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たばこに関する議論 [独り言]

たばこに関する議論

NHKのクローズアップ現代でもやっていたが、
オリンピックに向けての日本の喫煙規制が現実味を帯びている。
愛煙家には腹立たしいだろうが、規制に大賛成である。

喫煙を嗜好と片づける方々がいるが、公共の空間に継続的に他人を巻き込んだ負荷をかける嗜好というのは余り例がない。

酒も酔っ払いという負荷はあるが、避けることが可能だ。喫煙で排出される煙はそれができない。
また酔っ払いで当方が健康被害を受ける事はないが、受動喫煙の健康被害は立証されている。
受動喫煙が原因のガンで年間13,000名が死んでいるというのも本当か?と思うほどだ。

飲食店に入るとランチ時でも禁煙しない店が多く、また一緒に行く人が喫煙者という場合もある。

正直に言うと公共空間での喫煙は非常に迷惑だ。
服や体につく匂い、受動喫煙の被害など、電子たばこにしても同じ場所に居たくない。
たばこを吸う人たちは吸わない人たちへの配慮がないのだろうか?と思うほどだ。
だからどうしても喫煙する人がいる場所が避けられない場合は、マスクをして、自分で洗える服で行くことにしている。

喫煙規制は世界レベルで徹底的にやってほしい。
100歩譲っての提案は、喫煙者のみしか入れない飲み屋とか作って
その飲み屋は完全に密封し、空気も共有しないようなスペース、
もしくは排出する空気は完全清浄した後という感じなら良いだろう。

以前、たばこを吸う人と同居していた時期があったが、部屋中がタールで
黄色になってしまった。おまけに掃除しても取れない。

音楽業界にいた時、ミュージシャンやクリエイタースタジオや会議室で
タバコを吸うのを拒否できない環境は本当に嫌であった。

若い頃だったので気にしないようにしていたが、もうおっさんなので
自分の体の未来を考えても、そういう人たちとは仕事をしたくならない。
タバコ臭い楽屋や会議室も行きたくならない。

最近、女性の喫煙者は珍しくないが、子供を産みたいのなら喫煙すべきでないだろう。
医学的に見てもこの主張は根拠がある。
たばこ臭い女も好きじゃないし。
子供を産んだ人(旦那さんも含む)が子供のいる部屋で
タバコを吸うなんてある種の虐待じゃないかと思うほどだ。

そういう意味でスタバはいい。
ドトールのコーヒーは好きだが、分煙が怪しい。

吸うなとは言わない。吸うなら自宅か、決められた環境下だけにしてほしい。

ただ、小規模店舗の対応が、生活そのものを脅かすという部分は慎重な対応を要するだろう。
それでも時代はもう喫煙者と非喫煙者を混在させた生活を許さないと点において対応せざるを得ないだろう。 
 
 
 受動喫煙防止の波紋 小規模飲食店には厳しい条件 「店つぶれる」反対意見相次ぐ

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年金に頼れない世代が下層老人にならないための30歳からの考え方 [独り言]

 
年金に頼れない世代が下層老人にならないための30歳からの考え方としての結論。
それは、今の10~30代の若い層は、「生涯年収」が死ぬまでの全ての可処分所得になる時代への準備をしないと大変ってことだ。 年金だけに頼れない時代はそういう事を意味している。
 
私は1959年生まれだ。
約40歳まで好きな仕事が出来てればいいやって感じで生きてきた。
23歳から41歳まで過ごした音楽業界は私には心地の良い世界だった。
しかしミュージシャンにしてもスタッフにしてもかなり実力と収入が比例する世界だったので、
実力不足の私のこの間の総収入は年齢平均ギリギリか若干下回っていたと思う。
収入が不安定な時期もあったので、常に短期的視点でしか人生設計を捉えることが出来なかった。
年金も未納時期が多く、受給資格を得るのは事実上困難な感じになってしまっていた。

41歳で音楽業界を辞め、運よく、とある一部上場企業に転職した私は、
それまでよりも若干収入が増えたこととや、相対的に音楽業界よりは労働時間が少なかったため
自分の将来について落ち着いて考えられるようになった。

ある日、私は自分が仮に80歳まで生きたと仮定して、同じ水準の生活をした場合、
一体幾ら必要になるのかエクセルを使って単純計算してみた。
まあ、計算するまでもないのだが、41歳時の年間支出を80歳まで続けると仮定し、
なおかつ、60歳で退職したと仮定しても数千万円以上必要であることを認識したのだ。
とても41歳時の年間支出なんて80歳の段階では不可能なのだ。

私は自分の老後設計について、初めて現実を知ったのはこの時だった。
背筋が寒くなった・・。

私はその当時、年金未納期間が多くあったために、受給資格はゼロだ。
(その後法改正で10年以上の支払いで受給資格を得られるようになったので月に数万円はもらえそうだが・・)
従って定年後までに、一定程度貯蓄をして、切り崩す形に持ち込むか、現役で同程度の収入を得られる仕事をしているかの2つの選択肢しかないということが分かった。現役で同程度の収入を得られる仕事をしているかについては相当ハードルが高そうだ。
また、引退後は、41歳時点の生活の70%程度もしくはそれ以下になりそうだということも分かった。
最も困りそうなのが住む場所の確保だが、音楽業界時代の低収入がアダになって手持ちの貯蓄が圧倒的に足りないということが問題だった。

普通のサラリーマンで1960年以前に生まれた人たちは、年金受給者になると1人当りだいたい17万円程度の年金を受給できる。夫婦で月額25万円程度だ。
余程の例外でもない限り、殆どの人たちは日常の生活はこの金額内に収めることになる。
貯金があれば、日常以外の支出に回す事が可能だ。
そしてこういうちゃんとした人たちはだいたい持ち家がある。
だから贅沢さえしなければ割合と普通に暮らす事が可能だろう。

私の場合、これに全く当てはまらない。
多分今の若者も私のような感じになるだろう。
私の場合、殆ど年金に頼れないため、生涯年収の中でやりくりするしかないという事だ。
しかし、生涯年収で老後まで生活を維持するのは相当大変なのだ。
現代において国民の平均的年収は480万円だ。35年働いても総額約1.7億円。手取り1.2億円。これで平均寿命まで食つなぐというのが日本国民の平均的人生設計だ。

そこで私は41歳から60歳以降の生活レベルを想定しながら、生活レベルをできるだけ抑え気味にし、
かといって貧乏臭くならず、そして貯蓄を徹底することにした。
40代~50代前半って、ある意味サラリーマンのキャリアの完成時期で、
支出的に自分の買いたいモノを買える年齢である。
私の友人は、独身貴族なんだから高級車を買ったり良いもの食べたりすりゃいいじゃん、などと
けし掛けたのだが、私は元来買い物が好きでもないし、欲しいものもカメラ位と、
あとはコンサートに行く位だったので、支出的には30代前半のままを維持できた。

そして私が家計簿をつけ始めたのはこの時期だ。
自分の収入と支出を自分に沁み込ませるためだ。

そしてそれから16年が経過した。

60歳で定年したとして、私が安心して平均余命まで生きるには、どうやら最低でも65歳、出来れば古希近くまで何らかの仕事をしていないとならないようだ。
それで定年直後に露頭に迷う事だけは何とか避けられそうだが、年金だけでは全く生活できないし、
貯金の切り崩しは必ず預金残高の終了日が来てしまうため、やはり退職後の自分の労働場所にも配慮して
生きて行かねばならないのだ。

私の古巣の元音楽業界人には大金持ちと貧乏人しかいないようだ。
嘗ての私と同じように好きな仕事だから辞められないという考えで
キャリア設計を上手く組み立てられなかった人たちは総じて貧乏人になっており、特に老後の生活設計が悩みの種なのだ。

特に40歳を過ぎてからの転職は、人生のその後を決定してしまうため、相当な覚悟でやった方が良いです。
私は幸運にも一部上場会社に潜り込み、比較的恵まれた職場環境で過ごす事が出来たので、
社会人前半の収入ロスの一部を取り戻す事が出来たが、
それでも社会人前半の収入ロスの影響は大きく、
古希まで働かないといけないような現実を突き付けられているのです。

困ったのは何歳まで生きるかが不明なのと、いつまで健康でいられるのが何年かが判明しない点です。

現代を若者として生きる皆さんに言いたいのは、人生はある程度自分の意思で設計を必要とするという現実だ。
官僚連中が国の金を横取りして天下り先を作って結構な年齢になっても働ける労働場所を確保しているが、
頭のいい奴ってのはそういう事まで良く知っているんだなと分かる。

そういう意味でも年金だけでは暮らせない時代の方々は生涯年収が全てになってしまうため、
早めに対策を打っておいた方が良いというのが本文の趣旨であります。
私はギリギリでしたがね・・・・。









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ドキュメンタリー映画『Demain(明日)』を見よう!(と思っている) [独り言]

フランス話題のドキュメンタリー映画『Demain(明日)』が日本で公開されるようだ。
メラニー・ローランさん(女性)とシリル・ディオンさん(男性)という
共に30代の二人の映画監督による作品らしい。
TBSラジオの森本毅郎氏の番組で紹介されていたが、映画製作のきっかけはローランさんが妊娠している時、
2100年には人類のほとんどが滅亡する、という研究結果を知ったことであったという。
子供達の世代は、水やエネルギーに乏しい環境に暮らす可能性がある事実に戦慄したようだ。

そうなんです。私、独身で子供がいないのですが、子供を作る気持ちに全くなれなかったのは、
未来の状況が人類にとってかなりの困難が予想され、そこに自分の子孫を残す事をためらったからでした。
(それでも未来の人類が皆で問題を乗り越えられるかもしれないという希望は捨ててないのだが・・)

今の若い人たちの中からこうした恐れを抱く人たちが出て来るのは自然な事でしょう。


映画『Demain(明日)』はこれを書いている時点では見ていないので、映画へのコメントはできないが、
未来永劫人類が生きてゆくために、絶対条件は既にハッキリしていると思っております。

「地球環境に出来るだけ負荷をかけず人類の生活を営む」ということです。

しかし、上記の一行を実行するのは難しい。

でもそれを行わないと未来の人類は果てしない苦難の道を辿ると思っております。

悪貨は良貨を駆逐するではありませんが、人類の一部がこの思想と外れて勝手気ままな生活を営めば、
残念ながら未来の人類は果てしない苦難の道を辿るでしょう。
つまり、上記テーマは世界が一丸となってやらなければ解決できないのです。


私個人の感覚ですが、既に人間社会は必要以上に便利です。
経済や効率の観点とは真逆な発想ですが、持続可能な社会維持のためには
実は不便にした方がいいと思ってます。
またインフラ整備の環境も居住地の集約化等で整理統合しないと持続した社会を維持するのは
困難でしょう。

現代は必要以上にモノにあふれております。
食料にしても水にしても財にしても人間が一生を送るには過剰なほどのモノに囲まれております。
これは人間の欲との闘いなのでしょうが、冷静に考えればこれほど多くのモノは不要でしょう。

また、我々は処理できない以上の情報に囲まれております。
ネット社会の利点はよく理解しておりますが、
情報を得るためにかかっている負荷について考えるべきでしょう。

昨今シェアービジネスが活況を呈してきておりますが、私的使用を整理し、
公共利用で賄えるシステムを構築すべき時代が普通にならざるを得ません。
そうなると経済的な影響を無視できませんが、地球が維持できる人口のサイズに限度がある訳ですから、
経済が永遠と伸びると考えるのはむしろ変で、どこかにある均衡点でケリを付ける必要があります。

現在の人類はリサイクル不能なものによって命脈を保っております。
原子力発電はその最たるものですが、明らかに自然の成り行きと逆行するものに
依存し過ぎており、経済を維持するために離脱することが難しい状況です。

私の言っていることは現状では夢想に近いかもしれません。
しかし映画『Demain(明日)』のメッセージは私の言及していることに近いでしょうし、
正しいビジョンだと思っております。

人類が瀬戸際に追い込まれる前に実行できれば未来はあると思いますが、
それは未来を生きる現代の若い人たちに託されており、
我々の時代の人間がその先鞭をつけるべきと思っております。









NHKスペシャルは宮崎駿氏の新作長編ドラマへの壮大な予告編のような番組だった(?) [独り言]

11/13のNHKスペシャルは宮崎駿氏の新作長編ドラマへの壮大な予告編のような番組だった。
現在75歳の宮崎氏が己の性ともいえる作品作りの情熱と自分自身の寿命と戦っている様子がよく伺えた。
しかし私がこの番組を見ていて感じたのはトップクリエイターの残酷(非情)と純粋さなのだ。

短編作品をCGで制作するという宮崎氏にとって初挑戦において、ご自身も理解できないような「腑に落ちない」
何かに悩まされる。当初、CGクリエイターたちはある程度の時間でできるだろうと思っていたようだが、
いざ作り始めてみると宮崎氏からの想像を超えた要求に対応できなくなってしまう。
また、その理由が宮崎氏以外に分からず、本人でさえも明確に分からないという時間が経過してしまう。
本人すら回答のないものへの要求にCGクリエイターたちは追い込まれる。
CGクリエイターたちもクリエイター集団の一角を担っているが、存在も経歴も上の宮崎氏からの要求は
相当な重荷だった様子が伺える。
しかし作品の質が担保されなければお客さんに応える事が出来ないという宮崎氏の純粋な信念は揺るがない。
そしてその質の担保は宮崎氏が納得するか否かが全てという非常に個人的な世界観なのだ。

こうした作品成立過程を見ていると、トップクリエイターは成果に対して冷徹で残酷だ。
それはあたかもグローバルトップ企業の経営者が利益を希求・追求するためには、
理由の如何を問わないような部分と重なる感じがする。
作品を作る事と利益を上げることは性質が違うため比較するのが不適当かもしれない。
言い方を変えると目的達成のためには必要な犠牲を厭わないという姿勢だ。
作品の場合、その冷徹さが偉大な結果を生むとも言えるのだが、
実際、それら作品は宮崎氏が全てを作る訳ではない。
映画の場合に限らず、多くの手が関わっているからだ。それでも宮崎氏の存在とビジョンは圧倒的だ。

番組でも紹介されていたが、宮崎氏の作品が生まれる過程で関わった多くのアニメーターは現在ジブリにいない。
作品のヒットの金銭的・社会的恩恵は生みの親である宮崎氏と法人であるジブリに帰るだけで
その周辺で仕事をしていた多くの人達ではない。
それがこの業界の掟である。(世の中はそんなものだという言い方もあるが・・)
こうした現実は否定しないが、残酷な現実であることも事実だ。
映画は多くの人間が関わり1つの作品を作る。そしてその制作形態は「中央集権型」だ。
ジブリ作品の場合、ヒエラルキーの頂点にいるのはプロデューサーの鈴木氏であり、宮崎氏だ。

番組の終盤、長編作品の覚書なるものをプロデューサーの鈴木氏に見せる場面があった。
宮崎氏は「鈴木さんが資金を調達してきてくれたら出来そうだけど・・・」と言いつつ、
3年半後の公開予定を見据えた予定表を見せる。
そしてその表の最後には「80(歳)、果てして生きているか?」の文字が見えた。
宮崎氏のような特異なクリエイターは代わりが居ない。自分の余命を意識し始めたクリエイターの心中は計り知れない。

この覚書を読んだ鈴木さんの心の奥底は想像するしかないが、宮崎氏に長編を作るだけの体力と時間が
あるだろうか?という懸念と、宮崎氏が満足できるような作品を作る体制が構築できるか?だろうかという懸念が
頭の中に浮かんだ事だろう。
2016年10月、色彩設計を長年務めていた保田氏が亡くなった。
それだけでも体制構築にはかなりの損失だ。
鈴木氏が冗談めかして言っていたが、絵コンテの段階で死んでしまったら誰がその先を作れるのか?
宮崎氏を一番好きで理解しているだろう鈴木氏にとってこの覚書は悩ましいだろうと想像する。

この番組で非常に印象的な場面があった。
ドワンドの川上さんが持ち込んだAIを使った自動生成のアニメーションソフトだ。
画面には頭を使って動く気持ち悪い人間が映し出される。
それを見た宮崎氏が自身の知り合いである障害者との関係性を引き合いに出し、「これを作る人たちは痛みとかそういうものについて、何も考えないでやっているでしょう。極めて不愉快ですよね。そんなに気持ち悪いものをやりたいなら、勝手にやっていればいいだけで、僕はこれを自分たちの仕事とつなげたいとは全然思いません。極めて何か、生命に対する侮辱を感じます。」 と発言する。
そして「どこにたどり着きたいんですか?」と問う。
これを聞いたドワンゴ関係者は言葉を失ってしまう。
なんでもかんでも自由な発想ができ作れる時代に根源的な問い質しをされたからだろう。

宮崎駿監督、ドワンゴ川上量生会長を一喝「生命に対する侮辱の記事:http://www.huffingtonpost.jp/2016/11/13/miyazaki-hayao-dwango_n_12950618.html?ncid=fcbklnkjphpmg00000001

クリエイターに限らず世を貫く成果を上げる人たちには非情で冷徹な素養がある。
しかし上記の宮崎氏の考え方を知ると生命を描く事に対して、その位でないと描けないんだという気持ちが伝わってくる。
私はそうした素養も気概もないため、どうしても様々な場面で手加減してしまう。
そのため成果も中途半端だ。
仕事の成果に対して信念を持って非情で冷徹で成果を出せる人を羨ましく思う反面、もう自分にはそこまでせめぎ合う人たちとはエネルギー負けするな・・と感じている。
そういう意味で、今後は偉大なクリエイターたちの作品を純粋に楽しむ立場でいようと思う。

オリンピックまでに次の宮崎作品が見れるだろうか?



50代でこんな事を考えるのは早すぎるだろうかね??っていう記事 [独り言]

2016年11月8日(火)記載

ここ数カ月、気力の衰えに悩まされている。(相撲取か・・・)
現状のビジネスでの業績が上がらないという事もあるが、
新しいビジネスへのアドレナリンもなかなか出ない。
 
かつての私なら未知であればあるほど興味を抱くはずの新規ビジネスへの挑戦だが
若い頃のような無邪気なパワーが出てこない。
そう、若い頃のような「無邪気なアドレナリン」が出ないのだ。そういうものなのか?
 
先日吉田拓郎さんのインタビューを見ていたら、生活感や人生感が50歳を過ぎて圧倒的に変化したと言っていた。そうか、そういうものなのかもしれない。 

年齢を重ね、経験を積み、情勢分析をし、冷静になって考えられるようになったとも言えるのだが、
「夢に向かって・・・」的な野放図な事を言っていられないという感覚の方が勝ってしまっているようだ。

そういう意味ではある種の「鬱」なのかもしれない。
 
そういえばとありネット記事で読んだのだが、武田鉄矢氏やビートたけし氏が40代から鬱になったとあった。
彼らのような才能のある人達が鬱になったのは、その年齢で自分の考えられる夢の実現を
早くも果たしてしまった事が大きかったと分析しているようだった。

自分を奮い立たせる目標を失ったということだろう。

私は彼らとは違い凡人だ。

それでもここ最近の自分の思考回路を探ってみると
自分の中で新しい達成目標の設定に迷っていることが分かる。

若い頃に夢見て来た事の半分位は叶い、半分は能力不足で諦めたが、
我を知り、己を理解するに従い、残りの人生でどんなサプライズがあるのだろうか?と
見極めてしまっている自分があるのは確かだ。

会社の立場も若い連中を指導するような感じになりつつある。
守りに入ったとは考えたくないのだが、そういう冷めた自分がどこかに存在しているようでもある。

もちろん残りの人生で色々な事が起きるだろう。
60過ぎて新しい事を起こした人も多い。
でも、そういう人たちは実は極僅かだという事実もある。
五木寛之氏の「下山のすすめ」には人生の終盤に向う心構えが書いてあった。
抗なうのではなく、受け入れろ・・と。
 
 
タモリさんも友達に関してこんな事を言っていたようだ。 
 
そうなんだよね。その気持ち、凄くピンとくる。
友達って言える人間関係を持っている人って、良く考えると数人しかいないんだよね。でもそれでいいんだよね。自分がそれで良いと思っているのなら。それが自然なんだよね。
 
人の事はともかく自分の人生を今後どのように過ごし、そして終わらせるかは
私以外の人にとっても大きな課題なのだろう。
そしてそれは全ての人にやってくる。

最近問題を起こす高齢者の記事を読むにつけて、
自分があんな風になったら嫌だな・・とか思う。
またアルツハイマーで自分が誰だか分からなくなるという状況になるのも避けたい。

自分の資産状況も分かっているので、経済的な未来もある程度予測が立ってしまっている。
決して楽観できないことも事実だ。
そう考えてみれば、若い頃のように無邪気でいられるはずもないのだろう。

それでも、一体自分は何をしているのが好きで、何をしたかったのか?
あたらめて自問しようと思う。

何をやれるかはともなく、出来れば死ぬ直前まで自分のペースにあった仕事をやりながら逝きたい。

50代でそんな事を考えるのは早すぎるだろうかね??
もしかしたら人並みになったのかな?





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何故私は大好きだった音楽業界に絶望を憶えるのか? [独り言]

何故私は大好きだった音楽業界に絶望を憶えるのか?

私の心の奥底では今でも音楽の魔法を信じている。
小中高時代に音楽がかけてくれた魔法の記憶と体感はかけがえのないものだ。
私の時代を彩ってくれた音楽は、今でも私の宝物だ。
私の一世代上の団塊の世代に生まれた超優秀なミュージシャンたちのお蔭もあり
私は恵まれたポピュラー&ロック音楽の進化過程を体感できた。
加えて78回転アナログ盤→LP&EPアナログ盤→CD→配信、またアナログ録音→デジタル録音という
技術的変遷も同時に体感し、絶え間ない変化と革新の過程にあった大衆音楽は、まさに時代を作った「メディア」そのものだった。

だから社会人になり、音楽に関わる仕事がしたくて音楽業界に潜り込んだ。
約19年、その場所にいた。そして一度その場所を離れた。
それから約14年を経て、まだ音楽業界に戻ってきた。

随分と景色が変わってしまった。

残念ではあるが、音楽業界にはかつてのような熱気や活気がなくなってしまった。
もちろん、今でもライブビジネスを中心に活気のある音楽活動やアーティストは存在する。
しかし、ネットによる情報過剰の時代と趣味嗜好が多様化の時代になり
音楽そのものが世の中を動かすパワーを相対的に削がれてしまったことは
時代の趨勢とは言え慙愧の念を禁じ得ない。
また人間がいい曲だと感じられる音の順列組み合わせはほぼ出尽くした感があり、音楽そのものに新鮮さを憶えるのは難しくなったこともある。残っているのはアーティストの人間力だけだろう。
しかし昨今のライブ事情を冷静に俯瞰すると、口パクライブを平気でやっていても1万円近く取って平気って感じだ。
もちろん歌は口パクだが演出、ダンスが凄いという人もいるだろう。
価値観の違いと言えばそれまでだが、だったら潔くマイクなんて付けない方がいいだろう。
そういう意味で私は古い価値観なのかもしれない。

現代の音楽業界は、時代の波に晒されてビジネスモデルを大きく変えざるを得ない様相だ。
しかし特にレコード会社の人たちと話していると、大半の人たちがかつての栄光を忘れられないのか、あるいはまだ自分たちの過去のモデルが通用すると思っているのか、相変わらずCDを売る事にしかエネルギーを注いでいないようだ。

明らかにCDが売れない時代になってもう15年以上。

ここ最近はAKB商法なんていう言葉も出るような時代で、CDそのものよりもオマケの価値が高く、
無理矢理CDを販売している時代であるにも関わらず、レコード会社の方々はCDを売る事に熱中している。
彼らは「音楽」よりも「モノ」を売る事が使命になっているかのようだ。
私はとあるレコード会社の会議で腰を抜かす発言を聴いた。
とあるグループのCD販促でメンバーとの2ショットやハグ、握手会、サイン会を行い、その中で、ファンの一人が700万円もCDに費やしたという情報があった。
私は、レコードメーカーの人間として、そういう事実をユーザーに対して心苦しさを感じないですか?と尋ねたら、「それはユーザーが選んでいることですから関係ないですね」と返されたのだ。
その時私は、私の知っている音楽業界はとっくに終わっていたんだな、と確信した。
700万円も買わせる土壌を作ったのは一体誰なんだ?という事に何の痛みもなく、売れればいいという幼稚な経済論理を正当化する連中が今のレコードメーカーの平均的なレベルなのだろう。
そいつは50代なのにだ。いや、50代だからかもしれない。
CDを700万円も買った人間が本当の意味で幸せだったのか? 考えた事がないんだろう。
50代のそのレコードマンは、自分の居場所が確保できればそれで良いだけなのだろう。
メーカーからすれば、2ショットやハグ、握手会、サイン会で対価を得ているという論理だし、社員の給料も払えるってことだ。
レコードメーカーは、いつからタチの悪いホストクラブのオーナーのようになったのだろう?

こんな体たらくだから、最近のレコード会社には若手のスタッフが圧倒的に少ない。それも無理もないことで、Googleとフジテレビから内定をもらった若者は迷わずGoogleを選ぶ時代なのだ。若い人たちにとってレコード会社が今後30~40年、自分たちのキャリアを支え豊かにする産業とはとても見えないのは当たり前なんだろう。エイベックスですら、レコード部門はライブエンタ部門の中に包括される時代なのだ。
私はレコード制作が大好きだが、もう時代的にそれが重要な仕事でないこと位は受け止めている。
従って若手スタッフの流動性が下がる。それは古株、つまり栄光の時代を知った古手のスタッフが保守的に経営をしている組織であり、新陳代謝や新しい発想で今後のレコード会社を運営しようという体質からほど遠いということだ。
レコード会社は過去25年余り、ビジネスモデルを見直す機会が多くあった。
多くのレコード会社がそれに着手できていないのは過去が余りにも良すぎたのかもしれない。
いずれにしても社会からの役割は終わりつつある。 終わればいいとおもう。現代において、レコードを作ることや売ることはレコードメーカーの専売特許じゃないからだ。それに気が付いていないふりをして、未だに銀座や六本木のキャバクラでテレビ局などの連中を接待しているのはかなりの時代錯誤だろう。IT系企業に敵うはずもない。

私の時代、レコード会社は、時代の最先端を行っており、最も憧れていた職種の最高峰だった。
それが40年程度の間にここまでみすぼらしくなるとは、失望を通り越して絶望に近い印象だ。

エイベックスのような新興レーベルは、こうした時代の波を先読みして早期の業態転換を図っているが、
そういう彼らでもあと20年という時間を見据えると生き残れるかどうかは私にも分からない。
既に音楽部門は、ライブエンタ部門に吸収されており、会社の中での重要度は下落してしまっている。
ましてや古株のレーベルは業態転換を図ろうとする施策さえ見えてこない。
最近はレコード会社も360度ビジネスをやろうとしているが、そもそもレーベル社員にそのスキルがあるかどうかすら疑問だし、実際はM&Aでもしない限り無理だろう。
同じ業界には既存のマネージメント会社も多数あり、ビジネス上の衝突を回避できなくなれば、レコード会社の存在は増々不利に働かざるを得ない。
ソニーミュージック辺りの稼ぎ頭は、実はアニメをやっている「アニプレックス」だったりする。なんせ売上1000億円で営業利益が250億円(2016年度)にもなるのだ。アーティスト部門も頑張っているように見えるが、実態はそこにない。
残念だが、現代の音楽業界において、ロックは衰退し、ポップミュージックはアイドルかK-POP+ダンスミュージックで、覇者はアニメ関係というところだ。
昨今の音楽業界では、マネージメント会社の方が圧倒的に優位で、レコード会社の幹部が、マネージメント会社の役員に天下り出来れば最高のキャリアアップとさえ言われている。レコード会社は絶滅寸前の恐竜のような存在になろうとしているようだ。アメリカの先端を言う音楽シーンでは、ミュージシャンがレコード会社を排除するのがトレンドなのだ。
今のミュージシャンは、メーカーがなくても音楽を作る事出来、流通も出来、宣伝もネット経由で十分とも言え、ライブに至ってメーカーなど全く不要だ。現代の音楽業界において、レコード会社の役割は無きに等しいというのが事実なのだ。

とあるレコード会社の人からは、「今でも音楽業界の中心はレコード会社なんです!」と聞いたことがある。
まるで敗戦真近の日本軍のような連中だな・・と思った。
本当にそうであるなら、現代の多様性が全くない年間オリコンチャートは彼らの意思表明なのだろう。

昨今はヒットチャートに関係のないところで有力な活動をしているミュージシャンが多い。
一般的には無名だがツイキャスでは大人気のミュージシャンが両国国技館を満員にしてさえいる時代になったのだ。
また、オリコンには全く登場しないバンドでも1万人規模の集客をするような連中だっている。

彼らの名前を教えられても私には全く分からない。しかしこの集客力は凄い。そして、これが事実なのだ。

昔のようにテレビ雑誌で全国区的な名声を得て影響力を作る時代は終わったようだ。
一般的には無名でもニッチなファンに深く突き刺さるミュージシャンが時代を作っているともいえる。
現代的なサブカルとも言える世界で生息するミュージシャンたちが、メジャーを超え始め違う音楽進化を遂げ始めている。 

そういう意味では、私も保守的な古株なのだろう。
私の時代もそうだったが、新しい文化は若い世代が作り出すものなのだ。

もうオジサンの出る幕はない。

私が戸惑っているのは、それを目の前で見せつけられ、自分の方程式では解を得られなくなっているからだろう。
また同じような古株連中が、若い連中に負けないぞ・・!と息巻いて解を持つ力もないのに頑張っているからかもしれない。
スティングやオールマンブラザースを知らなくたってどうってことのない時代の若者が文化の中心なのだ。

そういう意味で、私は若い人たちに任せるという選択をした。
私ができるのは応援することだけだから。
そして私は自分を彩ってくれた音楽をひたすら愛しむ。まだ聞いた事のない曲なんて数万曲あるし。それで十分だ。
昔のレコード会社や音楽業界人に多大なる感謝をしながら生きて行こう。







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安楽死について [独り言]

安楽死について


世界的に安楽死を容認しているのは以下の国家ということだ。

スイス - 1942年
アメリカ(オレゴン州) - 1994年「尊厳死法 (Death with Dignity Act)」成立
オランダ - 2001年「安楽死法」可決。
ベルギー - 2002年「安楽死法」可決。
ルクセンブルク - 2008年「安楽死法」可決。
アメリカ(ワシントン州、モンタナ州) - 2009年
アメリカ(バーモント州) - 2013年
アメリカ(ニューメキシコ州) - 2014年
アメリカ(カリフォルニア州) - 2015年


安楽死をどう捉えるかは非常に困難な問題だ。個人思想、宗教が絡むとなおさらだ。
安楽死の法制化は国家による殺人の肯定と考える人もいるだろう。
そういう見方を否定も出来ない。

しかし個人的には国家による安楽死という選択を日本も考えざるを得ない時機がそう遠くない日に
来るだろうと思っている。本当はそういう選択がないのが一番だが、
この動きは人類が自然に矛盾した生き方を選んだ事の反動だと思っている。
明治時代の平均寿命が50歳前後だった日本は、2016年の今や男女共に80歳を超えてしまった。
この先更に寿命が伸びそうな勢いである。こんなに急激に寿命を延ばした生物は人間だけだ。

こうした寿命の在り方は、自然の摂理とは合致しないように思っている。
人間の医療改革や食生活の改善は、自然摂理を超えて人間の寿命を延ばしたと思う。
またアルツハイマー病や老化を解決する医療の発展も今後開発されるだろうと言われている。
しかし、現代社会において、健康寿命は男女共に70歳前半で、残存寿命の12年は病気との闘いとなる。
私は50代の人間だが、幼少時代、還暦を迎えた人は全員高齢者、つまりお爺ちゃん、お婆ちゃんだった。
大抵は60代後半から70代前半で死に、それが一般的だった。
年金制度の設計もその時代を基礎としており、それが現行設計とのかい離を生んでいる。

個人的見解だが、「安楽死は人生を終盤の最後の保険」だと思っている。

私は自分が何歳まで生きるのか、健康のままで死ぬのか、長患いをして死ぬのか・・、
そういう漠然とした不安がある。人口の50%の人はガンになる時代だ。
先日逝去した大橋巨泉氏も、長い闘病生活に耐えきれず、安楽死を口にしたと聞く。
病気と当事者の格闘を考えれば、彼の気持ちは十分過ぎるほど理解できる。

私は長患いをし社会復帰不能なのにも関わらず治療という名の地獄が続くことにも恐れを抱いている。
社会復帰し、元の生活を取り戻せず、不自由になるくらいなら私は安楽死を選択したい人間だ。
加えて自分がアルツハイマー病になり自分から記憶も何もかも無くなったり、
誰かの手を借りなければ普通の生活を維持出来ないのにも関わらず、
ただ神から与えられた(と言われる)命を存続させるためだけに社会のエネルギーを浪費することに耐えられないだけだ。
人生とはそういう苦難を乗り越えることに意義と理由があるという人もいるだろう。
でも、本当にそうだろうか?

老老介護による殺人、社会復帰の困難な高齢者への医療の問題、社会保障費の増大など、
これから50年を見れば、安楽死という解決方法を無視できるはずもない。
先日、相模原市で19名の大量殺人があった。殺人者は、施設入所者のような人たちへの安楽死を主張していたらしいが、私はそのような意見に全く賛同できない。 

安楽死を制度化するのは相当に難しい問題だ。
安楽死に反対する人の気持ちや考え方を完全には否定できない自分もいる。
しかし、私には安楽死という「保険」があった方が多少気持ちが楽なだけなのだ。

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音楽は握手のオマケか。 [独り言]



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ディスクユニオンの広告コピーがネット上で話題になった。



「音楽は握手のオマケか。 音楽は、手を握るためにあるんじゃない、音楽は、心を震わせるためにあるんだ。」というもの。



これに対してネット上には様々な意見がアップされていた。



総じて言えは、このコピーへの価値観は本当にそれぞれだという事だ。



また音楽が握手のオマケかどうかについて決めるのはユーザーで、ディスクユニオンに言われる筋合いじゃないという意見も多かった。



自由主義経済においてそれは一面正しいのかもしれない。しかしディスクユニオンがこうでも言わねばならない位、音盤(レコード)業界の現在、そして将来は暗い。





ハッキリ言うと、CD・音盤の産業は超斜陽産業で、確実に超縮小市場向かっている。現在のレコードメーカーは、スタッフの高齢化とビジネスモデルの崩壊に喘いでおり、そこに残ってしまった人々が自分たちの生き残りをかけてただただ必死というのが現実だ。

現代において、音盤を買い、それが人生とリンクした記憶を持った世代は、かなり下を見ても45歳以上だろう。それ以下になればなるほど音盤への愛着は薄くなり、30代以下で音盤への愛着があるとすればマニアックな人々の部類に入る。





レコードメーカーで働く人々は、音楽を愛し、音盤を愛し、ミュージシャンを愛している集団だ。そして彼らが輝いていたのは、15年前辺りまでだ。

ここ最近、レコードメーカーに来る新人社員さんは音楽制作のポジションを望まないと聞いている。昔は超花形ポジションだったのにだ。
でもそれはそうだろう。音楽制作のポジションにはビジネスとして未来が無いからだ。若いスタッフがいない職場には、未来はない。



先ほど高齢化とビジネスモデルの崩壊に喘いでいると書いたが、レコードメーカーはスタッフの新陳代謝すら失ってしまっている。





現代においてレコードメーカーは、売れない製品を作り続ける事でしか自分たちの存在を肯定できず、売れない製品を何とか売るために、ミュージシャンやタレントに握手をさせたり、ハグさせたり、サインをつけたり、写真を撮らせたりしている。



つまり、レコードメーカーはituneの出現以後、「音楽・音盤」という自分たちの製品の核の価値を自ら否定し、音楽とは無関係な付加価値に依拠して製品を売るしかないビジネスモデルに行きついてしまったのだ。



また市場では全くと言っていいほど価値のない「音楽」を作って、音楽とは無関係な付加価値をつけなければ自分たちが存続しえないという矛盾の中で暮らしている。時代とは言え、悲しい話だ。(それでも私は年に何枚かCDを買っているが・・・)



しかし敢えて言わせてもらえば、殆どのレコードメーカーは、20年ほど前から予想されたこうした事態に真剣に真摯に面と向かって来なかった。今更慌てての遅いって感じだ。

最近(2016年4月)、やはりこの点に言及した人がいた。ビレバンの金田氏だ。彼の発言は以下で読める。彼曰く、「CDを売るだけの手伝いはもうしたくない。なぜなら売り上げが立たないから。でも、音楽を売る手伝いはしたい。」ということだ。本音だろう。殆どのレコードメーカーは背に腹は代えられないという押し売り商法でCD(音源ではない)という物を売ろうと必死だ。彼らの核心的利益はそこにしかないからだ。
でもこれまでとても美味しいビジネスの上にずっと胡坐をかいて、上手く行きそうになくなった途端、その対策を自分たちで考えず、外の関係者に負荷(握手会、ハグ会、ツーショット写真、サイン色紙などなど)をかけて乗り切ろうとする連中の発想は、もはや産業に携わる者として終わっているのだ。


(ビレバンの金田氏の発言)

http://www.cinra.net/interview/201604-vvrocks?page=4

 



現代における音楽ビジネスは、製品(CD)から体験(ライブ)に置き換わっている。従ってここ5年でライブ産業が急速に伸びてきたのだが、殆どのレコードメーカーはこの波を掴めなかった。製品はコピーされやすく、価値を失い安いが、ライブは逆だ。昔は音盤のための宣伝としてライブが位置されたが、現代において音盤は、ライブの宣伝ツールでしかない。
(ちょっと付け加えておくと、2015年、ライブエンタの大手企業LIVE NATIONは約8250億円の売り上げを出しているが営業利益は1.8%の130億円。かなり利幅が小さい。また事業別でみると、ライブでは約5600億円の売り上げだが、120億円の赤字なのだ。彼らは何で利益を出しているかと言えば、ライブにまつわる広告タイアップと、チケッティングの手数料なのだ。だからライブビジネスが単純に儲かるわけじゃない。)



かつてはアーティストの放つ音楽を愛し、そしてアーティストに憧れ、ライブに行ったが、現代は、アーティストの存在を愛す事からライブに行き、その彼らの放つ音楽が良ければそれも聞くという順番になっている。



今でもレコードメーカーの人たちは1枚でもCDを売ろうと必死だが、かなりのアーティストでもまともに売れない時代だ。従ってベテランと言えるようなアーティストでも、場末感満載の場所での生ライブと即販売会(握手付き)を行うし、K-POP系とかだとハグあり、ツーショットありの、いわゆる「ホスト対応」と呼ばれる方法でCDを販売しなければ売れない。

またAKB商法として批判を浴びた売り方も記憶に新しいが、現代のレコードメーカーは、ボッタくり商法とも言えるやり方をしなければ売上、利益が作れない情けない産業になってしまったようなのだ。



ファン1人に数十万、場合によっては数百万ものCDをこうしたやり方で売り付けるレコード産業は、もはや常軌を逸しているし、産業としての矜持は全くない。



そういうやり方でしか生計を立てられないレコードマンに「矜持」を求めるのは酷なのかもしれないが、それにしても情けない業界になってしまった。



こうした売り方でしか売れないものなら、もはや音盤でなくてもいいんじゃない?って感じだ。ゲームのトランプでもいいし、チューインガムでもいいだろう?



音楽産業は無くならないだろうし、音楽も無くならないが、レコード業界の10年先は全く闇の中である。想像だが、近未来のレコードメーカーは、音へのこだわりを持った個人レーベルがその価値を分かる人だけに送り届けるような形になり細々とした形にならざるを得ず、レコード会社はいずれ、それより大きな組織の部門か課程度になってしまうだろう。



かつてのレコードメーカーの輝きを知っているからことさらに現代のレコードメーカーの実情を見ていて悲しい。



時代とは言え、音楽産業には残酷な時代が来たものだ。

それでも私は音楽が好きだし、音楽の良い時代に巡り合ったと思って感謝している。




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サザンオールスターズ 「おいしい葡萄の旅」 東京ドーム 2015/5/26 ~ファンタジーを壊す悩ましい観客マナーを考える~ [独り言]



サザンオールスターズ 「おいしい葡萄の旅」 東京ドーム 2015/5/26

~ファンタジーを壊す悩ましい観客マナーを考える~

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今回のステージ設計は20154月のポールマッカートニーより遥かに大きく、ローリングストーンズサイズだった。

それにしても相変わらず満員御礼だった。デビューして37年(という事は私も東京に出てきて37年という事だ)。
日本のロック(&ポップス)バンドとしてここまで長く支持されているバンドは歴史上初めてだ。現在若者に支持を受けている数あるバンドは30年後、どんな姿で活動しているかを想像すれば、サザンの凄さが判るだろう。(個人的意見だが、今をトキメクバンドのほとんどは30年後、サザンのような活動をしていないだろうと思っている。)

私が初めてサザンオールスターズのライブを目にしたのは、1978年の夏の専修大学の学祭での演奏だった。
ちょうどザ・ベストテン(TBS)の生中継が入っていた日だったので、リハーサルを含めて3回“勝手にシンドバット”の演奏を聴いた。まだ最初のアルバム「熱い胸わさぎ」しかない時代だ。
あれ以来サザンの音楽は脈々と私の人生を彩り、ある時期彼らと仕事を共にする時期もあった。貴重な体験だった。
そして私はまた
1聴衆の中で彼らの音楽を聴いている。

「おいしい葡萄の旅」と名付けられた今回のツアー。来年2016年で60歳という桑田さんも流石に連日、連続とはいかない様で、公演日程の間隔はこれまでになく長い。8月には武道館公演もやるというから意欲的だ。

あれだけの密度の構成での3
時間30分というライブの長さを維持する体力には驚いたが、圧倒的な物量の土台をもった演出は、久しぶりのマンモスコンサートの体験だった。事前にネットで内容等は一切見ず、情報は完全に遮断して見に行った。1曲目のチョイスは意外だったが、最後の曲が終わった段階でも意外な曲が演奏されなかったのは驚いた。
それでも演奏、映像、照明のプロが繰り出すおもてなしは、相変わらずやるなあ~と見ていてただただ感心するだけだった。原さんが出てくるまでの構成の流れには泣けたし、原さんが歌う時の桑田さんの立ち位置は、ただただ素敵でニヤニヤして見ていた。
私の心の引出しにはバシバシ伝わってきた。

一時癌に倒れファンを心配させた桑田さんだったが、随分と体調も声も元の状態に戻った事が伺えた。

1990年代~2000年前半、ライブ後半になるとコップやホースによる水かけ演出が多かった。あれは桑田さんなりの”おもてなし”だったのだろうが、個人的には唄がかなり犠牲になるため好きな演出じゃなかった。
ここ最近はその演出が無くなった事が私的には嬉しい。ひょっとしたらファンクラブにそういった声が多く届いて桑田さんの耳にも入ったのだろう。私としては演奏に集中できるので今のライブ性向の方が嬉しい。

なお、ここにはライブのセトリを記載しません。ネットで検索すれば直ぐに見つかりますからそちらでどうぞ(これを書いている時はまだツアー中だし・・)。

ライブのセトリは知らないで行った方が感動も倍化致します。
桑田さんによれば、松山のライブに来ていたファンにセトリが批判されていたらしい。そう断った上で演奏が始まったのだが、そのセットリスト構成は、実際、私にとっては最高でした。音楽やセトリ構成にはもちろん好き嫌いもあるが、引出しの深さでの理解力に差が出るから、批判をされた方は、あの構成の持つ音楽的な良さが理解できなかったのだろう。お気の毒様である。
この理解力は、洋楽をキチンと聞いてない人にはちょっと判らないものだと思う。

追記(2015年8月20日):

武道館公演の直前、長年サザンのレコードメーカー側の立場で支え続けた高垣健氏に取材をする機会を得た。彼はサザンだけでなくシーナ&ロケットや松田優作氏など様々な人たちを世に送り出してきた人物で現在は顧問をしている。
取材の中の「葡萄」のアナログ盤についてのコメントの中で、「葡萄」のアナログ盤はミックスはCD盤と同じだが、CD用とアナログ盤用のマスターテープのマスタリングは全くの別作業で行っていると語っていた。
サザンは全ての作品をCDとアナログ盤で出している数少ないアーティストだが、もともとアナログ盤でデビューした彼らが今でもアナログ盤への深い愛着を持っていることを伺わせた話だった。ちなみに高垣氏にとってのサザンの一枚は、「熱い胸騒ぎ」だそうだ。(実は私も同感。あのアルバムは未成熟で未完成ながら妙な勢いと完成度がある。また大学生だった当時の私が死ぬほど聴いていたという事もあるのだろう。)



~ファンタジーを壊す観客のマナー問題を考える~

そう言えばここ最近、ライブ鑑賞中、悩ましい問題がある。

スマホだ。

今回のライブでも近隣の客で演奏中にずっとスマホをいじっている人が非常に多かった。きっとセットリストを書き込んでいるんだろう。
それはそれで気持ちも分かるのでいいんだが、スマホの画面が目に入る周辺の観客にとって、明るい画面は照明演出効果の邪魔になる。迷惑だなと思っている人が多いのではなかろうか?

セトリ書き込みそのものを非難しないが、書き込みをする連中は相当配慮して欲しい。できればペンとノートにしろと言いたい。
正直言うと、あの連中の存在はライブの集中を妨げるので本当に邪魔くさい。

(ちなみに桑田さんの盟友・山下達郎さんはライブ中でのスマホによるセトリ書き込み行為を最大限非難しております。演奏に集中できない客は来ないで欲しいと公言しており、それは私も同じ思いです)

他にも演奏中にずっとメール(&LINE)しているヤツもいた。
コンサートに来ているのに何で今メールチェックやチャットしてんだよ!!って感じだった。ライブより大事な用があるんなら早く帰れって感じだ。
演奏をしているサザンに対しても失礼だなとも思った。
親が死ぬような緊急事態が起こったとも思えない不作法なスマホメールの連続作業を近所で延々とやられると腹立たしい。

あのTPOの無さというか、無節操、無教育さというか、集中力の無さっていうのは、私の理解を超える。これは年齢の問題じゃないだろう。
1階1塁側25通路22列7番の色の黒いオレンジのTシャツのデカい男、君の事ですよ。


わざわざ9000円も払ってコンサートに来たんじゃないのか??
メールなんて後でもチェックできるだろう。
優先順位が全然解らない。

また加えて困った人たちなのが、ライブ演奏中にずっと話を(それも声がデカい)している連中だ。特に若い層(2030代)に多い。

演奏中、ずっと話をしたり、素っ頓狂な大声だしているのだ。バラード曲でもだ。
空気読めや。KYにも程があるだろう。自分の感動を隣の仲間たちと共有したい気持ちが分からないではないが、一々演奏中に大声で感想述べなくてもいいよ。だいたいちゃんと聞こえないし。それ故声もデカくなるという悪循環だ。
終わってから飲み屋で語りなさい。
ちなみに、1階1塁側25通路20列6番~8番(多分)に座っていた男2名、女1名。君たちの事ですよ。真ん中に座っていた男、ビール飲みながら良くデカい声で喋るヤツだった。ホント、この連中は煩かった。

このスマホ・メール馬鹿とお話し大騒ぎ馬鹿の連中は、サザンのライブ会場まで何しに来ているんだろう?

連中の行為を見ていると何となく、ライブをBGMにして遊びや酒を飲みに来ているようにしか見えない。
それはそれでよかろう。
だったら観客席にいないで通路に行けばいい。

こういう場所や周囲の空気や迷惑をわきまえない連中が観客として近くにいると、サザンやスタッフが相当な努力をして作り上げたファンタジーを容易に壊してしまう。

ライブ鑑賞はある種の現実逃避行行為なのだ。日常生活から一時的にファンタジーの世界に誘ってくれる場所なのだ。
だから観客同志、周辺に配慮のある鑑賞方法で楽しんで欲しいと思うのだ。そんなに難しい事じゃなかろう。


ライブの冒頭、桑田さんがアリーナにいる背の高い男性は、自分より背の小さい女性が自分の後ろにいないか配慮して欲しい・・というようなMCをしていた。
きっとこうした声が長い間、ファンクラブに多かったのだろう。特に床がフラットなアリーナでは悩ましい問題だ。私の知り合いの背の小さい女性はドームのアリーナ席だと風呂で使う椅子を持参するのが常だが、
3時間近いライブだと終わったあと歩けなくなるらしい。
結構背の高い方の私でも目の前の頭のでかい男がいると困る事がある。女性ならなおさらだろう。そういう配慮について桑田さんが言及してくれたのは、非常によかった。


しかし、スマホとお話し馬鹿の連中の問題はもっと悩ましい。

また、もう1つ悩ましいのが「観客の唄」問題だ。

皆さんの周辺に桑田さんよりもデカい声で歌っているヤツが近所に居た方はいませんでしたか?

2015
年の武道館でのポール・マッカトニーの時は、この問題で感動が半減してしまった経験があった。座席の場所にもよるだろうが、私のいた場所ではちょっと深刻だった。
サザンの場合でも、歌える曲が多いので、観客が結構大きな声を出して歌うのだ。

気持ちは重々分かる。
でも私は隣や後ろの客のカラオケボックス並みの下手くそな唄に対して
9000円を払ってドームに来ているのではない。聞きたいのは純粋にサザンの演奏なのだ。

客が唄ってもいい。でも声量は相当に配慮してくれ。
お願いだから桑田さんの唄声を邪魔しないでくれ。


こういう経験って皆さんにありませんでしたか?

私が言いたいのはクラシックコンサートのような静寂を求めているのではありません。私は演奏や演出に集中してライブを楽しみたいだけなのです。色々な楽しみ方があることは重々承知です。でも最低限度、相当数の人が集まる場所では配慮すべき点があるはずです。
演奏中のライブ会場のような普通の声では聞こえない空間で私語をするなら相手の耳元で話すとか、演奏中の私語はしないとか、馬鹿騒ぎしないとか、唄うなら配慮するとか・・・。

2013年のポールのドームでは、アリーナにいた若い連中がの一部が馬鹿騒ぎをして、周囲の客と殴り合いの喧嘩に発展したと聞いている。楽しいライブのはずが、場を弁えない連中によって最悪の記憶を残して終わるのは気の毒だ。
また、私がこのライブに行った時にも、ipadで撮影しては隣のヤツと喋りながら映像を確認してライブを全く見ていないヤツ(30代男)が目の前におり、さすがに目障りだと言ったら止めたが、そもそも迷惑だっていう感覚がないようだ。こういうライブに来る資格のない連中は、折角のライブに嫌な思い出を残してしまうから来ないで欲しいもんだ。ちなみに2014年、山下達郎さんは名古屋公演中、無礼な客を帰してしまったそうだ。金を払って客として来ていれば何でもありだと思っている下世話なヤツがいたんだろう。)


スマホでセトリを書く人たちは、画面の光には最大限配慮してほしい。そもそもその行為は鑑賞中の客に迷惑な我がまま行為だと理解してください。
また、一緒になって歌いたい人たちは自己陶酔しないで欲しいものだ。

映画館に行くと上映前に、上映中の注意事項が流れるようになっている。あれはかなりの観客が周囲の観客に不快な想いで映画鑑賞を強いられており、その声の集約だと思っている。実際、あの注意喚起から随分と不快な事が減ったように思う。
私はライブでも似たような対応が必要な時期が来ているように思う。
コンサート協会は、そろそろそうした対応をしてほしいと思う。
私自身も周囲の邪魔にならないように気を付けますから・・・。
お互い様ですからね。


<!--[if !supportLists]-->    <!--[endif]-->席を立って見る背の高い人は後ろの人にご配慮を。

<!--[if !supportLists]-->    <!--[endif]-->演奏中は私語を慎みましょう。また自己陶酔もしくは馬鹿騒ぎしないでね。

<!--[if !supportLists]-->    <!--[endif]-->周囲の邪魔だから大声で歌わないでくださいね。聞きたいのは君の唄じゃないのです。

<!--[if !supportLists]-->    <!--[endif]-->ライブ中はスマホ等は禁止! 使いたいなら会場外で。

<!--[if !supportLists]-->    <!--[endif]-->撮影、録音はお断り!

<!--[if !supportLineBreakNewLine]-->

<!--[endif]-->




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SONY(ソニー)は未来に向かって何を目指す会社になろうとしているのか? [独り言]

SONY(ソニー)は未来に向かって何を目指す会社になろうとしているのか?

 

以下のような記事がネットにあった。

 

「米国型経営がソニーを狂わせた」OB苦言、現経営陣は答えず…目先の利益・株価優先が「自由闊達な理想工場」を変質させた

http://www.sankei.com/economy/news/150514/ecn1505140021-n3.html

 

簡単に言えば、SONY OBの元経営者たちは原点回帰を主張している。

しかし現在の経営陣はその意見に同意していないようだ。

事実VAIOテレビも本体から切り離し始めており、モバイルも遅かれ早かれという感じだ。件の会社では技術者は全く出世出来ない。

実際、現在のSONYの収益の40%は金融事業から上がっている。かつてのようなビジネスモデルでは生業を立てていない。

さて、一体SONYは未来に向かって何を目指す会社になろうとしているのか?

 

私の予想を申し上げよう。

 

極端な言い方だが、はっきり言って儲かれば何でも良いと思っていると思う。それが現在の経営陣のホンネだろうと思っている。井深・盛田氏の時代の自由闊達な技術者集団が未来を創るようなロマンチックな事は少しも考えていないだろう。

具体的には、SONY本体は、投資会社みたいな機能に特化し、その下にビジネス利用価値の高い子会社をぶら下げるという感じだ。そういう意味でSONYの本体は金融的な機能しか持たないだろうというのが私の予想だ。

実ビジネスは子会社がやる。かなり官僚的中央集権体制な組織を目指しているんだろう。

従ってSONY本体は何かを産み出さないし、技術者なんて全く不要という事になる。要するに財務畑、管理畑が主導する会社になる訳だ。

ロマンを語る前にテレビ事業などの事業的な出血を止め、SONYという会社の存続を優先させるというのも立派な経営方針だと思っている。実際出血は止まりそうだ。

経営陣が変わって直ぐにソニーが不動産業を始めた。

その過程を記した書籍には、SONYDNAである満たされていない顧客要求を嗅ぎ取り、そこにチャンスを見いだせるならSONYとしてこの事業を行う価値を感じたと書いてあった。なるほどそうかもしれない。確かに一理ある。

でもSONYが不動産業をやったってロマンも感動もない。でも経営陣は、そんな事よりも儲かる仕事をしなければ・・という切実さだけが優先していたのかもしれない。

現在井深・盛田氏の時代に成し得た近未来を現実化する顧客要求をやっているのはAppleGoogleなどだ。SONYはここ10年以上、全くと言って良いほど時代を先取りした製品を出せていない。

ストリンガーという最も無能な社長を8年も居座らせた事は痛恨の極みだった。ロボット事業を中止したのは、無能の証明でもある。

それを指名した出井氏の無能さを最も悔いたのは、彼を指名した大賀氏だった。

ひょっとしたらSONYは大賀氏の時代からゆっくり死に向かっていたのかもしれない。

 

だからもはやかつてのSONYの姿を追うのは酷だろう。現経営陣にモノ作りで成功した人はいない。だからそういう会社にならざるを得ない。残念だが・・・。
でもそれも時代の変化のリアリティーなんだろう。