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NHKスペシャルは宮崎駿氏の新作長編ドラマへの壮大な予告編のような番組だった(?) [独り言]

11/13のNHKスペシャルは宮崎駿氏の新作長編ドラマへの壮大な予告編のような番組だった。
現在75歳の宮崎氏が己の性ともいえる作品作りの情熱と自分自身の寿命と戦っている様子がよく伺えた。
しかし私がこの番組を見ていて感じたのはトップクリエイターの残酷(非情)と純粋さなのだ。

短編作品をCGで制作するという宮崎氏にとって初挑戦において、ご自身も理解できないような「腑に落ちない」
何かに悩まされる。当初、CGクリエイターたちはある程度の時間でできるだろうと思っていたようだが、
いざ作り始めてみると宮崎氏からの想像を超えた要求に対応できなくなってしまう。
また、その理由が宮崎氏以外に分からず、本人でさえも明確に分からないという時間が経過してしまう。
本人すら回答のないものへの要求にCGクリエイターたちは追い込まれる。
CGクリエイターたちもクリエイター集団の一角を担っているが、存在も経歴も上の宮崎氏からの要求は
相当な重荷だった様子が伺える。
しかし作品の質が担保されなければお客さんに応える事が出来ないという宮崎氏の純粋な信念は揺るがない。
そしてその質の担保は宮崎氏が納得するか否かが全てという非常に個人的な世界観なのだ。

こうした作品成立過程を見ていると、トップクリエイターは成果に対して冷徹で残酷だ。
それはあたかもグローバルトップ企業の経営者が利益を希求・追求するためには、
理由の如何を問わないような部分と重なる感じがする。
作品を作る事と利益を上げることは性質が違うため比較するのが不適当かもしれない。
言い方を変えると目的達成のためには必要な犠牲を厭わないという姿勢だ。
作品の場合、その冷徹さが偉大な結果を生むとも言えるのだが、
実際、それら作品は宮崎氏が全てを作る訳ではない。
映画の場合に限らず、多くの手が関わっているからだ。それでも宮崎氏の存在とビジョンは圧倒的だ。

番組でも紹介されていたが、宮崎氏の作品が生まれる過程で関わった多くのアニメーターは現在ジブリにいない。
作品のヒットの金銭的・社会的恩恵は生みの親である宮崎氏と法人であるジブリに帰るだけで
その周辺で仕事をしていた多くの人達ではない。
それがこの業界の掟である。(世の中はそんなものだという言い方もあるが・・)
こうした現実は否定しないが、残酷な現実であることも事実だ。
映画は多くの人間が関わり1つの作品を作る。そしてその制作形態は「中央集権型」だ。
ジブリ作品の場合、ヒエラルキーの頂点にいるのはプロデューサーの鈴木氏であり、宮崎氏だ。

番組の終盤、長編作品の覚書なるものをプロデューサーの鈴木氏に見せる場面があった。
宮崎氏は「鈴木さんが資金を調達してきてくれたら出来そうだけど・・・」と言いつつ、
3年半後の公開予定を見据えた予定表を見せる。
そしてその表の最後には「80(歳)、果てして生きているか?」の文字が見えた。
宮崎氏のような特異なクリエイターは代わりが居ない。自分の余命を意識し始めたクリエイターの心中は計り知れない。

この覚書を読んだ鈴木さんの心の奥底は想像するしかないが、宮崎氏に長編を作るだけの体力と時間が
あるだろうか?という懸念と、宮崎氏が満足できるような作品を作る体制が構築できるか?だろうかという懸念が
頭の中に浮かんだ事だろう。
2016年10月、色彩設計を長年務めていた保田氏が亡くなった。
それだけでも体制構築にはかなりの損失だ。
鈴木氏が冗談めかして言っていたが、絵コンテの段階で死んでしまったら誰がその先を作れるのか?
宮崎氏を一番好きで理解しているだろう鈴木氏にとってこの覚書は悩ましいだろうと想像する。

この番組で非常に印象的な場面があった。
ドワンドの川上さんが持ち込んだAIを使った自動生成のアニメーションソフトだ。
画面には頭を使って動く気持ち悪い人間が映し出される。
それを見た宮崎氏が自身の知り合いである障害者との関係性を引き合いに出し、「これを作る人たちは痛みとかそういうものについて、何も考えないでやっているでしょう。極めて不愉快ですよね。そんなに気持ち悪いものをやりたいなら、勝手にやっていればいいだけで、僕はこれを自分たちの仕事とつなげたいとは全然思いません。極めて何か、生命に対する侮辱を感じます。」 と発言する。
そして「どこにたどり着きたいんですか?」と問う。
これを聞いたドワンゴ関係者は言葉を失ってしまう。
なんでもかんでも自由な発想ができ作れる時代に根源的な問い質しをされたからだろう。

宮崎駿監督、ドワンゴ川上量生会長を一喝「生命に対する侮辱の記事:http://www.huffingtonpost.jp/2016/11/13/miyazaki-hayao-dwango_n_12950618.html?ncid=fcbklnkjphpmg00000001

クリエイターに限らず世を貫く成果を上げる人たちには非情で冷徹な素養がある。
しかし上記の宮崎氏の考え方を知ると生命を描く事に対して、その位でないと描けないんだという気持ちが伝わってくる。
私はそうした素養も気概もないため、どうしても様々な場面で手加減してしまう。
そのため成果も中途半端だ。
仕事の成果に対して信念を持って非情で冷徹で成果を出せる人を羨ましく思う反面、もう自分にはそこまでせめぎ合う人たちとはエネルギー負けするな・・と感じている。
そういう意味で、今後は偉大なクリエイターたちの作品を純粋に楽しむ立場でいようと思う。

オリンピックまでに次の宮崎作品が見れるだろうか?



50代でこんな事を考えるのは早すぎるだろうかね??っていう記事 [独り言]

2016年11月8日(火)記載

ここ数カ月、気力の衰えに悩まされている。(相撲取か・・・)
現状のビジネスでの業績が上がらないという事もあるが、
新しいビジネスへのアドレナリンもなかなか出ない。
 
かつての私なら未知であればあるほど興味を抱くはずの新規ビジネスへの挑戦だが
若い頃のような無邪気なパワーが出てこない。
そう、若い頃のような「無邪気なアドレナリン」が出ないのだ。そういうものなのか?
 
先日吉田拓郎さんのインタビューを見ていたら、生活感や人生感が50歳を過ぎて圧倒的に変化したと言っていた。そうか、そういうものなのかもしれない。 

年齢を重ね、経験を積み、情勢分析をし、冷静になって考えられるようになったとも言えるのだが、
「夢に向かって・・・」的な野放図な事を言っていられないという感覚の方が勝ってしまっているようだ。

そういう意味ではある種の「鬱」なのかもしれない。
 
そういえばとありネット記事で読んだのだが、武田鉄矢氏やビートたけし氏が40代から鬱になったとあった。
彼らのような才能のある人達が鬱になったのは、その年齢で自分の考えられる夢の実現を
早くも果たしてしまった事が大きかったと分析しているようだった。

自分を奮い立たせる目標を失ったということだろう。

私は彼らとは違い凡人だ。

それでもここ最近の自分の思考回路を探ってみると
自分の中で新しい達成目標の設定に迷っていることが分かる。

若い頃に夢見て来た事の半分位は叶い、半分は能力不足で諦めたが、
我を知り、己を理解するに従い、残りの人生でどんなサプライズがあるのだろうか?と
見極めてしまっている自分があるのは確かだ。

会社の立場も若い連中を指導するような感じになりつつある。
守りに入ったとは考えたくないのだが、そういう冷めた自分がどこかに存在しているようでもある。

もちろん残りの人生で色々な事が起きるだろう。
60過ぎて新しい事を起こした人も多い。
でも、そういう人たちは実は極僅かだという事実もある。
五木寛之氏の「下山のすすめ」には人生の終盤に向う心構えが書いてあった。
抗なうのではなく、受け入れろ・・と。
 
 
タモリさんも友達に関してこんな事を言っていたようだ。 
 
そうなんだよね。その気持ち、凄くピンとくる。
友達って言える人間関係を持っている人って、良く考えると数人しかいないんだよね。でもそれでいいんだよね。自分がそれで良いと思っているのなら。それが自然なんだよね。
 
人の事はともかく自分の人生を今後どのように過ごし、そして終わらせるかは
私以外の人にとっても大きな課題なのだろう。
そしてそれは全ての人にやってくる。

最近問題を起こす高齢者の記事を読むにつけて、
自分があんな風になったら嫌だな・・とか思う。
またアルツハイマーで自分が誰だか分からなくなるという状況になるのも避けたい。

自分の資産状況も分かっているので、経済的な未来もある程度予測が立ってしまっている。
決して楽観できないことも事実だ。
そう考えてみれば、若い頃のように無邪気でいられるはずもないのだろう。

それでも、一体自分は何をしているのが好きで、何をしたかったのか?
あたらめて自問しようと思う。

何をやれるかはともなく、出来れば死ぬ直前まで自分のペースにあった仕事をやりながら逝きたい。

50代でそんな事を考えるのは早すぎるだろうかね??
もしかしたら人並みになったのかな?





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何故私は大好きだった音楽業界に戸惑いを憶えるのか? [独り言]

何故私は大好きだった音楽業界に戸惑いを憶えるのか?

私の心の奥底では今でも音楽の魔法を信じている。
小中高時代に音楽がかけてくれた魔法の記憶と体感はかけがえのないものだ。
私の時代を彩ってくれた音楽は、今でも私の宝物だ。
私の一世代上の団塊の世代に生まれた超優秀なミュージシャンたちのお蔭もあり
私は恵まれたポピュラー&ロック音楽の進化過程を体感できた。
加えて78回転アナログ盤→LP&EPアナログ盤→CD→配信、またアナログ録音→デジタル録音という
技術的変遷も同時に体感し、絶え間ない変化と革新の過程にあった大衆音楽は、まさに時代を作った「メディア」そのものだった。

だから社会人になり、音楽に関わる仕事がしたくて音楽業界に潜り込んだ。
約19年、その場所にいた。そして一度その場所を離れた。
それから約14年を経て、まだ音楽業界に戻ってきた。

随分と景色が変わってしまった。

残念ではあるが、音楽業界にはかつてのような熱気や活気がなくなってしまった。
もちろん、今でもライブビジネスを中心に活気のある音楽活動やアーティストは存在する。
しかし、ネットによる情報過剰の時代と趣味嗜好が多様化の時代になり
音楽そのものが世の中を動かすパワーを相対的に削がれてしまったことは
時代の趨勢とは言え慙愧の念を禁じ得ない。また人間がいい曲だと感じられる音の順列組み合わせはほぼ出尽くした感があり、音楽そのものに新鮮さを憶えるのは難しくなったこともある。
そのため、現代の音楽業界は、時代の波に晒されてビジネスモデルを大きく変えざるを得ないような様相である。
しかし特にレコード会社の人たちと話していると、大半の人たちがかつての栄光を忘れられないのか、あるいはまだ自分たちの過去のモデルが通用すると思っているのか、相変わらずCDを売る事にしかエネルギーを注いでいないようだ。

明らかにCDが売れない時代になってもう15年。

ここ最近はAKB商法なんていう言葉も出るような時代で、CDそのものよりもオマケの価値が高く、
無理矢理CDを販売している時代であるにも関わらず、レコード会社の方々はCDを売る事に熱中している。
音楽よりも「モノ」を売る事が彼らの使命になっているかのようだ。

最近のレコード会社には若手のスタッフが圧倒的に少ない。それも無理のないことで、Googleとフジテレビから内定をもらった若者は迷わずGoogleを選ぶ時代なのだ。若い人たちにとってレコード会社が今後30~40年、自分たちのキャリアを支え豊かにする産業とはとても見えないのは当たり前なんだろう。
従って若手スタッフの流動性が下がる。それは古株、つまり栄光の時代を知った古手のスタッフが保守的に経営をしている組織であり、新陳代謝や新しい発想で今後のレコード会社を運営しようという体質からほど遠いということだ。
レコード会社は過去25年余り、ビジネスモデルを見直す機会が多くあった。
多くのレコード会社がそれに着手できていないのは過去が余りにも良すぎたのかもしれない。
いずれにしても社会からの役割は終わりつつある。 

私の時代、レコード会社は、時代の最先端を行っており、最も憧れていた職種の最高峰だった。
それが40年程度の間にここまでみすぼらしくなるとは、失望を通り越して絶望に近い印象だ。

エイベックスのような新興レーベルは、こうした時代の波を先読みして早期の業態転換を図っているが、
そういう彼らでもあと20年という時間を見据えると生き残れるかどうかは私にも分からない。
ましてや古株のレーベルは業態転換を図ろうとする施策さえ見えてこない。
最近はレコード会社も360度ビジネスをやろうとしているが、そもそもレーベル社員にそのスキルがあるかどうかすら疑問だ。
同じ業界には既存のマネージメント会社も多数あり、ビジネス上の衝突を回避できなくなれば、レコード会社の存在は増々不利に働かざるを得ない。
昨今の音楽業界では、マネージメント会社の方が圧倒的に優位で、レコード会社の幹部が、マネージメント会社の役員に天下り出来れば最高のキャリアアップとさえ言われている。レコード会社は絶滅寸前の恐竜のような存在になろうとしているようだ。

とあるレコード会社の人からは、「今でも音楽業界の中心はレコード会社なんです!」と聞いたことがある。
本当にそうであるなら、現代の多様性が全くない年間オリコンチャートは彼らの意思表明なのだろう。

昨今はヒットチャートに関係のないところで有力な活動をしているミュージシャンが多い。
一般的には無名だがツイキャスでは大人気のミュージシャンが両国国技館を満員にしてさえいる時代になったのだ。
また、オリコンには全く登場しないバンドでも1万人規模の集客をするような連中だっている。

彼らの名前を教えられても私には全く分からない。しかしこの集客力は凄い。そして、これが事実なのだ。

昔のようにテレビ雑誌で全国区的な名声を得て影響力を作る時代は終わったようだ。
一般的には無名でもニッチなファンに深く突き刺さるミュージシャンが時代を作っているともいえる。
現代的なサブカルとも言える世界で生息するミュージシャンたちが、メジャーを超え始め違う音楽進化を遂げ始めている。 

そういう意味では、私も保守的な古株なのだろう。
私の時代もそうだったが、新しい文化は若い世代が作り出すものなのだ。

オジサンの出る幕はない。

私が戸惑っているのは、それを目の前で見せつけられ、自分の方程式では解を得られなくなっているからだろう。
また同じような古株連中が、若い連中に負けないぞ・・!と息巻いて解を持つ力もないのに頑張っているからかもしれない。
スティングやオールマンブラザースを知らなくたってどうってことのない時代の若者が文化の中心なのだ。

そういう意味で、私は若い人たちに任せるという選択をした。
私ができるのは応援することだけだから。
そして私は自分を彩ってくれた音楽をひたすら愛しむ。まだ聞いた事のない曲なんて数万曲あるし。それで十分だ。







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安楽死について [独り言]

安楽死について


世界的に安楽死を容認しているのは以下の国家ということだ。

スイス - 1942年
アメリカ(オレゴン州) - 1994年「尊厳死法 (Death with Dignity Act)」成立
オランダ - 2001年「安楽死法」可決。
ベルギー - 2002年「安楽死法」可決。
ルクセンブルク - 2008年「安楽死法」可決。
アメリカ(ワシントン州、モンタナ州) - 2009年
アメリカ(バーモント州) - 2013年
アメリカ(ニューメキシコ州) - 2014年
アメリカ(カリフォルニア州) - 2015年


安楽死をどう捉えるかは非常に困難な問題だ。個人思想、宗教が絡むとなおさらだ。
安楽死の法制化は国家による殺人の肯定と考える人もいるだろう。
そういう見方を否定も出来ない。

しかし個人的には国家による安楽死という選択を日本も考えざるを得ない時機がそう遠くない日に
来るだろうと思っている。本当はそういう選択がないのが一番だが、
この動きは人類が自然に矛盾した生き方を選んだ事の反動だと思っている。
明治時代の平均寿命が50歳前後だった日本は、2016年の今や男女共に80歳を超えてしまった。
この先更に寿命が伸びそうな勢いである。こんなに急激に寿命を延ばした生物は人間だけだ。

こうした寿命の在り方は、自然の摂理とは合致しないように思っている。
人間の医療改革や食生活の改善は、自然摂理を超えて人間の寿命を延ばしたと思う。
またアルツハイマー病や老化を解決する医療の発展も今後開発されるだろうと言われている。
しかし、現代社会において、健康寿命は男女共に70歳前半で、残存寿命の12年は病気との闘いとなる。
私は50代の人間だが、幼少時代、還暦を迎えた人は全員高齢者、つまりお爺ちゃん、お婆ちゃんだった。
大抵は60代後半から70代前半で死に、それが一般的だった。
年金制度の設計もその時代を基礎としており、それが現行設計とのかい離を生んでいる。

個人的見解だが、「安楽死は人生を終盤の最後の保険」だと思っている。

私は自分が何歳まで生きるのか、健康のままで死ぬのか、長患いをして死ぬのか・・、
そういう漠然とした不安がある。人口の50%の人はガンになる時代だ。
先日逝去した大橋巨泉氏も、長い闘病生活に耐えきれず、安楽死を口にしたと聞く。
病気と当事者の格闘を考えれば、彼の気持ちは十分過ぎるほど理解できる。

私は長患いをし社会復帰不能なのにも関わらず治療という名の地獄が続くことにも恐れを抱いている。
社会復帰し、元の生活を取り戻せず、不自由になるくらいなら私は安楽死を選択したい人間だ。
加えて自分がアルツハイマー病になり自分から記憶も何もかも無くなったり、
誰かの手を借りなければ普通の生活を維持出来ないのにも関わらず、
ただ神から与えられた(と言われる)命を存続させるためだけに社会のエネルギーを浪費することに耐えられないだけだ。
人生とはそういう苦難を乗り越えることに意義と理由があるという人もいるだろう。
でも、本当にそうだろうか?

老老介護による殺人、社会復帰の困難な高齢者への医療の問題、社会保障費の増大など、
これから50年を見れば、安楽死という解決方法を無視できるはずもない。
先日、相模原市で19名の大量殺人があった。殺人者は、施設入所者のような人たちへの安楽死を主張していたらしいが、私はそのような意見に全く賛同できない。 

安楽死を制度化するのは相当に難しい問題だ。
安楽死に反対する人の気持ちや考え方を完全には否定できない自分もいる。
しかし、私には安楽死という「保険」があった方が多少気持ちが楽なだけなのだ。

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音楽は握手のオマケか。 [独り言]



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ディスクユニオンの広告コピーがネット上で話題になった。



「音楽は握手のオマケか。 音楽は、手を握るためにあるんじゃない、音楽は、心を震わせるためにあるんだ。」というもの。



これに対してネット上には様々な意見がアップされていた。



総じて言えは、このコピーへの価値観は本当にそれぞれだという事だ。



また音楽が握手のオマケかどうかについて決めるのはユーザーで、ディスクユニオンに言われる筋合いじゃないという意見も多かった。



自由主義経済においてそれは一面正しいのかもしれない。しかしディスクユニオンがこうでも言わねばならない位、音盤(レコード)業界の現在、そして将来は暗い。





ハッキリ言うと、CD・音盤の産業は超斜陽産業で、確実に超縮小市場向かっている。現在のレコードメーカーは、スタッフの高齢化とビジネスモデルの崩壊に喘いでおり、そこに残ってしまった人々が自分たちの生き残りをかけてただただ必死というのが現実だ。

現代において、音盤を買い、それが人生とリンクした記憶を持った世代は、かなり下を見ても45歳以上だろう。それ以下になればなるほど音盤への愛着は薄くなり、30代以下で音盤への愛着があるとすればマニアックな人々の部類に入る。





レコードメーカーで働く人々は、音楽を愛し、音盤を愛し、ミュージシャンを愛している集団だ。そして彼らが輝いていたのは、15年前辺りまでだ。

ここ最近、レコードメーカーに来る新人社員さんは音楽制作のポジションを望まないと聞いている。昔は超花形ポジションだったのにだ。
でもそれはそうだろう。音楽制作のポジションにはビジネスとして未来が無いからだ。若いスタッフがいない職場には、未来はない。



先ほど高齢化とビジネスモデルの崩壊に喘いでいると書いたが、レコードメーカーはスタッフの新陳代謝すら失ってしまっている。





現代においてレコードメーカーは、売れない製品を作り続ける事でしか自分たちの存在を肯定できず、売れない製品を何とか売るために、ミュージシャンやタレントに握手をさせたり、ハグさせたり、サインをつけたり、写真を撮らせたりしている。



つまり、レコードメーカーはituneの出現以後、「音楽・音盤」という自分たちの製品の核の価値を自ら否定し、音楽とは無関係な付加価値に依拠して製品を売るしかないビジネスモデルに行きついてしまったのだ。



また市場では全くと言っていいほど価値のない「音楽」を作って、音楽とは無関係な付加価値をつけなければ自分たちが存続しえないという矛盾の中で暮らしている。時代とは言え、悲しい話だ。(それでも私は年に何枚かCDを買っているが・・・)



しかし敢えて言わせてもらえば、殆どのレコードメーカーは、20年ほど前から予想されたこうした事態に真剣に真摯に面と向かって来なかった。今更慌てての遅いって感じだ。

最近(2016年4月)、やはりこの点に言及した人がいた。ビレバンの金田氏だ。彼の発言は以下で読める。彼曰く、「CDを売るだけの手伝いはもうしたくない。なぜなら売り上げが立たないから。でも、音楽を売る手伝いはしたい。」ということだ。本音だろう。殆どのレコードメーカーは背に腹は代えられないという押し売り商法でCD(音源ではない)という物を売ろうと必死だ。彼らの核心的利益はそこにしかないからだ。
でもこれまでとても美味しいビジネスの上にずっと胡坐をかいて、上手く行きそうになくなった途端、その対策を自分たちで考えず、外の関係者に負荷(握手会、ハグ会、ツーショット写真、サイン色紙などなど)をかけて乗り切ろうとする連中の発想は、もはや産業に携わる者として終わっているのだ。


(ビレバンの金田氏の発言)

http://www.cinra.net/interview/201604-vvrocks?page=4

 



現代における音楽ビジネスは、製品(CD)から体験(ライブ)に置き換わっている。従ってここ5年でライブ産業が急速に伸びてきたのだが、殆どのレコードメーカーはこの波を掴めなかった。製品はコピーされやすく、価値を失い安いが、ライブは逆だ。昔は音盤のための宣伝としてライブが位置されたが、現代において音盤は、ライブの宣伝ツールでしかない。
(ちょっと付け加えておくと、2015年、ライブエンタの大手企業LIVE NATIONは約8250億円の売り上げを出しているが営業利益は1.8%の130億円。かなり利幅が小さい。また事業別でみると、ライブでは約5600億円の売り上げだが、120億円の赤字なのだ。彼らは何で利益を出しているかと言えば、ライブにまつわる広告タイアップと、チケッティングの手数料なのだ。だからライブビジネスが単純に儲かるわけじゃない。)



かつてはアーティストの放つ音楽を愛し、そしてアーティストに憧れ、ライブに行ったが、現代は、アーティストの存在を愛す事からライブに行き、その彼らの放つ音楽が良ければそれも聞くという順番になっている。



今でもレコードメーカーの人たちは1枚でもCDを売ろうと必死だが、かなりのアーティストでもまともに売れない時代だ。従ってベテランと言えるようなアーティストでも、場末感満載の場所での生ライブと即販売会(握手付き)を行うし、K-POP系とかだとハグあり、ツーショットありの、いわゆる「ホスト対応」と呼ばれる方法でCDを販売しなければ売れない。

またAKB商法として批判を浴びた売り方も記憶に新しいが、現代のレコードメーカーは、ボッタくり商法とも言えるやり方をしなければ売上、利益が作れない情けない産業になってしまったようなのだ。



ファン1人に数十万、場合によっては数百万ものCDをこうしたやり方で売り付けるレコード産業は、もはや常軌を逸しているし、産業としての矜持は全くない。



そういうやり方でしか生計を立てられないレコードマンに「矜持」を求めるのは酷なのかもしれないが、それにしても情けない業界になってしまった。



こうした売り方でしか売れないものなら、もはや音盤でなくてもいいんじゃない?って感じだ。ゲームのトランプでもいいし、チューインガムでもいいだろう?



音楽産業は無くならないだろうし、音楽も無くならないが、レコード業界の10年先は全く闇の中である。想像だが、近未来のレコードメーカーは、音へのこだわりを持った個人レーベルがその価値を分かる人だけに送り届けるような形になり細々とした形にならざるを得ず、レコード会社はいずれ、それより大きな組織の部門か課程度になってしまうだろう。



かつてのレコードメーカーの輝きを知っているからことさらに現代のレコードメーカーの実情を見ていて悲しい。



時代とは言え、音楽産業には残酷な時代が来たものだ。

それでも私は音楽が好きだし、音楽の良い時代に巡り合ったと思って感謝している。




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サザンオールスターズ 「おいしい葡萄の旅」 東京ドーム 2015/5/26 ~ファンタジーを壊す悩ましい観客マナーを考える~ [独り言]



サザンオールスターズ 「おいしい葡萄の旅」 東京ドーム 2015/5/26

~ファンタジーを壊す悩ましい観客マナーを考える~

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今回のステージ設計は20154月のポールマッカートニーより遥かに大きく、ローリングストーンズサイズだった。

それにしても相変わらず満員御礼だった。デビューして37年(という事は私も東京に出てきて37年という事だ)。
日本のロック(&ポップス)バンドとしてここまで長く支持されているバンドは歴史上初めてだ。現在若者に支持を受けている数あるバンドは30年後、どんな姿で活動しているかを想像すれば、サザンの凄さが判るだろう。(個人的意見だが、今をトキメクバンドのほとんどは30年後、サザンのような活動をしていないだろうと思っている。)

私が初めてサザンオールスターズのライブを目にしたのは、1978年の夏の専修大学の学祭での演奏だった。
ちょうどザ・ベストテン(TBS)の生中継が入っていた日だったので、リハーサルを含めて3回“勝手にシンドバット”の演奏を聴いた。まだ最初のアルバム「熱い胸わさぎ」しかない時代だ。
あれ以来サザンの音楽は脈々と私の人生を彩り、ある時期彼らと仕事を共にする時期もあった。貴重な体験だった。
そして私はまた
1聴衆の中で彼らの音楽を聴いている。

「おいしい葡萄の旅」と名付けられた今回のツアー。来年2016年で60歳という桑田さんも流石に連日、連続とはいかない様で、公演日程の間隔はこれまでになく長い。8月には武道館公演もやるというから意欲的だ。

あれだけの密度の構成での3
時間30分というライブの長さを維持する体力には驚いたが、圧倒的な物量の土台をもった演出は、久しぶりのマンモスコンサートの体験だった。事前にネットで内容等は一切見ず、情報は完全に遮断して見に行った。1曲目のチョイスは意外だったが、最後の曲が終わった段階でも意外な曲が演奏されなかったのは驚いた。
それでも演奏、映像、照明のプロが繰り出すおもてなしは、相変わらずやるなあ~と見ていてただただ感心するだけだった。原さんが出てくるまでの構成の流れには泣けたし、原さんが歌う時の桑田さんの立ち位置は、ただただ素敵でニヤニヤして見ていた。
私の心の引出しにはバシバシ伝わってきた。

一時癌に倒れファンを心配させた桑田さんだったが、随分と体調も声も元の状態に戻った事が伺えた。

1990年代~2000年前半、ライブ後半になるとコップやホースによる水かけ演出が多かった。あれは桑田さんなりの”おもてなし”だったのだろうが、個人的には唄がかなり犠牲になるため好きな演出じゃなかった。
ここ最近はその演出が無くなった事が私的には嬉しい。ひょっとしたらファンクラブにそういった声が多く届いて桑田さんの耳にも入ったのだろう。私としては演奏に集中できるので今のライブ性向の方が嬉しい。

なお、ここにはライブのセトリを記載しません。ネットで検索すれば直ぐに見つかりますからそちらでどうぞ(これを書いている時はまだツアー中だし・・)。

ライブのセトリは知らないで行った方が感動も倍化致します。
桑田さんによれば、松山のライブに来ていたファンにセトリが批判されていたらしい。そう断った上で演奏が始まったのだが、そのセットリスト構成は、実際、私にとっては最高でした。音楽やセトリ構成にはもちろん好き嫌いもあるが、引出しの深さでの理解力に差が出るから、批判をされた方は、あの構成の持つ音楽的な良さが理解できなかったのだろう。お気の毒様である。
この理解力は、洋楽をキチンと聞いてない人にはちょっと判らないものだと思う。

追記(2015年8月20日):

武道館公演の直前、長年サザンのレコードメーカー側の立場で支え続けた高垣健氏に取材をする機会を得た。彼はサザンだけでなくシーナ&ロケットや松田優作氏など様々な人たちを世に送り出してきた人物で現在は顧問をしている。
取材の中の「葡萄」のアナログ盤についてのコメントの中で、「葡萄」のアナログ盤はミックスはCD盤と同じだが、CD用とアナログ盤用のマスターテープのマスタリングは全くの別作業で行っていると語っていた。
サザンは全ての作品をCDとアナログ盤で出している数少ないアーティストだが、もともとアナログ盤でデビューした彼らが今でもアナログ盤への深い愛着を持っていることを伺わせた話だった。ちなみに高垣氏にとってのサザンの一枚は、「熱い胸騒ぎ」だそうだ。(実は私も同感。あのアルバムは未成熟で未完成ながら妙な勢いと完成度がある。また大学生だった当時の私が死ぬほど聴いていたという事もあるのだろう。)



~ファンタジーを壊す観客のマナー問題を考える~

そう言えばここ最近、ライブ鑑賞中、悩ましい問題がある。

スマホだ。

今回のライブでも近隣の客で演奏中にずっとスマホをいじっている人が非常に多かった。きっとセットリストを書き込んでいるんだろう。
それはそれで気持ちも分かるのでいいんだが、スマホの画面が目に入る周辺の観客にとって、明るい画面は照明演出効果の邪魔になる。迷惑だなと思っている人が多いのではなかろうか?

セトリ書き込みそのものを非難しないが、書き込みをする連中は相当配慮して欲しい。できればペンとノートにしろと言いたい。
正直言うと、あの連中の存在はライブの集中を妨げるので本当に邪魔くさい。

(ちなみに桑田さんの盟友・山下達郎さんはライブ中でのスマホによるセトリ書き込み行為を最大限非難しております。演奏に集中できない客は来ないで欲しいと公言しており、それは私も同じ思いです)

他にも演奏中にずっとメール(&LINE)しているヤツもいた。
コンサートに来ているのに何で今メールチェックやチャットしてんだよ!!って感じだった。ライブより大事な用があるんなら早く帰れって感じだ。
演奏をしているサザンに対しても失礼だなとも思った。
親が死ぬような緊急事態が起こったとも思えない不作法なスマホメールの連続作業を近所で延々とやられると腹立たしい。

あのTPOの無さというか、無節操、無教育さというか、集中力の無さっていうのは、私の理解を超える。これは年齢の問題じゃないだろう。
1階1塁側25通路22列7番の色の黒いオレンジのTシャツのデカい男、君の事ですよ。


わざわざ9000円も払ってコンサートに来たんじゃないのか??
メールなんて後でもチェックできるだろう。
優先順位が全然解らない。

また加えて困った人たちなのが、ライブ演奏中にずっと話を(それも声がデカい)している連中だ。特に若い層(2030代)に多い。

演奏中、ずっと話をしたり、素っ頓狂な大声だしているのだ。バラード曲でもだ。
空気読めや。KYにも程があるだろう。自分の感動を隣の仲間たちと共有したい気持ちが分からないではないが、一々演奏中に大声で感想述べなくてもいいよ。だいたいちゃんと聞こえないし。それ故声もデカくなるという悪循環だ。
終わってから飲み屋で語りなさい。
ちなみに、1階1塁側25通路20列6番~8番(多分)に座っていた男2名、女1名。君たちの事ですよ。真ん中に座っていた男、ビール飲みながら良くデカい声で喋るヤツだった。ホント、この連中は煩かった。

このスマホ・メール馬鹿とお話し大騒ぎ馬鹿の連中は、サザンのライブ会場まで何しに来ているんだろう?

連中の行為を見ていると何となく、ライブをBGMにして遊びや酒を飲みに来ているようにしか見えない。
それはそれでよかろう。
だったら観客席にいないで通路に行けばいい。

こういう場所や周囲の空気や迷惑をわきまえない連中が観客として近くにいると、サザンやスタッフが相当な努力をして作り上げたファンタジーを容易に壊してしまう。

ライブ鑑賞はある種の現実逃避行行為なのだ。日常生活から一時的にファンタジーの世界に誘ってくれる場所なのだ。
だから観客同志、周辺に配慮のある鑑賞方法で楽しんで欲しいと思うのだ。そんなに難しい事じゃなかろう。


ライブの冒頭、桑田さんがアリーナにいる背の高い男性は、自分より背の小さい女性が自分の後ろにいないか配慮して欲しい・・というようなMCをしていた。
きっとこうした声が長い間、ファンクラブに多かったのだろう。特に床がフラットなアリーナでは悩ましい問題だ。私の知り合いの背の小さい女性はドームのアリーナ席だと風呂で使う椅子を持参するのが常だが、
3時間近いライブだと終わったあと歩けなくなるらしい。
結構背の高い方の私でも目の前の頭のでかい男がいると困る事がある。女性ならなおさらだろう。そういう配慮について桑田さんが言及してくれたのは、非常によかった。


しかし、スマホとお話し馬鹿の連中の問題はもっと悩ましい。

また、もう1つ悩ましいのが「観客の唄」問題だ。

皆さんの周辺に桑田さんよりもデカい声で歌っているヤツが近所に居た方はいませんでしたか?

2015
年の武道館でのポール・マッカトニーの時は、この問題で感動が半減してしまった経験があった。座席の場所にもよるだろうが、私のいた場所ではちょっと深刻だった。
サザンの場合でも、歌える曲が多いので、観客が結構大きな声を出して歌うのだ。

気持ちは重々分かる。
でも私は隣や後ろの客のカラオケボックス並みの下手くそな唄に対して
9000円を払ってドームに来ているのではない。聞きたいのは純粋にサザンの演奏なのだ。

客が唄ってもいい。でも声量は相当に配慮してくれ。
お願いだから桑田さんの唄声を邪魔しないでくれ。


こういう経験って皆さんにありませんでしたか?

私が言いたいのはクラシックコンサートのような静寂を求めているのではありません。私は演奏や演出に集中してライブを楽しみたいだけなのです。色々な楽しみ方があることは重々承知です。でも最低限度、相当数の人が集まる場所では配慮すべき点があるはずです。
演奏中のライブ会場のような普通の声では聞こえない空間で私語をするなら相手の耳元で話すとか、演奏中の私語はしないとか、馬鹿騒ぎしないとか、唄うなら配慮するとか・・・。

2013年のポールのドームでは、アリーナにいた若い連中がの一部が馬鹿騒ぎをして、周囲の客と殴り合いの喧嘩に発展したと聞いている。楽しいライブのはずが、場を弁えない連中によって最悪の記憶を残して終わるのは気の毒だ。
また、私がこのライブに行った時にも、ipadで撮影しては隣のヤツと喋りながら映像を確認してライブを全く見ていないヤツ(30代男)が目の前におり、さすがに目障りだと言ったら止めたが、そもそも迷惑だっていう感覚がないようだ。こういうライブに来る資格のない連中は、折角のライブに嫌な思い出を残してしまうから来ないで欲しいもんだ。ちなみに2014年、山下達郎さんは名古屋公演中、無礼な客を帰してしまったそうだ。金を払って客として来ていれば何でもありだと思っている下世話なヤツがいたんだろう。)


スマホでセトリを書く人たちは、画面の光には最大限配慮してほしい。そもそもその行為は鑑賞中の客に迷惑な我がまま行為だと理解してください。
また、一緒になって歌いたい人たちは自己陶酔しないで欲しいものだ。

映画館に行くと上映前に、上映中の注意事項が流れるようになっている。あれはかなりの観客が周囲の観客に不快な想いで映画鑑賞を強いられており、その声の集約だと思っている。実際、あの注意喚起から随分と不快な事が減ったように思う。
私はライブでも似たような対応が必要な時期が来ているように思う。
コンサート協会は、そろそろそうした対応をしてほしいと思う。
私自身も周囲の邪魔にならないように気を付けますから・・・。
お互い様ですからね。


<!--[if !supportLists]-->    <!--[endif]-->席を立って見る背の高い人は後ろの人にご配慮を。

<!--[if !supportLists]-->    <!--[endif]-->演奏中は私語を慎みましょう。また自己陶酔もしくは馬鹿騒ぎしないでね。

<!--[if !supportLists]-->    <!--[endif]-->周囲の邪魔だから大声で歌わないでくださいね。聞きたいのは君の唄じゃないのです。

<!--[if !supportLists]-->    <!--[endif]-->ライブ中はスマホ等は禁止! 使いたいなら会場外で。

<!--[if !supportLists]-->    <!--[endif]-->撮影、録音はお断り!

<!--[if !supportLineBreakNewLine]-->

<!--[endif]-->




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SONY(ソニー)は未来に向かって何を目指す会社になろうとしているのか? [独り言]

SONY(ソニー)は未来に向かって何を目指す会社になろうとしているのか?

 

以下のような記事がネットにあった。

 

「米国型経営がソニーを狂わせた」OB苦言、現経営陣は答えず…目先の利益・株価優先が「自由闊達な理想工場」を変質させた

http://www.sankei.com/economy/news/150514/ecn1505140021-n3.html

 

簡単に言えば、SONY OBの元経営者たちは原点回帰を主張している。

しかし現在の経営陣はその意見に同意していないようだ。

事実VAIOテレビも本体から切り離し始めており、モバイルも遅かれ早かれという感じだ。件の会社では技術者は全く出世出来ない。

実際、現在のSONYの収益の40%は金融事業から上がっている。かつてのようなビジネスモデルでは生業を立てていない。

さて、一体SONYは未来に向かって何を目指す会社になろうとしているのか?

 

私の予想を申し上げよう。

 

極端な言い方だが、はっきり言って儲かれば何でも良いと思っていると思う。それが現在の経営陣のホンネだろうと思っている。井深・盛田氏の時代の自由闊達な技術者集団が未来を創るようなロマンチックな事は少しも考えていないだろう。

具体的には、SONY本体は、投資会社みたいな機能に特化し、その下にビジネス利用価値の高い子会社をぶら下げるという感じだ。そういう意味でSONYの本体は金融的な機能しか持たないだろうというのが私の予想だ。

実ビジネスは子会社がやる。かなり官僚的中央集権体制な組織を目指しているんだろう。

従ってSONY本体は何かを産み出さないし、技術者なんて全く不要という事になる。要するに財務畑、管理畑が主導する会社になる訳だ。

ロマンを語る前にテレビ事業などの事業的な出血を止め、SONYという会社の存続を優先させるというのも立派な経営方針だと思っている。実際出血は止まりそうだ。

経営陣が変わって直ぐにソニーが不動産業を始めた。

その過程を記した書籍には、SONYDNAである満たされていない顧客要求を嗅ぎ取り、そこにチャンスを見いだせるならSONYとしてこの事業を行う価値を感じたと書いてあった。なるほどそうかもしれない。確かに一理ある。

でもSONYが不動産業をやったってロマンも感動もない。でも経営陣は、そんな事よりも儲かる仕事をしなければ・・という切実さだけが優先していたのかもしれない。

現在井深・盛田氏の時代に成し得た近未来を現実化する顧客要求をやっているのはAppleGoogleなどだ。SONYはここ10年以上、全くと言って良いほど時代を先取りした製品を出せていない。

ストリンガーという最も無能な社長を8年も居座らせた事は痛恨の極みだった。ロボット事業を中止したのは、無能の証明でもある。

それを指名した出井氏の無能さを最も悔いたのは、彼を指名した大賀氏だった。

ひょっとしたらSONYは大賀氏の時代からゆっくり死に向かっていたのかもしれない。

 

だからもはやかつてのSONYの姿を追うのは酷だろう。現経営陣にモノ作りで成功した人はいない。だからそういう会社にならざるを得ない。残念だが・・・。
でもそれも時代の変化のリアリティーなんだろう。


「食」に関する「道」って代物について [独り言]

 ラーメン道-1.jpg

ラーメン道-2.jpg



ラーメン道って代物



 添付の映像は、facebookにシェアされていたものだ。

コメントは千差万別。幸いにしてこういう店に行った事はないが近い体験はある。

しかし、客と店主のラーメンを介した過剰なまでのバトルはラーメン好きの私にとってかなり不快な現象である。

ラーメンはもっと気楽に食べれば良いじゃん・・・。それが私の率直な意見だ。

違う言い方をすれば、フランス料理だって楽に食べれば良いじゃん・・と思う。
店や周囲の環境でのTPOはあるものの、料理人と食べる側が戦う事は別にない。旨い不味いは個人差があるし、好き嫌いも同様だ。

だから、他人から旨い不味いを無暗に押し付けないで欲しいというのもある。個人の感覚は個人の問題だから、他人と合う場合もあれば違う場合もある。是非の問題でもなく議論も出来ない。食の評論家やタレントの取材コメントを耳にすることもあるが、全く信用しないタチである。

日本人は何かと「何とか道」が好きだ。それは全く否定しない。そういう在り方も一つの在り方だと思っている。でも私には何となく暑苦しい。若い頃はラーメンを語るなっていうのを飲み屋でやったこともあるが、結局個々の主張合戦になって話しが落ちる部分は無く、空しいものだった。それが単純に楽しい時間だったとも言えるが時間の無駄だったとも思う。そういうケースが多いだろう。

この漫画のような店主は恐らく数多く存在しているのだろう。でもこの漫画の店主を見る限り勘違いも極まるとこうなるのかな?というのが私の感想だ。

確かにラーメンのスープはとても手間がかかる。芸術的なものだってある。それは認めます。しかし料理人が自分をアーティストと勘違いしてとすれば、残念である。

客に自分のやり方を通して人から金を貰いたいなら、少なくとも自分のこだわりを客に分かるように伝えておければいいだろう。入り口に告知しておくならもっといい。そういう事をしないことを「美学」と呼ぶ人がいるが、それはただの不親切で迷惑なのだ。

(しかしそれでも口コミで伝わるものは伝わる場合があるが・・・)

店にルールがあるのなら客にキチンと伝える義務があるし、客がそれを選ぶ事が出来るのならそれはそれでOKだ。それもしないとすれば、単なる怠慢だし失礼である。非礼であることをあえて自慢するような客商売を有難がる面倒な人もいるが、それは単に馬鹿にされているのと同じだろう。

私は職(食)人技が好きだし、職人を尊敬している。でも職人技を判断するのはあくまでも客の側だという事を忘れてはならない。職人が仕事に関して一徹であることと、客との接点を無視して我を通すというのは全く違う次元の話だ。

 私はこの漫画を読んで、ふと昔NHKで見たあるすし職人のドキュメントを思い出した。

ある日弟子の店に師匠が来たのだが、師匠は弟子の出した寿司を眺めたまま手を付けず、そのまま帰ってしまった。

ナレーションでは子弟への修行の厳しさを伝え、子弟関係の空気の重さを映像に残していた。
しかし私はこの師匠はとんでもないヤツだと思った。

それは何故か?

残った寿司はどうするんだよ!?ってことなのだ。

捨てるの??  それとも弟子が食べたのか? まさか・・・。

食にこだわる人間が、食べ物を明らかに粗末にする姿を見て、食の「道」と呼ばれるもののあり方に根本的な疑問を持ってしまった私の視点はおかしいだろうか?
たとえそれが修行の一環だったとしてもだ。

この漫画も同じなのだ。

漫画の店主が客を帰らせた後、この手つかずに近いラーメンの運命はどうなるんだろう?

この店主は多分捨てるよね。

自分の大事なスープやラーメンじゃないのか?

客の振る舞いが自分の想定とは違い、気に入らないからそれらを捨てる事を良しとし、自分の勘違いした信念を貫くというラーメン(食の)道が正しいと思うラーメン職人がいるのなら、そんなラーメン道や職人はラーメンを作る資格がないんじゃなかろうか?

「食」において客に出したものは再利用が出来ない。
だから最大限度大切にすべきじゃないのか?

だから出す側は相当な準備や用意を必要とするはずだ。それは告知行為だって含まれる。

客はただ食べるだけだ。口に合えばまた来るだろう。また多少口の肥えた客なら、作った人間のこだわりや奥深さを忍ぶかもしれない。それは個々にあって良い事だ。

分かる人には分かるし、分からない人には分からない。

それでいいじゃないですか。

でも、食に関わる人間が自分のネタ元をむげに捨てるというのは、やはりあり得ません。

私は母親から第二次大戦直後の食うや食わずの話しを何度も聞かされました。本当に最低限食べる事が精いっぱいだった時代だったそうです。
あの時代を経験した人からすれば、このラーメン屋も例に挙げた寿司の師匠も馬鹿野郎と言われるでしょう。

そういう勘違いした「道」を歩む職人は、職業人の前に人間としての修行をし直した方がいいかもしれません。
だから私は、食通と自慢する人や食の道を極めたというような人を一切信用出来ない訳です。






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「自分の国 日本を好き」と言えない日本人の不幸 [独り言]

「自分の国 日本を好き」と言えない日本人の不幸

 

先に断っておくが、私は右翼でもなければ左翼でもない。どちらかと言えば、中道だ。保守的な部分もあれば革新的な面もある。世の中を生きていて、どっちかに極端に振れて事が成立・継続することはほとんどないと思っている。

 

さて、私は日本という国が大好きだ。戦後生まれの私も50歳を超えたが、最近益々その気持ちが強くなる。

この気持が強くなったのは40代後半位からなのだが、それはこの年齢辺りから日本の歴史を自分自身で学び直した事が大きい。

学生時代、暗記一辺倒の日本史は全くもって苦手だったが、試験や学校の成績を上げるためにやるのではなく、自分の知的好奇心を満たすためだけに始めた日本史の勉強は、日本という国の凄さや奥深さを改めて知らしめてくれた。

それに加え、これまで様々な海外出張をした経験で外から日本を見る機会もあったが、私の肌感覚の結論は、(日本人にとって)日本ほど暮らし易く素晴らしい国は無いという事だった。

 

しかし、この国において自国を愛するという発言や態度を示すと違和感を抱かれる。ほとんど脊髄反射のように最も多い反応は、「あなたは右翼ですか?」という感覚だ。もちろんこんな事を言っている私自身にも同じような脊髄反射が起こる。

一体この脊髄反射の原因は何から始まったのだろう?

 

日本国への愛情と国旗への忠誠に違和感を覚えるような教育(洗脳?)を施してきたのは一体全体何だったのか? 

よく言われるのが日教組だが、それも確かに一因あるとしても、国民全体の中に日本国への愛情と国旗への忠誠を表だって言えない空気が漠然と存在しているのは日教組の歪んだ教育姿勢だけではないように思う。

これを引き起こした最大の原因が第二次世界大戦だった事は疑いようがない。

当時の軍事政権が、国家のために死ぬ事が是というような正当性を祭り上げるために天皇を利用し、日本国旗の御旗の元に国民を引きずり込み戦い敗けたあの戦争の悲惨さのトラウマから、我々日本人は未だに抜けられていないんだというのが私の感覚だ。

300万人以上を戦死させた日本国は、自国民から信頼を失い、それがそのまま日本国への愛情と国旗への忠誠に莫大な疑念を持たせたのだろう。

人類史が補足できる段階からにおいて、病死や自然災害で300万人以上が死んだ例は数少ない。自国民をこれだけの数、死に追いやった当時の日本国家の在り様は、戦後70年が経過した2015年になってもトラウマとして消えていない。

また戦後の教育現場も戦争の反省に基づいているにしても、これに加担した部分があるだろう。



あの悲惨な大戦で多くの人が傷ついた。ヒトラーやスターリンのような怪物を産み、日本は原子爆弾や殺戮と言って良いB-29の空襲で3040万人近くの民間人を殺された。日本だって自衛戦争とは言え、相手側からすれば侵略としか映らないような戦闘行為した事実はある。

しかし結果的に負けた我々の理屈は通らないから事の戦争や戦闘行為の是非を問題にしても空しい。

戦争とは双方に狂った状況を平気で生み出す程狂った行為である事を決して忘れてはならないという教訓を噛みしめるしかなかろう。



日本国への愛情と国旗・国歌への忠誠は、前の大戦によって大きく傷ついてしまった。そして多くの国民はそれらを表面に出さない事を美徳とし始めた。

学校の卒業式で日の丸を拒絶する教職員が現れ裁判にまでなっている。

国旗・国歌に拭い去れない思い出が染みついていたとしても、他国ではこんな事は起こらない。

国家から都合ところだけをつまみ食いして国家や国家のシンボルを拒絶する連中は、自己矛盾に陥っていると言って良い。

学校の卒業式で日の丸を拒絶する教職員は、オリンピックの国旗掲揚や国歌斉唱をどう思っているのだろうか?

野球好きの教職員は、開幕時に行われる国家斉唱と国旗掲揚時に起立しないのだろうか?

彼らはそれらに違和感ないのだろうか?

卒業式の国旗掲揚や起立拒否について裁判するなら、何故スポーツ等での国旗掲揚や起立行為についても裁判しないのか?

また、他のスポーツ等の大会で日の丸の元で戦うと宣言する選手やそれを応援するサポーターやファンが、国旗を身に纏っていても、彼らを絶対に右翼とは思わないだろう。

何故スポーツを介在させてOKな事が、他の場面ではダメなのだろう?

これは要するに「筋が通っていない話」なのだ。だから矛盾した行為が散見されるようになったのだ。

 

私は50歳を過ぎて、素直に自国や国旗への愛情を表現できない空気に満ちている日本の現状を本当に不幸な事だと感じ始めている。

特に日本国旗は、大戦の陰湿なイメージや極端な右翼的イメージによって本質から遠い部分で忌諱されていることを残念に感じている。

若い頃は、天皇制の在り様に疑問を持っていた時期が無かった訳じゃないが、歴史をひも解いて行くと、天皇制こそが日本の歴史の背骨だという事が素直に理解できる。これは是非の問題ではないのだ。そういう意味では宗教的な部分に触れる事だとも言えるだろう。

人類が生まれてこのかた、インダス、中国など様々な文明が生まれては消えた。ハンティントンの「文明の衝突」にあるように、数千年という歴史を持ち現在にも至る「日本文明」は、世界史の中で見ても稀な存在なのだという事を改めて自覚すべきことだと考える。

私は日本民族が他の民族と比較して優位だのなんだのというような不毛な議論をするつもりは毛頭ないが、有色人種である日本人が白人たちの文明に伍して「日本文明」を築き、営々と繋いできた点については歴史的事実として認識した方が良いだろう。



日本国にだって様々な欠点や欠陥がある。しかしその欠点や欠陥を超える素晴らしさが日本や日本人には多いと思っている。

四季があり、水や風土に恵まれ、狭い国土で国家が消滅するような諍いを免れ、相互互助を常とし、高い教育と識字率と道徳性を維持しながら長い歴史の風雪に耐えてきたのが日本であり日本人なのだ。

明治維新という革命をあの程度の内戦で済ませ近代化した事や、第二次大戦の終戦時に殆どの混乱もなく銃を置き、昭和天皇の言葉に従いアメリカの占領を受け、その後軌跡的な経済発展を遂げた事は、日本の底力の現れだ。



昔は西洋文化にドップリ憧れ、日本人であることすら嫌だった私も、歳のせいか、日本の良さが肌で分かるようになった。

ありがたいことだ。

今の心境は、死ぬまでにもっと日本を学び、もっと世界を知り、日本人であることを誇りにし、日本人として死んでゆきたいと思っている。

日本人でよかった。今の私はそう思って毎日を生きている。


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これからミュージシャンを目指す若い人たちは次世代のビジネスモデルに注視せよ [独り言]

これからミュージシャンを目指す若い人たちへ 

          20151

 

音楽業界がこんな感じに変化するとを1990年代の音楽業界人のほとんどは誰も思っていなかっただろう。
実際、現代(2015年)では私が音楽業界を過ごした
1983年~2002年の約20年間と2010年代以降とは業界の様相が全く違ってきている。
まずCDが売れない。
これは決定的なビジネスモデル変化だ。
従ってミュージシャンは生み出した音楽を金に変える方法を大きく変えなければならなくなった。

現在最も有効な手段はライブ活動とマーチャンダイジング(グッズ販売)だ。音楽業界は確実に「製品から体験と体験に付加したビジネス」にビジネスモデルを転換しなくてはならない時代になっている。
またライブの記憶を封じ込めたグッズはそれに付加価値を与えている。
ライブ活動はそれ自体をコピー出来ない点と価値創造の点で最も強力な武器がある。そのためここ
5年程度で市場規模は1000億円から倍の2000億円を超え始めている。2020年までの市場予測は5000億円となっており、CD市場を凌駕し音楽ビジネスの核と始めている。

以下のURLで見ることができるリストは1970年~1976年に活躍していたバンドやミュージシャンたちだ。
http://homepage2.nifty.com/out-site/spanishcastlemagic/rockandfolkband.htm

現代の若い人たちにはこれらを見ても何の事か分からないが、このリストにいる人たちがデミューから40年経過した今、このリスト内で見ることができるミュージシャンで未だに現役で一線級でやれているのが、本当に極僅かだということが分かる。山下達郎氏、小田和正氏、The ALFEE、矢沢永吉氏細野晴臣氏など残ったのは誰でも知っている人たちだが、スタジオミュージシャンとして現在でも活躍している人たちを入れても、ミュージシャンを職業とできる才能を持った人はやはり全体の極僅かという表現が適切だろう。いかにミュージシャンを職業とすることが稀有だというかが分かるリストだ。

最近こんな記事も見つけた。
「キャンピングカーで全国を回る自営ミュージシャンから学ぶ、新規開拓営業の極意」
http://sales.typemag.jp/article/2273

すわだいすけ氏と伊澤ゆくさんによるアコースティックデュオ・Sleepyhead Jaimieの活動を記事にしたものだ。
もちろん全国を旅芸人のように歌い歩くという方法は昔からあったのだが、彼らのように若い世代で音楽を目指す人たちがこれまでにない数でこうした方法を取っている時代は初めてだろう。いわゆるジプシー的な生活だ。1960年代のヒッピームーブメントの時、欧米で自由を追い求めてジプシー生活を始めたり、日本国内でも会社や社会に縛られず自給自足を始めたりした人々がいたが、直ぐに壊滅した。理由は簡単で経済的に崩壊し、生活を維持できなかったからだ。

別の記事にも書いたが、東京を中心にした音楽活動が崩壊し始めている現代で、自分たちの方法で音楽を生業にしようとする若者はこれまでになく多いと感じている。彼らが夢に向かう姿はかつての私を思い出す。それ故オッサンとしてはちょっと彼らに言っておかねばならない事がある。

”この方法で死ぬまでやり続けられますか?”という事だ。
若者の多くは”やる”と答えるだろう。
実際、キャンピングカーで全国を廻るSleepyhead Jaimieのメンバーは単純に年齢が若い。

つまり肉体的にも精神的にも無理が利く年齢なのだ。
しかし、現在オッサンになった自分のリアリティーは、あのような生活を中高年になってデイリーで維持するのは殆ど無理だという事だ。
現在でも活躍中のデビュー40年選手の音楽活動を見ても分かるように、今後しばらく、ミュージシャンの最大収入源はライブ集客とグッズになる。
従ってミュージシャンのビジネスモデルは、フロービジネスからストックビジネスにしなければならない。フロービジネスとは時代に行き交う客をその度毎に捕まえるというやり方で稼ぐ方式で、ストックビジネスとは、客を積み重ね減らさないという方式だ。ミュージシャンのストックビジネスで最も大事なのはファンクラブの会員数になる。ここがコアになり裾野をどの程度広くとれるかが勝負だ。山下達郎さんのように、ライブになるとチケット争奪戦になるためファンクラブの新規募集を打ち切ってしまうレベルのミュージシャンはともかく、今の若いミュージシャンはファンのストックこそが未来の活動を担保するという事を忘れてはならない。今後の時代において、それが出来ないミュージシャンは、この職業を全うすることは不可能だろう。Sleepyhead Jaimieのように全国を丹念に巡り、また同じ場所に戻ってライブをする場合、前回よりも客が増えていなければ持続可能性が薄くなる。客が増えてくれば会場を大きくでき演奏環境も良くなり収入も増える。今後の時代のミュージシャンは、明らかにコアファンとそれに次ぐロイヤリティーの高いファン層を自らの活動で積み重ねて確保出来なければ職業としては行けないのである。

音楽業界でミュージシャン、スタッフで生きてきて人たちが本業で生業が立たないと必ず行く道が「音楽学校の講師」だ。正直、常勤講師になれたならばかなり良い方だ。大抵の場合、講師は非常勤で1コマ辺りのギャラも数万円程度だ。コマ数が多ければそれなりの収入にもなるだろうが、人気の学校であれば講師の競争も激しい。また教える側もそれなりの準備に時間もかかるため、費用対効果で言うと講師生活は決して楽ではない。少子化であるが、音楽学校は乱立気味で、講師の力量も色々のようだ。通常音楽学校の講師をする人たちは、現役では忙しい人たちではないので、過去の経験を生徒に伝える人たちとしては有効だが、変わりつつある業界のフロントラインの情報を伝える人たちとしてはやや心細いと思う。それでも元音楽業界人にとって、講師の仕事は重要な収入源である。

さて、2017年に入って音楽業界のあちこちから以前なら聞かないような話を耳にする。
ロック系、ポップス系アーティストで結構ネームバリューのある人達でもライブ集客に苦戦しているという事だ。ここでいうライブ集客とはホールツアー級以上を埋める事を指す。1名のミュージシャンが一部上場の一般サラリーマンよりも安定した生活と音楽活動を送るには、年間最低でも2~3億円程度の売上がないと難しい。事務所を運営し、ある程度の上流的な生活を維持しようと思ったらそれが最低ラインとなる。
仮にライブ活動だけでこの売上を作るためには、チケット代7,000円としても約3万人以上の動員をする必要がある。ライブビジネスはとにかく固定費との闘いなので、動員がないと全く成立しない。YUMINGが2016~2017年にかけて彼女のキャリア最大数のライブをこなすが、60歳を過ぎた彼女が、過去の蓄積の上に成立させてきた生活を維持しようと思ったら、総動員数をあげるしかない。(おまけに彼女はツアーを3年に1度程度にしていることもある)

こうした中で、ホール級以上で安定した動員が見込めない苦戦チームは、いわゆるディナーショー的なスタイルであったり、場合によっては、全国の商業施設(イオンなど)を数人のチームを組んで廻るようなツアーで口糊をしのぐような活動が実態のようだ。
とにかく印税収入の確保がCDの売上の落ち込みで難しいため、自分が稼働して稼がなければならない時代になってしまった。従ってプロで活躍するレベルでさえもこれまで以上に大きな収入格差が生まれている。言い方を変えれば中間層的なミュージシャンが消えたという事だ。従って一生食えるミュージシャンになるのは相当な能力を求められるという事に尽きる。

過日、声優の大塚明夫氏が「声優魂」という書籍を出版した。彼の序文にはこんな文章が添えてある。
「声優だけはやめておけ。嘘偽りなく、これだけです。」
これだけのキャリアの人が放つと、物凄い言葉だ。

私の言いたい事もこれに似ている。
「素敵な職業だと判っているが、本物でないならミュージシャンだけはやめておけ。」
若い頃ミュージシャンを目指した私が言うのもなんだが、これが現代の真実だ。
正確に言うなら、「1億人に1人と判るほど明らかな才能に恵まれていると判らないのであれば、ミュージシャンだけはやめておけ。」となる。

さて、現在のレコードメーカーやミュージシャンは、今後の存在意義を問われている。CDという最大の主力商品が売れないとなれば、誰が考えても殆どのレコードメーカーの存在は不要だ。現段階でCDの年間マーケットサイズは2000億円を下回り初めているが、その中でもAKBと嵐だけでの売上は数百億円規模になり、それ以外のアーティストを合計すると151600億円程度だろう。

15
1600億円程度となると、他業種であれば1社程度の売上に相当する市場サイズだ。現在大手と呼ばれるレコード会社はソニー、ユニヴァーサル、ワーナー、ビクター、エイベックスなどで、コロンビア、キング、ポニー、徳間、クラウン、パップ、ドリーミュージックなど中小を含めれば数十社がひしめく。

経済学の常識で言えば小さいマーケットに多数が参加するとシェア争いが激化して格差が大きくなる。従って完全な勝ち組と完全な負け組に分かれることになり、実際その現象は顕著に成り始めている。ここ数年の間にレコードメーカーの再編は不可避で、最終的には45社程度に収まるだろうと見ているし、最終的には部門程度になってしまうだろう。
最近はAKBやK-POPで代表的な、ハイタッチ会、ファン交流と称したイベントで売り上げを維持しようと必死だが、商品であるCDの相対的価値を自らが率先して下げてまでして売るレコードメーカーはのこうした姿勢は、既にこのビジネスが終焉に近いと認めているようなものだ。

インターネットによる視覚的接触が主流のこの時代に、音源という聴覚主体の製品価値が下がるのは致し方ないのだが、今後もミュージシャンは、ライブ動員のツールとして音源を出すという手順を余議なくされるだろうし、狭いマーケットに参入すると起こる中間層的な存在の消失、つまり超勝ち組と超負け組しか存在しなくなるのが将来の音楽業界の世界だ。そしてかつての中間層的な位置にいたようなミュージシャンは小粒のビジネスを廻す程度に落ち着く。かなり良くても地方のライブハウスを転々と廻り、一晩で数万~10万円程度を受け取るレベルになる。

これで週20万円を稼いでも年間で1000万円。でも移動、宿泊、リハーサル経費も含んでいる。社会保障費や税金を引いたら手取りは半分位だろう。実は自由業者がサラリーマンと同等の生活レベルを維持するにはサラリーマンの年収の最低でも2倍はないと同じになれない。50代で一部上場のサラリーマンなら800万円以上だが、同じ年齢のミュージシャンが同等以上の生活をしようとおもったら1500万円以上の収入が必要だ。


またスポティファイなどの配信サービスが拡大していると云うもののCDと比べた収益は、日本に限れば利用者数が十分とは言えず、日本の配信の市場はだかだか400億円だ。最盛期8000億円のCD市場と比較しても20分の1。AWAやLINE MUSIC,APPLE MUSICなども林立するが、私の予想では少なくともこうした配信音楽サービスは、日本においてほとんどが頓挫するとみている。まず、全音楽をカバーしている配信サービスがない。自分の好きなあるミュージシャンはAPPLE MUSIC、ある人はLINE MUSICと別れてしまっている。簡単に言えば使い難いのだ。
携帯の「レ点営業」でボトムの会員を獲得して事業成功している”BBTV”のような強制入会的(忘却入会とも言える)モデルならともかく、自由意志で入会を促すこの手の音楽配信サービスは、特に日本では相当厳しいと思う。また音質もYOU TUBEのちょっと上程度であり、そもそも音楽端末でない携帯電話というプラットフォームの持つ意味は「お手軽音楽利用」以外にないだろう。
とある音楽出版社の人間が言っていたが、500万回の視聴で入る印税は35万円程度ということだ。レコード会社は原盤使用権を確保できるため積極的だが音楽出版社にとって印税配分の手間の割りに見入りの少ないこのビジネスは、余り魅力的ではないという。
また、「レ点営業」への規制強化により、こうしたビジネスモデルは成立が難しい時代になりつつある。


こうした状況下、音楽業界の中で特にミュージシャンは、往時と同等の売上や利益を見込めないのが実態だ。この辺りの事情は以下のサイトに非常に詳しく載っているから読むべきだと思う。

http://www.musicman-net.com/SPPJ01/67.html

http://www.musicman-net.com/SPPJ01/68.html


 

こうした時代背景の中でも、ミュージシャンを目指す若者は少なくない。東京・渋谷に限らず都内では路上演奏をする若者を見かけない日はなく、また都内のライブハウスでのアマチュアバンドの出演数も以前と比較しても落ちているとは言えない。
しかしミュージシャンにせよビジネスサイドにせよ斜陽産業である音楽業界に参入するという事は以前に増してリスクが高い事を覚悟せねばならない。レコードメーカーは売上や利益を減らしているため、新規投資に慎重だ。つまり新人育成にかける時間や資本に余裕がない。従って即戦力的なミュージシャンを求めるが、そういう人材はごく稀にしか居ない。

我々はミュージシャンと言うと、サザンやB’z、矢沢永吉、ミスチルなどのスター級ミュージシャンを一般的な姿として見がちだが、彼らは業界の中でも極々稀なスター成功者だ。

でもこうしたミュージシャンが存在したのは、この世代での参入者が多かったからに他ならない。
このような記事を書いていて真逆な話しをして申し訳ないが、参入者が減ると有能な人間が出る確立は確実に減少する。従って質が低下し、ひいては産業自体を疲弊させるという悪循環に陥る。実際既にその傾向が出ている。口パクライブ、特典付き誘導でのCD販売、演奏能力の低いミュージシャンたちなどだ。

実際、ミュージシャンで年収数千万以上というのは全体の中でも極僅かな存在だ。
従って他の一般的な連中は総じてこのレベルからは程遠い生活を送っており、ピンキリのキリの連中だと年収
1300万円なんていうのもザラだ。
これだと同年代のサラリーマン以下だし、ミュージシャンを名乗っていても、実際はアルバイト的な仕事が主務で、とてもミュージシャンを名乗るのはオコガマシイという人だって多い。そういうレベルでも、自分の事をミュージシャンやアーティストと名乗る人は多くいるのだが、ちょっとオコガマシイとも言える。ミュージシャンは職業なので、ミュージシャンと名乗るなら、主収入がミュージシャンとしての活動で賄われていなければならないだろう。

実際私が昔関わっていたギターリストもの中にも、非常に有能にも関わらず仕事は不安定で、40代の彼は殆ど奥さんのヒモのような状態な人もいる。

ピンのミュージシャンでも音楽だけの収入で活動している人間は殆どいない。テレビCM出演や講演、学校の講師、ボイトレ、営業的な演奏活動など様々な「副次収入」を組み合わせてビジネスを維持しているのが実態だ。これはGLAYのプロデューサーでもあった故・佐久間正英氏も同様の趣旨を著書で語っているが、これが現実であり事実だ。副業の方が本業を上回る自称ミュージシャンは意外と多いのだ。


実は私の身内や知り合いにもミュージシャン志望をしている人間がいる。私のように、長年音楽業界で本物の一流のプロに接してきた私の目は自然と厳しく見がちだが、ミュージシャンで
40年近く食える連中というのは、若い頃から「圧倒的」な才能に恵まれている。
だから、ミュージシャンになれる人は、僅かな例外を除いて、殆ど生まれつき決まっていると言っても良いだろう。つまり選ばれし者たちなのだ。(極稀に後天的にそうした才能が開花する人がいるのは事実。)
唄の上手い人、良い曲がかけるセンスの人、楽器が上手く演奏出来る人というのは、基本生まれつきの才能に過ぎない。そういう才能を持った人が何らかのきっかけで、その才能を伸ばす事に時間を注ぐ事によって開花するだけなのだ。
足の速い人は生まれつき速く、その才能を開花するキッカケを得て時間を注いだ結果、その先に進むのだ。元々足の遅い人間はどんなに努力をしてもオリンピック選手にはなれない。

音楽もそれに似ていて、素養がなければどうにもならないのだ。従って素養がないのに夢を見て努力をする人は、人生をドブに捨てていると言ってもいい。
芸事の世界はどこも同じだが、声優魂の中で大塚氏が言うように「ハイリスク・ローリターン」というのが現実だ。

私の身内のA君は、
27歳の現在、傍目に見ても才能の片鱗もないが、まだまだ自分の才能を信じており、努力によってスーパースターになる夢が実現出来ると思い込んでいる。彼の年齢だった当時の自分を考えれば、彼の夢追い人は黙って見守るしかない。だが残念ながら彼は音楽を職業にすることは出来ないだろうし、私以上にリスクの高い中年~高齢者人生を歩むだろうと想像しており、痛々しくて言葉もない。

音楽で飯を食うためには、既に売れている連中には無い、特質や才能で勝って行かなければならない。売れている連中が座っている椅子は、その人間が死ぬか、売れなくなるまで空く事はない。
桑田佳祐氏のポジションは彼しか座れず、ミスチルの桜井和寿氏も同様だ。
B’z、ドリカム、矢沢永吉氏、井上陽水氏、山下達郎氏、小田和正氏など、声や曲を聴けば直ぐに彼らと分かる印籠のような個性を持っていなければミュージシャンを“職業”には出来ない。
また才能の開花とブレークはシンクロしない。才能があって開花時期を迎えてもブレークしない人だっている。時代に合わなかったり、ちょっとした大衆の好みを見誤ったりと理由は様々だ。我々はつい桑田佳祐氏や矢沢永吉氏、井上陽水氏、山下達郎氏などの成功事例ばかりに目を奪われるためミュージシャンを目指すと誰でも彼らのようになれそうに思うかもしれないが、彼らは例外中の例外なのだ。
それは違う例で言えば、東大法学部を卒業して官僚になっても局長や事務次官クラスまで行ける人が一握りであるのと似ているし、ある種、どの業界でも数十年という単位でトップに残れる人というのは僅かであるのが当たり前なのだ。特に才能で切り開く分野はこの率が厳しいというだけだ。


また、これは私の持論だが、才能のある連中は殆ど例外なく
26歳までに結果を出す。結果を出すと云うのはヒット曲を世に送り出すという意味だ。従ってそれ以前に当然のようにプロデビューしている。逆に言えば、26歳以前に何らかの形でプロになっていない人は、既にチャンスが無いと言っていい。現代であれば、YOU TUBEを使おうがどのような形態にせよ世間に出る方法が何だろうが、まず26歳以前に音楽を職業の主体に出来ていない人には殆どミュージシャンという地位を得るチャンスがないと見た方が自然だ。

ちなみにヒット曲を書ける才能を持った人は、大抵10曲に1曲は誰でもこれがシングル候補だね・・と思う曲を書いてくる。少なくとも20曲に1曲は間違いなく書く。これをクリアー出来ない人はヒット作品を書く能力がないと判断して良い。30曲で1曲だと職業としてやってゆくのは難しい。逆に言えばヒットを狙わないような音楽活動なら向いているかもしれないが・・・。

従ってこの年齢を超えるとブレークする機会が極めて少なくなると言って良い。逆にこの年齢までにヒット曲を出し、その後も何作品かヒットし、ファンを囲い込む事に成功すると初めて10年の活動が可能になる。そしてその後も数年に1作の割合で一里塚のような作品を産んで行けば、20年、30年という活動を維持する事が可能だ。


さて、現在ミュージシャンを目指している諸君。貴方は客観的に見て音楽的な素養のある人間だろうか?

演奏面で言えば、一流のプロの連中は、既成に発売されているCDの演奏のコードを数回の試聴で取り、同じように演奏できるレベルを持っている。彼らにとって難しいというのは、常人には難しすぎて演奏できないようなレベルを指す。
ただし昨今はツイキャス経由で人気を博している人たちもいる。それでもフォロアー数の多い人達は、演奏も高度でありセルフプロデュースにも長けているようだ。ライブ動員も数千人というツワモノもおり、かつてのようにCDが売れ、テレビに出て、メディアを賑わせた人が売れるという方程式は崩れていると言ってよい。
 


音楽の才能はスポーツと違い、記録を計って客観的に誰でも判断のつくものではないところが難しいのだが、少なくとも唄の上手さや曲の善し悪しは一般的な人でも判断がつくとも言える。

ミュージシャンという職業は他の職業と異なり、非常に民主主義的な洗礼を受ける。つまり大衆に支持されなければ飯は食えないという事だ。大衆の支持がないという事は客観的にはその才能が無いという言い方にもなる。

もちろん売れない作品や演者の中にも優秀なものや人間が存在している事実はあるのだが、職業に出来ない以上、それらは趣味の範囲と言って過言ではない。職業人(プロ)と趣味人(アマチュア)では自ずとその評価は異なる。

先日、NHKの番組で、映画音楽作家の佐藤直紀氏のドキュメントをやっていた。彼は自身曰く、「私には全く才能がありません。いつ化けの皮が剥がれるか、心配してます、本当にそう思ってます。」と語っていた。
まあ、本当に才能の無い人が20年もこの仕事を続けられない事は明らかだが、彼の言う意味は、それだけ競争が激しく浮草稼業だという事だろう。彼の番組を見ていて彼に仕事が舞い込む理由は理解出来た。

昨今のアメリカでは「music xrayhttps://www.musicxray.com/)」という音楽分析サイトがあり、ここでは過去の音楽作品とヒット性の関係を70以上に分類・分析し、新作のヒット作品の見込みを予測するサービスを行っている。また作品だけでなくアーティストの売れる可能性も予測するシステムまである。

どうやら人間が好むポピュラー音楽は7つ程度ヒット・セグメントに分類出来るらしく、ヒット作品は例外なくその範疇に入るらしい。

過去に数十万曲という音楽データとヒット結果を照合すればそこに因果関係が見えてくるのは自明の理だが、もはやこうなると音楽に夢があるのか?とも感じる時代だ。レコード会社にデモテープを送ったり、新人開発担当がライブハウスを廻って発掘する時代はまもなく終わりという訳だ。

そのうち人工知能が過去のヒット曲を分析して新曲書く時代になり、完全なヴァーチャルシンガーも登場する時代が来るんだろう。私はそんなつまらないものには興味を惹かれないだろうから、今から20年後も1960年代~1980年代を愛聴していると思う。

私や私より上の世代は、音楽が時代の先端を走り、多くの驚きを与えてくれ、癒され、救われ、楽しませてもらった時代の中を生きてこられたと思う。幸せな巡り合わせとも言える。

しかしこれからはそうでもなさそうだ。そういう時代に突入する中で、未来のミュージシャンを目指す若者たちが、自分の才能の本質を良く見詰め直した方がいいだろう。それでも本物の才能が埋もれずにこの世に出て、人々を楽しませてくれる事は間違いないと信じている。
音楽は誰でもできるが故に、誰でも仕事に出来そうだが、実は全く違う。素人にはここが理解出来ない。一度でもプロの世界をくぐれば、その凄まじさが判るだろうが、少なくともそれにピンとこない人にはそもそも向いていない仕事とも言える。

30歳過ぎて、生活もままならない状態で叶う可能性のない夢を見続けていると必ずしっぺ返しを食らう。
最近私が関わったあるバンドは、一度メジャーデビューしたもののデビュー作が売れず、1年で契約解除。その後ある事務所に拾われて2年ほど活動したがライブハウスで単独公演をしても数十人というレベルのままだったため、解散してしまった。解散に関してメンバー間の不一致もあり、一部のメンバーは仕事としての音楽活動を続けられるように頑張ると言っていたが、俯瞰的にみて職業とするには余りにも技量不足のため早晩人生の見つめなおしをしなければならない日が来るだろう。彼らは30歳周辺の年齢だが、20代に一般社会で通用するような技能も知識も吸収しないまま過ごしてきてしまったため、社会に出て働くにしても職種が限定されてしまうに違いない。

 

音楽にしろ何にしろ、才能がある人は、ほとんどの場合、埋もれる事はありません。特に昨今のようなYOU TUBE時代においては、見つからない方が奇跡的ともいえます。従ってそうした環境下で世の中を貫けないのは、マーケット性がないという証でもあります。
ただ、ネット社会になったため、プロとアマの垣根が低くなったため、玉石混合になってしまった。そのため昔のレコード会社やプロダクションのような本当の才能を見極めるような仕組みが無くなったため、才能の見極めは、マーケットに委ねされてしまった。ユーザーにとっては、多くの玉石混合から才能を探す手間が増えてしまった。
こうした状況下、これから音楽でメシを食おうと考える人の多くは、キチンとした収入を得て、音楽を趣味にして長く楽しむ事の方が、人生にとってずっと良いかもしれないという選択肢を一度真剣に考えてみるのも人生、生活の知恵と言えるのではないでしょうか? 明らかに60~80年代に比べて音楽を職業にするのは難しい時代になっております。
現代の若い層が高齢者の仲間入りする時代、仮に年金が払われたとしても若い時代に取り崩した金を受け取っているだけかそれ以下なので、結局のところ生涯年収範囲で一生をやって行かざるを得ないのだ。

四半世紀前の私の時代なら多少無理して夢を追っていても取り返す方法があったが、現代の若者たちは夢を追って失敗したら、生涯年収を取り返す機会すらないまま高齢者になってしまうか可能性が高い。そうなったら悲惨です。

 

 

「もう音楽では食えない」という記事:鈴木健治氏 

http://kenjisuzuki.net/archives/536 

 

 









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