丈夫ですか?(笑) 
こういう風に言うとシュンとしてしまう人がいるので困るんですが、別に怒っている訳じゃないですからね。

でももうやらないでね。(笑)

そう言えばなんですが、先週の大阪フェスティバルホールの時、そっちの方(上手客席側)の前列に座っていた人がタンバリンを持っていたんですよ。それでその人が1曲目の東京ラプソディーからずっと演奏中にタンバリンを叩くので、すっかり演奏の調子が狂ってしまい、あれは本当に大変でした。

あと、名古屋(11月)の時は、生まれて初めて客と口論になって、その人には「帰れ!」と言って帰ってもらいました。本当に帰りましたが・・。
私のような人間は、演奏の際にお客さんとの呼吸が非常に大切で、そういう機微というか空気の読めない僅かな人間の行いによって(ライブが)台無しになって、結果的に他のお客さんに迷惑がかかるというのを理解して欲しいんです。

ちょっとだけ真面目な話を致します。

私は過去38年の間、こうしたライブのステージ上で政治の話を一切した事いませんでした。しかし北朝鮮の問題や、中国、韓国などの周辺国との関係など、昨今の政治状況を見ているとそうも言っておられません。
実は私は70年代の安保の時代に高校生で、将来は天文学者か何かになって星でも眺めていたいなあと思っていましたが、結果的にはミュージシャンになって今日に至ります。
私がまだ高校生の時代、安保運動が活発で私も本当に足の踵が入る程度関わっていた事がありました。その過程で政治の裏で行われている非常に汚い部分を見てきてしまいました。それが原因で、私はドロップアウトし、今後は政治からは距離を置こう心に決めました。

私は右でもなければ左でもありません。ただ、ひとつだけ私のような音楽などの文化活動は、世の中が平和でないとできません。それ故、願わくば平和な世界が続けばと思います。

実は私が学生時代、韓国人の友人がおりました。もの凄く頭の良い人でした。ある日その彼は、北朝鮮の帰国運動の波に乗り、万景峰号に乗って北朝鮮に渡る事を決意しました。私は彼を上野駅まで見送りに行きました。そして彼が私に向かって“オレは今から極楽に行く、お前はこんな国に残って気の毒だ”と言いました。その光景は今でも脳裏を離れません。そしてその彼が現在、何処で何をしているのか全く分かりません。

これから演奏する曲は、私の2枚目のアルバム「SPACY」に納められている曲です。抽象的な歌詞ですが、70年代当時の空気感が残っていますし、なんか今の日本の閉塞感を表していると思います。

(ここからDANCER)

希望という名の光の中での青山純さんに対するコメント:

先日、123日 ドラマーの青山純が急逝致しました。56歳でした。
私はツアー中であったために、葬儀に出席出来ませんでした。49日はまだですが、このツアーが終わったら霊前に行き、ミュージシャンらしく、音楽で送ろうと考えております。青山は、80年代90年代2000年代に渡って私の音楽をドラムで支えてくれた人物で、本当に稀代のドラマーだったと思います。このサンプラザでもずっと一緒に演奏をし、今日会場にお越しの方々の中にも彼の演奏に触れた方は多いと思います。

ここ最近は体調が優れなかったようです。
ょっとだけ生き方が下手な青山でしたが、彼の冥福を祈りたいと思います。
(そして達郎さん合掌・・・。私も合掌。

あと2年で(ミュージシャン生活)40年を迎えます。とりあえず体が健康でおかげ様でなんとかキーを落とさずできています。私の周囲では、12音と落とす人が少なくないのですが、私の場合は殆どの曲をオリジナルのキーで唄えております。

私はテレビ出ない、武道館やらない、本書かないを貫いていますが、アリーナクラスなんかでこんな小さいものを見ても楽しいとは思えないです。東京ドームなんてもう盆踊り、花火大会です。こういう場所は、自分には関係ありませんので中野サンプラザが私にとっての東京ドームであり、武道館です。幸いメンバー、スタッフともに健康で続ける事が出来そうです。

私のライブがなんでこんな長くなったかと申しますと、昔、例えば宮崎などの地方会場だとPAの前ぐらいまでしか埋まらず、だいたい600700人位がしばらく続いた事がありました。そのうちここで演れるのはこれが最後になるんじゃないかと思うようになりまして、そうであればやれることを、やれるだけやろうということから、私のライブは長くなって行きました。

(メンバー紹介のベースソロが終わった頃のつぶやき)

なんか、ギャラに不満でもあるのかな?(笑)

Let’s Dance Babyのクラッカーの時)

今日が一番多いかも・・・。

今日のお客さんは本当に温かくて助かりました。マスコミ招待をゼロにして良かったです。(会場歓声)

お陰様で良い収録が出来たと思います。本当にありがとうございました。また音響スタッフ、照明スタッフ、楽器スタッフやトラポンのトラックの方に至るまでここには見えない人たち、本当にありがとうございました。お陰で良い千秋楽になりました。来年は、まりあのアルバムの制作、そして自分のヤツをちょこちょこやってまたツアーをやりたいと思いますので、来年もまた何とぞよろしくお願い致します。

そしてお互い、カッコ良く歳を取りましょう!

ファンクラブの会報で今回のライブに関するインタビューがあった。その中で東京の初日(10/26土曜日の中野サンプラザ)について語っていた。私があの日あの場所に居た人間なので興味を引いた。

達郎さん曰く、「あの日は冒頭の30分位、お客さんが妙に硬くで今日は果たし合いかな・・なんて思っていたら段々熱気を帯びてきて最終的には良かったんだけど、あの日は妙な夜だったなあ・・。」

確かに冒頭のお客さんの拍手の色合いは静かだった。ワー!という感じもなく、普通よりちょっと地味な感じだった。でも本当はワー!とやりたいんだという感じは客席に居て分かった。何か距離感を測りかねていたんだと思う。実は近年サンプラザに行って顕著に気が付く変化があった。それは「女性のお客さんが凄く増えた」ってことだ。昔の達郎さんのライブは、大抵男ばかりだった。それがここ数年は女性が40%程度もいる感じなのだ。そのためか、お客さんの反応が柔らかい感じになっているんじゃないだろうか?というのが私の見立てだ。
私のような常連はともかく、久々の人や初見の人には中々コンサートの空気感を直ぐに理解するのは難しいものだろう。

だから演奏と共に熱がコモって来たのでしょう。

2014年のツアーも楽しみにしております。そんな事言ってたら、2017年も間もなく開始って感じです。

 


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現代の日本の音楽業界に何が起こっているのか?を知るためのまとめ。 [音楽に関わるブログ]

現代の日本の音楽業界に何が起こっているのか?を知るためのまとめ。

 

現代の日本の音楽産業は、簡単に言えば斜陽産業だ。それ故に、勝ち負けが明確になりつつあり、ビジネスを次につなげるような中間レベル層が消滅しつつある。
今後、近い内にアメリカではCDの製造工場が無くなると報道されており、生産数が減少すれば日本も同様だろう。
1960
年代から1997年まで右肩上がりの成長をしてきたレコードビジネスは、目を覆うような左肩下がりを見せている。変わって登場したライブビジネスは右肩上がりだが、かつてのレコード(CD)産業のピーク時を凌駕するにはまだほど遠い。それでも2017年には3000億円を超える市場となる。
しかし配信ビジネスは頭打ち状態だ。以下にまとめたサイトがあったので参考にしてほしい。

レコード業界の行方2013

http://magamo.opal.ne.jp/blog/?p=844


実際に現代の音楽産業は、マーケット規模の割にプレイヤーが多すぎる。またサザンやB’ZEXILEなどのメガアーティストに目を奪われがちだが、彼らは極一部の成功例で、全体を俯瞰してみると、音楽産業の従事者の所得レベルは著しく高いとは言えない面がある。
数多くのレコードメーカー、マネージメント会社など存在数は、マーケットが吸収できる規模を超えているというのが冷静なビジネス視点からの景色だ。
つまり、音楽産業は再編を必要としているのだ。

音楽産業には様々な従事者がいる。レコードメーカー、マネージメント会社、レコーディングスタジオ、ミュージシャン、アレンジャー、プロデューサー、レコーディングエンジニア、レコーディング機器メーカー、楽器メーカー、イベンター、ライブ制作者、著作権管理団体、流通関係(店舗等)、コンサートグッズ関連などだ。
マーケットでビジネスのポジションを確保するためには、大雑把にいえば、川上(供給元)に近いか川下(消費者)に近いかのどちらかでなければならない。しかしこの理論も必ずしも有効でない場合がある。レコード・メーカーは川上と川下をそれぞれに持っているが、ビジネス規模の縮小によって投資にビジネス実態が合わなくなり始めている。
またライブが有効かと言えば必ずしもそうではなく、ライブでの収益実態は僅かで、結局グッズの売り上げがライブの主要な利益を支えているという面もある。
そもそも音楽産業は、成功率15%程度のヒット率を紡ぎながら成り立たせなければならないという体質がある。ヒットから生み出した利益を再投資出来ない限り、いずれ才能の発掘には限界が出てくる。
1980
年代なら1000万円から3000万円強程度を投資できた音源原版制作も、現代では800万円以下がザラで、数百万というのが相場だったりする。予算の低下は録音作業にしわ寄せが来るため質にも影響が出る。昔のような予算で音楽を作れるアーティストは、回収見込みがハッキリしている人々のみで、それ以外は惨憺たる予算と制作環境だ。
最近はレコードメーカーと契約している新人が、路上ライブや対バンのライブなどでCDを手売りしていたりする。しかしCDipodなどの機器への音源伝達媒体にしかならなくなった時代、現物を買う人間は本当に僅かになってしまった。
固定媒体の売上に依存してきたビジネスモデルを簡単に捨て去る事は難しいが、いずれにしても命脈は尽き始めている。
今後、音楽を目指す若者が昔のように夢を持って参入してくれるかどうかは分からない。しかし、かつてのような中間層を消失してしまった業界での生き残りは、かつてない程厳しいのが現状だ。相当なキャリアを形成してきても、音楽事業継続が困難な時代になっているため、中途半端な才能では絶対に生き残れない。音楽産業が無くなる事はないが、かつてのビジネスモデルは崩壊し、新しい形に変化するだろう。近い将来メジャーデビューという概念も無くなるかもしれない。全員が個人のインディーズレーベルを持ち、その中から支持を集めたミュージシャンだけが職業音楽家として成立出来る時代になるだろう。既にあの矢沢永吉氏ですら、自身のインディーズレーベル(GARUR RECORDS)で活動している。彼はいつも時代を先取りしているが、彼のやり方が今後のメジャーアーティストの主流になる時代は近いと思う。それでもCDという商品をモデルにしたビジネスは、2025年までに殆ど成立しなくなるだろう。

私の親戚筋にもミュージシャンを目指す若者がいる。彼の能力の有無は私の判断外だ。しかし実家に住み、衣食住を親から賄われて夢を目指していると嘯く彼の姿を見て、こんな環境で成功出来るほど音楽業界が甘いなら、命を削ってやっている連中に申し訳ない感じだ。
そういう中、以下にまとめた音楽業界人の声を聞いて、古き良き時代と懐かしむのか、全く新しい時代を切り開く事が出来るのかを考えてみたい。いずれにしても、ミュージシャンを一生の職業として生きて行くのは相当な才能と能力とスタッフィングがないと続けられない時代になった。ミュージシャンが消える事はないだろうが、我々の時代のような多様性は無くなるだろう。そういう意味で近未来の音楽産業は画一的でアイドル的にならざるを得ず、硬派な音楽を好む層にとっては、もはや時代の終焉と考えておいた方がいいだろう。つまり過去の音楽に嗜好を求めるしかないという事なのだ。



佐久間正英氏 音楽家が音楽を諦める時

http://masahidesakuma.net/2012/06/post-5.html

 

音楽プロデューサー佐久間正英が語る「未来の音楽のために」(前編)

http://realsound.jp/2013/08/post-38.html

 

 

音楽プロデューサー佐久間正英が語る「未来の音楽のために」(中編)

http://realsound.jp/2013/08/20-1.html

 

音楽プロデューサー佐久間正英が語る「未来の音楽のために」(後編)

http://realsound.jp/2013/08/post-39.html

 

音楽プロデューサー・佐久間正英氏が語る「音楽業界の危機的状況」

http://blogos.com/article/42056/

 

山下達郎:職人でいる覚悟と関連記事

http://www.asakyu.com/column/?id=1028

http://www.asakyu.com/column/?id=1031

http://www.asakyu.com/column/?id=1034

http://www.asakyu.com/column/?id=1037

http://doraku.asahi.com/hito/runner2/121016_02.html

http://doraku.asahi.com/hito/runner2/121016.html

http://wmg.jp/tatsuro/official_interview01.html

http://wmg.jp/tatsuro/official_interview02.html

http://wmg.jp/tatsuro/official_interview03.html

http://wmg.jp/tatsuro/official_interview04.html

http://wmg.jp/tatsuro/official_interview05.html

http://adv.asahi.com/modules/feature/index.php/content0576.html

 

 

デビュー20周年の鬼才・石田ショーキチ登場 Spiral Lifeと90年代の音楽シーンを振り返る

http://realsound.jp/2013/09/spiral-life20.html

 

「20代のバンドはどう食べていくか?」石田ショーキチが示す、これからの音楽家サバイバル術

http://realsound.jp/2013/09/post-97_2.html

 

石田ショーキチが語る「激動のシーン20年」(第1回)

http://realsound.jp/2013/09/spiral-life20.html

 

 

石田ショーキチが語る「激動のシーン20年」(第2回)

http://realsound.jp/2013/09/post-95.html

 

 

横山健(ハイスタ)が今の音楽業界とインディーズ・レーベルのあり方に切り込む (前編)

http://realsound.jp/2013/10/cd-1.html

 

 

横山健(ハイスタ)が今の音楽業界とインディーズ・レーベルのあり方に切り込む (後編)

http://realsound.jp/2013/10/post-132.html

 

音楽業界でまさかの「逆転現象」発生中

http://president.jp/articles/-/8497

 

バンドは今やインディーズが主流 メジャーデビューでも食えない

http://www.j-cast.com/2011/01/23085796.html

 

NEVER  音楽業界の動向についてまとめ

http://matome.naver.jp/odai/2131521377900746401

 

 

 


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Queen“Bohemian Rhapsody”のサウンドの秘密を探る Part-15 (最終回) [音楽に関わるブログ]


queen-image (2).jpg
1975
年、ヒアフォードシェアーでの3週間に及ぶBohemian Rhapsody”のレコーディング用のリハーサル、1975年4月25日にモンモウス近くのロックフィールドスタジオ1で始まった“Bohemian Rhapsody”のレコーディング、またその他4つのスタジオ、ラウンドハウス、SARM(East)やサセックスなどを曲の完成のために利用した。
フレディーは、レコーディング中、この曲に対して非常に明確なヴィジョンを持っていて、セッションを通じてメンバーにキチンとした指示をすることが出来ていた。おびただしい数の曲の各パーツは、ガイドクリックだけを頼りとして別々に録音され、後に1つに集約された。

フレディー、ブライアンとドラマーのロジャー・テイラーは、彼らのコーラストラックを1日12時間余りもかけて重ね続けた。ある個所だけに限れば、180を超えるオーバーダビングがほどこされている。当時、24チャンネルのアナログレコーダーを使用していたために、おびただしい回数の多重録音を行うためには1回当たり3人編成で歌う必要があった。そうして出来上がった音源をミックスして別のトラックにコピーしてサブミックスとした。この反復により最終的な音源は(最初の世代から数えて)8世代を経る事になった。最後のバージョンを作り出すために数えきれない程のテープの切り貼りが行われた。

1975
1010日、シングルがリリースされ、“Bohemian Rhapsody”はアッと云う間に国際的な成功を収めた。イギリスでは驚異とも言える9週連続というナンバー1に輝き、ロック史上3番目に位置するセールスを記録したのだ。当時、本作はかつてない程、最も制作費をかけ、綿密な作業によって生み出されたポップ・ロック曲だった。
また、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、イスラエルそしてオランダなどでも1位に輝き、アメリカでも最高9位ながらも非常に好評だった。

queen-image (1).jpg

フレディーは本作についてこんな風に語っている。
「この曲は幻想的な感じに満ち溢れているんだ。多くの人々にはただ耳を澄まして聞いて欲しいと願っている。そして曲について考えてもらい、曲が何を言わんとしているのかを酌み取って欲しいんだ。“Bohemian Rhapsody”はどこからともなくアイデアが浮かんできた訳じゃないんだ。ほんの少しだが曲のためのリサーチだってやったんだ。でも結果的には皮肉めいた擬似的オペラになったけどね。でもそれで良かったんだよ。」


あとがき:

改めて“Bohemian Rhapsody”に触れると、この曲の偉大さを痛感する。本作のアナログ24チャンネルのマスターテープとして現存している物は私の知るところ1本分しか存在しないようだ。各パーツで録音されたものはどこを調べても出てこず、パーツを集約した1本のマスターのみが存在しているようだ。
このマスターは既にデジタルコピーされている。
マスターのアナログテープはそもそも耐久性に限界があり、何度も再生すると磁気部分が摩耗して音質が著しく劣化するからだ。

それにしても“Bohemian Rhapsody”の発想力とそれを現実に作り出した力には未だに驚嘆されられる部分が多いからだ。またこの楽曲の独創性は、他のミュージシャンによるカバーを容易に許さない点でも明らかだ。どんなヴァージョンを聞いてもQueenの演奏とフレディーの声の影がチラつく。当時のレコーディング技術を文字通り駆使して作り上げたこの作品への情熱は、時代を経ても色褪せることがない。

当時の手法を苦も無くこなせる現代では、あの質感を作り出す事は不可能だったろう。アナログレコーディングと24チャンネルという技術的制約が副次的にあの質感を生んだ部分もあるからだ。また制約の中を潜り抜けたからこそ時代を超えるものになったとも言える。
クリエイティブのエネルギーの集約とは時代を貫く力がある。
しかしその根源はフレディー・マーキュリーという才人の発想力から生まれたことだと言ってよい。
そして彼のリーダーシップとベイカーという理解者が核となってメンバーたちの能力と技能の集約が作り上げたとも云える交響楽的な発想のロックオペラをチームで仔細微細に構築し、我々の耳に届く形に昇華させたことは時代の変遷を考慮に入れても驚くべきことだ。

16
歳だった当時、この曲を聞いた自分の意識の中には、こんな事を可能にする人類が地球のどこかに現存していることに驚いたというのが実感だった。日本人の我々には到底発想しえないものだったからでもある。
洋楽ファンは様々な観点で洋楽の“圧倒性”にノックアウトされるものだが、この楽曲もそうした例に漏れない。そしてリアルタイムの時代の流れの中でこうした驚愕する洋楽に出合えていたのは、未成熟なティーン時代の脳に大きな刺激として刻みつけられたのだ。あれから38年が経過し、多くの同時代を生きていた人々が改めてこの曲に触れる時、また新しい発見をすると考えている。

以上。


2013年5月5日 初稿


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