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韓国疲れは何故起こるのか?  [独り言]

私はもう15年以上韓国と仕事をしている。随分と世話にもなっているし、世話もした。

冬のソナタ以来、近くて遠い国と言われた日韓の距離は俄然近くなった。
そういう意味で、コンテンツが届ける文化や親近感は長年の外交政策を超える成果となった。
個人的に日韓の接近は良いと思っている。
外交的、地政的観点から言っても韓国との有効関係は日本にとって不利ではないしむしろ有効に活用すべきだ。
ただ、日本人が一般的に抱くような友好関係が日韓で維持できるというのは幻想だろう。我々は似た様な民族に見えるのだが、驚くほど違う宗教を持った国民であるというのがリアリティーだろう。
 
北方面に同国的な敵を抱える韓国にとり、外交的生存を貫くためにはロシア、中国、日本そしてアメリカとの関係の妙が国の存亡のカギとなる。
一言で言えば、韓国の外交戦略の根幹は「敵を作らない」事にある。それ故、パク政権当初に行っていた日本の慰安婦問題の批判を訪問先の国で公言したのは、彼らの気持ちを汲んだとしても余り賢いやり方ではなかった。実際THAADの配備で中国という手札を失い孤立している。親日である必要はないが、敵意をむき出しにするのは頭の良い外交政策とは言えない。

個人的にだが、ここ15年韓国と付き合ってみると韓国人に対して、大変な違和感を覚える事が数多い。
誤解なきようにだが、これから書く事は悪口ではない。私は韓国人に対して好きも嫌いもない。またK-POPのアジア進出の様子を見ていると彼らの才能や爆発的なエネルギーに感心さえもする。そういう部分において、特に日本の芸能、音楽業界人は謙虚に見習う部分があると考えているくらいだ。
さて、「違和感」についてだが、実は日本人の私だけでなく、中国人や台湾人も同様の見解を憶えている。
この「違和感」はなかなか乗り越えられない感じのものなのだが、お互いに引っ越す訳にはゆかないので付き合い方を考えて行くしかない。理解できなくても対応するしかないのが現実だ。

さて、韓国人の違和感とは? と尋ねられると、まるで「他にはないOSで動いているPC」という印象に尽きるだろう。
実は、2017年になってケント・ギルバート氏がこれに関する満額回答とも言える著書を出した。

儒教に支配された中国人と韓国人の悲劇 (講談社+α新書)写真で示した本「儒教に支配された中国人と韓国人の悲劇 」だ。
本書を読んだ。
韓国ドラマやK-POPなどで、韓国に対して無批判に好意をもっていらっしゃる方にはちょっと毒気の強い本だと思う。基本的に韓国に批判的に書いてあるからだ。
それでも彼の著書内で韓国社会に対する違和感が儒教思想の毒の部分が蔓延していることだとう指摘は正確で正しいし、私の実体験とも完全に一致する。
正直言うと、私のブログを読むよりも、この本を一読した方が良い位だとも思う。




さて、以下は私の体験に紐づいた記述だ。

一例だが、韓国人の多くは、自分の立場の弱い段階では目線を下げて接してくるが、一たび自分が相手よりも優位と見るやそれまでの援助や人間関係を顧みない態度に豹変するというものがある。
これは知的レベル関係なく韓国の人たちに普遍的に感じる行動だろう。
これは我々のような外国人だけの意見ではなく、日本に住む韓国人たちも自国民に対して同様の意見を言う人も多い。
つまり彼らに対して下手に出ようものなら「直ぐに勘違いする」というものだ。
この勘違いは殆どスイッチが入ったようにグラデーションがないのも特徴だ。韓国人自身も自国民に対して違和感を覚えているというのが事実のようだ。

この思考回路は我々のような外国人には全く理解できない部分だ。あのOSの仕組みだけは未だに理解し難い部分だ。
さてこの思考回路は慰安婦問題に影を落としている。

日本は韓国との慰安婦問題で外交交渉を行い、日韓合意に従って色々と手を尽くしてきた。
90年代の河野談話は、韓国との関係や先方の事情を配慮した形を取る事でお互いに鉾を収めようと考えたからだろうが、このやり方は韓国人を理解したやり方ではなかったと思う。
韓国人は、日本的な「行間を読み丸く収める」「和を以て貴しとなす」的なやり方は通用しないという事を当時の外務省担当者は政治家に告げるべきだった。日本側のベースにあるメッセージ、つまり、日本側も一定の非を認める談話で事を終わりにしましょうという部分は当時の韓国政府や国民には理解できない部分だったと思う。

韓国人から見れば慰安婦問題は、100%日本に非があると思っている問題だ。彼らがベトナム戦争時にベトナム人の女性に同様の事をやっていたことは彼らにとって別問題だ。
従って彼らにとって慰安婦問題において自分たちが立場が下になるという事はないのだ。
自分たちが「上」にいる以上、韓国人にとってこの問題について日本は韓国人の「言うがままになるべき」というのが彼らの心理的根底的にある理屈なのだ。
極端な言い分に見えるだろうが、BSフジのプライムニュースに出た韓国人コメンテーター李 泳采(イ ヨンチェ/恵泉女学院大学)氏が、「最終的な(韓国との)合意があったとして日本は加害者である事が消える訳ではないので、永遠に謝罪すべきなんです」「日本は慰安婦問題において、常に加害者であるという立場を忘れないというのとが重要なのです」という発言に触れれば分かるように、韓国人のメンタリティーの全てがこうした点にあると言って良いだろう。
日本にいて日本の大学にいる韓国知識人でさえもこういう見方をするのだ。他は押してしるべしという事だ。

どうやら韓国人には、ある時点の謝罪によって「過去を清算する」、つまり一旦ゼロにして再出発するという発想がないようなのだ。この辺りが付き合っていて感じる違和感の1つだろう。ちなみに中国人は、かつて田中政権時において、日中国交を樹立した際、毛沢東政権から戦時下の所業についてあえて問わないとされた。現在においても中国の時の政権は日本の過去の所業を忘れるなとは繰り返して言うが、国交の合意そのものの精神に反した行動は取らない。南京虐殺の件にしても個別の歴史館のようなものは作るが、北京の日本大使館前に虐殺を象徴するような像を立てるような下品な真似は中国人でさえもしないのだ。

外交的な象徴である大使館前に平気で慰安像を置く韓国人の心理というのは、例え表面的に問題解決や合意があったとして、被害者である日本人に対してこの問題を永遠に忘れさせないというメッセージがあると考えて良い。これは前出の韓国人コメンテーターの発言と一致する行動なのだ。この湿度の高い「しつこさ」や韓国人のメンタリティーや思考回路が、一般的な常識で受容困難なのは、議論の果ての外交的な解決という事実と日本政府及び日本国民が慰安婦問題において永遠の責任と謝罪を有する事が「別次元の問題だ」と考えている事にあるからだろう。

プライムニュースなどて時折取り上げられ議論されている本問題で、韓国人コメンテーターと日本側と殆どかみ合わないのはこうした背景がある。日本からすれば、慰安婦問題の解決に際して外交的な解決で過去の経緯や問題、課題に区切りをつけ、先に進もうという、世界標準的な外交的アプローチで投げかけても、韓国側は、それはそれ、これはこれと、その都度違う条件や見方を提示してため、日本側や世界は戸惑うのだ。
韓国人にとって過去の清算は事実上、永遠にないというのが精神の根本にあるからだ。これは「恨」の発想だろう。
日本側の日韓合意の解釈は、「外交的に合意した内容と精神に準じた行動と対応をする」という事だが、韓国側の解釈は、「履行した合意内容と精神はそれとして、もしこの件で何か起きたら、個別にそれぞれの事情や状況を考えて双方で協力して対応する」という感じなのだ。
韓国人からすれば自分たち側にも色々事情があるのでそういう事情に合わせて(そもそもの加害者である)日本も(当然一緒に)考えるべきだというような感じで、彼らの感覚からすればむしろ当然の行為や思考なのだが、これは自分たちの問題も相手が一緒に引き取るべきだという韓国独特の考え方で、世界標準的には理解し難い部分なのだ。これが別の違和感を生んでいると思う。

仮にだが、慰安婦たちに安倍首相が直接謝罪をしても、次に想定されるのは韓国世論や政府が天皇の謝罪を要求してくる事だろう。実際そうなるのは火を見るよりも明らかだ。
私の推測だが、自民党政権はこれを最も危惧していたのだろうと思う。イ・ミョンバク元大統領が竹島に上陸した時、天皇に戦争責任の謝罪をしろと言った事は、日本との関係性で触るべきではない部分だった。韓国人は日本の天皇を表現する際「日王」と言っている。それが彼らの日本や天皇に対する見方でもある。少なくとも国内の人気取りのためにイ・ミョンバク元大統領が天皇の謝罪を求めたのは悪かった。ああいう部分が韓国人の外交センスのなさと言えよう。
しかし、その後、韓国のパク・クネ氏や外相のユン・ビョンセ氏が政権を担い、日本を敵として演出してきたが、中国との関係が怪しくなり、外交的に日本との関係をこれ以上悪化させることが相当に不利と読んで国内のリスクを取ってでも慰安婦問題に合意を取り着けたのは、韓国社会の背景を考えるとかなりの英断なのだがそれまでの日本との外交を鑑みると泥縄状態で、そのため短期的な視点で日韓関係を回復させるためアメリカの介入もあって慰安婦問題に合意をしたが、民間の認識と理解とは相当な乖離があるのはご存じの通りだ。現状パク政権は死に体で、アメリカとの首脳会談などは夢のまた夢という状態だ。サムソンまで巻き込んだ現政権のスキャンダルは、韓国経済を直撃するだろう。

韓国の「儒教思想」や「恨」の根深さは非常に独特な歴史背景で成立している。当時の日本の外務省や政府首脳はその点を理解した上で外交的措置を取らないから混迷を極める原因を作ったのである。そういう意味で河野談話は大失敗だった。
当時の政府は、日本は先方の顔を立てておけば、同じアジア人として先方も日本の立場を理解して行動してくれるだろうと考えただろうが、韓国人にそういう思考は通用しない。

韓国人と付き合っていると良く分かるのだが、人間関係で密なモノを求めるため公私の境界線が非常に曖昧になりがちだ。(日本も同じような部分があるが韓国のような濃さはない)。
一例だが、韓国では、友達になれば相手が自分の持ち物を無断で使ったりすることに対して韓国人は違和感を感じない。授業中に消しゴムのやり取りをする際、日本では友人でも一言声をかけるが、韓国ではそういう行動をしない事が普通なのだ。友人の家に入ったら相手のものを自分の物のように使う事も平気だ。
こうした文化的な違いの累積はなかなか大きい。自分の問題であっても他人が同じ様な目線で一緒に引き取る事を求める「依存的な考え方」は、外交にも現れているとも言って良い。
(別にこれが悪いという意味で例を出している訳ではないのであしからず。文化の違いはどこにでも普遍的あるものですから・・・)
また、これは儒教思想の影響が色濃いためだが、公共よりも自分、家族、親戚への貢献が重要な指標になる。
韓国の大統領が任期を終えると親族への違法な行為によって逮捕等されるのが常態化しているが、こうした行動癖は、正に儒教思想の影響だ。家族、親戚連中は身内である大統領に「集る(たかる)」のを当然と考えしまう。大統領になっても身内の要求に応えなければ儒教思想としてはまずい。結局、公の人間でも身内に配慮をした行動を取るため、任期後にトラブルとなる。
ここが韓国のややこしい一面でもある。

韓国が法治国家でなく人治国家と言われる所以は、儒教思想を根底に持つ事に他ならない。
法的客観性よりも人的主観性(身内の論理)の方が勝ってしまうのだ。
(ちなみに江戸時代、日本は儒教国だった。士農工商はその思想の現れだ。明治維新という革命的時代があったため、日本は儒教国でなくなったが、これはある意味で幸いだったと言えよう。それでも今でも公務員上級試験によってエリート官僚が選ばれるというのは科挙の名残だろう。) 

従って物事を客観的に見て、論理的な部分で整理する必要がある大きな問題が起きると方向の定まらない船のようにフラフラしてしまう。人的主観性(身内の論理)の方が勝ってしまうため、民衆が騒ぐと毅然とした対応が出来にくくなる。

慰安婦像の対応にしても、法律的には設置が認められないのに行政が対応を出来なくなる背景には、慰安婦問題について悪は日本であり、それを糾弾することは正義であり、その糾弾の象徴である像の設置に意義を唱えるのは親日だということになるため、韓国人としては法的客観性を主張できる立場(政治家、裁判官ら)でも法的である人々でさえも行動が制約されてしまい。出来ないのだ。そんな事をすればいわゆる「村八分」になってしまう。

また、日韓合意があっても慰安婦像の設置に政府首脳が対応できないのは、年長者の慰安婦に対して歳下の政治家たちは、儒教思想的な対応(年長者を敬い祖法を守る)をしなければならないもどかしさがある。加えて特に韓国では、政治家が親日のレッテルを張られたらお終いだ。
そういう意味で韓国とはまるで二重人格のような国に見える。(外交拠点への慰安婦像の設置を非難する韓国人も存在するが圧倒的な数ではない)
民主主義的に成立した政府があるのに、人的主観性を保持しようとする国民の声によって政府の方針が変わるという部分だ。(日本にも建前本音の二重人格があるが、それでも概ね法的運用が担保され維持されている。)

この二重人格的側面が国民個々に普遍的に見られるのが、「韓国疲れ」と言われる部分なのだろう。プライムニュースで反町さんが毎回韓国コメンテーターに頭を抱えているのはこうした部分だと言って良い。

さて、プサンの慰安婦像問題はこの先、どうなるだろうか?

現行の韓国政府及び自治体は像を撤去させられないだろう。これはパク大統領の職務停止が大きい。前出の李 泳采(イ ヨンチェ)氏は、こうした状況下で日本政府が大使召還をしたのは行き過ぎだと語っていたが、彼(ら)の発言を聞いていると、いつも何か問題があるたび自分たちの瑕疵を棚上げにして、相手に譲歩や協調を求める傾向がある事が分かる。これらも韓国人の特徴に見える。しかしこの考え方は韓国では普通なのである。

プサンの慰安婦像問題について1つの可能性はある。パク・クネ大統領が弾劾されず復帰した場合だ。
こうなった場合、パク・クネ大統領は全ての権力を使い、自分を陥れた(と考える)権力者たちや報道関係者たちに報復&反抗するだろう。その際に慰安婦像の撤去も含まれるかもしれない。
しかしその副作用として国民的なデモ等が起こりしばらく韓国社会は混乱するだろう。またパクさんが大統領職の任期を終えたあと、彼女の韓国国内の居場所はなくなるかもしれないが・・・。
(それが引き金にもなって経済も疲弊し始め結局韓国は極度の不況に陥るだろうが・・・)

現実論としてこのまま撤去されない場合、日本政府と韓国政府は長い冷戦状態に入るかもしれない。安倍首相も召還した大使を返す機会を逸したままになる可能性もある。実際既に1カ月を経て帰任の気配がない。長引けばさらに機会を見いだせないだろう。
慰安婦問題の本当の真実がどこにあるのかは私には分からない。100歩譲って当時の現場で自らの意思とは違う扱いを受けた慰安婦さんらが居て、それに日本軍人やその周辺が何らかの関与していた可能性があったかもしれない。
戦時下の混乱期とは言え大変に気の毒な事であり、彼らに一定のルール下で保証はされるべきことだと思う。そしてその事について議論の末に2016年末日韓は合意をした。個別の意見はあるだろうが決められた事は決められた事だ。
今後は双方の国の問題として合意に基づいて行動するだけだ。それが国家間の約束事への一般的な対処となる。特に今回の合意は「不可逆的」であり「韓国側の基金設立=日本側10億円供出」を条件とし、「米を含む国際社会の確認」があったものだ。嫌な言い方になるが、韓国政府はよくこの条件を飲んだと思う。安倍首相の言っていた通り、この合意を事実上解決する実務の責任は韓国側に比重が重いからだ。そしてその実行をするのが韓国人としてはかなりハードルが高い。(それでも合意したのはパク政権がその意味を理解していなかったのではないか?と勘繰ってしまう・・・)

2/10(米時間)に行われる日米首脳会談を機にして、近い将来的にはアメリカが安全保障の立場で間に入り、強制的な調整を行うかもしれない。契約を重視するアメリカ人からすれば韓国側の状況はかなり不利に映るのは目に見える。
日韓の冷戦が解除され一旦元に戻ったような感じを装うだろう。プサンやソウルの像の撤去を現在の韓国政府が自立的に出来ないのは明白であり、それなしで日本側も大使を帰任させることは難しい。
いずれにしてもチキンゲームの様相の「日韓冷戦状態」は、韓国が合意に基づいて自立的に解決策を出すか、アメリカをキッカケにするしか動きが取れないように思える。

 
 慰安婦像問題について、安倍総理が韓国に冷ややかな理由:(Yahoo News)

私は、韓国のテンジャンチゲやチャンジャ、サムギョプサルなど食だけ取っても良い部分をいくつも上げる事が出来るのだが、どうも彼らの思考や態度にはついて行けないもどかしさがあるのが残念だ。韓国人にしても日本人に違う見方で同様なのかもしれない。
私は韓国人の慰安婦像の設置そのものには反対しない。表現の自由だからだ。設置そのものが韓国や国際法的に全く問題ない行為であれば我々があれこれ言う筋はない。
それでも設置場所や方法は問うべきだろう。また政府も外交的にそうした活動との距離を考えるべきだ。
日本人の誰かが東京・仙台坂の韓国大使館前に「韓嫌像」なんて設置しようものなら日本の警察が来て排除するのが当然だ。ヘイトスピーチにしても日本は法律を作って出来ない様にしたではないか。
そう考えればソウルやプサンの日本大使館前の設置やアメリカ国内の公園などの設置などで行う異常な主張方法の違和感は議論の余地のない事だろうと思う。



「韓国人に生まれなくて良かった」元駐韓大使が心底思う理由:(元・在韓国特命全権大使 武藤正敏)

上記記事には同感だった。韓国社会は苛烈だ。勝ち抜いた各界の少数エリートは生き残れるが、そのため中間層が不在になる。苛烈さについては韓国人も理解している。





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「この世界の片隅で」を鑑賞した50代のオッサンが映画を見て考え感じたこと(ちょっとネタバレあり) [独り言]


やっと噂の「この世界の片隅で」鑑賞した。新宿ピカデリーでやっていたが満員だった。
オッサン1人で見に来ている人は私だけだったろうか?

映画を見終わり、単にいい映画だったとかどうだったかという感想を
すぐには言い起こせない様々な気持ちが心に沸き上がった。
アニメ作品的にはボクトツとした絵と情景が拡がるのだが、映画の中に描かれている全てが妙にリアルだったからだ。
コトリンゴがカバーした「悲しくてやりきれない」は故・加藤和彦氏の名曲だが、時代を経て新しい息吹を楽曲に込めており、曲の印象と映像が不思議なシンクロを演じていた。 

私は1959年(昭和34年)生まれだ。
あの映画が描く昭和8年~終戦となる昭和20年は私の約二世代前の人々の世界だ。
だからあの光景そのままを知る年代ではない。
それでもあの光景の残像とも言えるものを私は見ているのだ。

主人公のすずは恋愛を知らないままにに知らない土地の家に嫁ぎ当たり前のようにあその家で家事をすることになる。
またオシャレをしたり、人生を楽しむ事も殆どないような時代で、戦争に突入してゆく中で日本全体が倹約の嵐を強要される。
あの時代はそれが当然の行為だったし、周囲もそうだった。その世代は私の父親、母親の世代なのだ。

映画描くあの質素な生活感やご近所との付き合い、大らかな生活態度の一部は、私が田舎で過ごした幼少期~小学校の時代にそこここに残っていた風景だ。
私は市営団地住まいだったが、周囲の同世代の母親連中が長屋のように共同で育ててくれていたような環境だった。
母親の誰かが何らかの都合で出かけたりすると子供を預けあったり、面倒見てくれたりしてくれた。
今のような育児ノイローゼなんて皆無と言って良い環境だった。
道路は舗装されていないところだらけだったし、牛車が道を進み、道には牛の糞がそこここに落ちていて、
それでも誰も文句を言わないような時代だった。
(今のように犬の糞でもキチンと片づけるのが当たり前の時代からすると凄い適当だったんだよね)

風呂敷を背負った人もたくさん見かけたし(大抵は物売りのお婆さんだった)、電話は呼び出し、
流石にモンペを履いている人はいなかったが、私の祖母は、家で必ず着物を着て家事をしていた。
ネットも携帯もありゃしない。テレビだって白黒が主流。
私の田舎のテレビ視聴環境は、NHK2チャンネルと民放1チャンネルだけだった。
電車の座席は木製で硬く、車内でタバコはOKだった(灰皿があった時代だった)し、エアコンはなく扇風機だけ。何もかもギコちなく、発展途上だった。

映画の中で終戦を告げる玉音放送に聞き入っている人たちが反応をする場面が出てくるが、
その昔、母親に当時の様子を聞いた時の話によく似た光景だったのは驚きだった。
一般民衆は心の中で戦争を疎ましく思っていたのだ。
そういう意味で戦中の日本は今の北朝鮮に似ていたとも言える。

振り返って2017年。現代の我々はモノに必要以上に溢れた便利な生活を当たり前のように生きている。
映画の最後が描かれる素朴で質素な世界観に心がジーンとするのは何故なのだろうか?
物質的には貧しくても、あの時代の日本人の心はもっと豊かだったと思ってしまうからではないのだろうか?

しかしそれは現代において、無いものネダリなのかもしれない。
でも妙にあの映画が描く素朴な世界が眩しく見えた。
最近の若者には我々の世代よりも物欲が無くなっているというが、モノに溢れた現代に違和感があるのかもしれない。
足るを知る。 
映画館を出た私の心にずっと残っていたのはそういう感覚だった。





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「滅私奉公」と長時間労働の狭間にある問題 [独り言]


電通新入社員の自殺で勃発した労働環境問題。
そこに新らたな一石を投じたいのは他でもないエイベックス社の松浦社長。
彼の主張のポイント
は以下だ。

「好きで仕事をやっている人に対しての労働時間だけの抑制は絶対に望まない。
好きで仕事をやっている人は仕事と遊びの境目なんてない。
僕らの業界はそういう人の「夢中」から世の中を感動させるものが生まれる。
それを否定して欲しくない。」

かつて音楽業界に居た身として、松浦氏の上記の主張は感覚的に理解できなくもない。
実際私自身がそういうタイプだったからだ。
音楽業界、芸能界には、「仕事と遊びの境目なんてない」と考えて仕事をしている人が実に多い。
好きだからのめり込むし、成果も大きい場合もある。

GLAYのTERUさんは「労基法のままならコンサートできるはずもなく...」というコメントを残したようだ。
更に彼は、
「全くその通りだと思います。レコーディングやコンサート事業もそうですが、基準以内での運営は皆無。」
「仕事の内容によって適応する制度になれば良いんですが、そうなると線引きが難しい。
今は大手企業が槍玉にがげられてますが、僕らの会社も労働基準法のまま仕事をするとなると
コンサートなんてできるはずもなく…。難しい問題ですね。」(原文ママ))

私も業界人だったので、上記の意見を聞いて、そういう考え方をするのは無理もない事だと思っている。
しかし、それでも彼らの意見を読んで、自分の中にボンヤリとした違和感があった。
その違和感を探ってみると結論は1つだけなのだ。

音楽業界にしろ、芸能界や映像業界、CM業界にしろ、こうした業界で長時間労働を強いられている殆どの労働者たちは、「一般企業で支払われるような適切な対価をもらっていない人間が圧倒的に多い」という現実だ。
実労働に見合わない対価でも働くのがOKという人がいるは事実だ。アニメーターなんかが最たる例だろう。
でも多くは実労働に合わせて欲しいと願っている。
従って言い方を変えるとこれらの業界は良くも悪くも「滅私奉公」によって成立している業界なのだ。

もっと砕いて言えば下働きのような階層のスタッフは代わりは幾らでもいる・・という立場で低賃金と負荷の高い労働を強いられ、結果的に雇用主の「コスト調整」と「搾取的な環境でに労働」をされていると言っていいだろう。

前述のGLAYのTERUさんが言うように、労基法のままならコンサートできるはずもなく...というのは、
労基法のままスタッフに賃金を払ったらコンサートが経済的に成り立たなくなるという事を示唆している。
またレコーディングのような長時間に及び作業に立ち会っているスタッフの多くは、本来もらえるべき残業代なんてもらっている人は皆無と言っていいだろう。 

何故か? スタッフに正規賃金を支払う事が難しいからなのか?

それは違う。

「誰か」が確実な利益を確保しているからだ。
もしくは確実な利益を確保しようとしているからに他ならない。

「誰か」とは誰だろう?

事務所か? 演者か? その両方か?

それでもこの議論の根幹にはある前提がある。

コンサートにしろエンタメ業界は、メインアクト(出演者)という存在が居なければ成立しない。
従って仕事を作ってくれるメインアクトがまず利益を確保し、そこに付随する人たちは身分を弁えるという考え方がある。

この問題は悩ましい。
ある意味では事実だからだ。
ではメインアクトはスタッフなしでコンサートを成立させられるのか?
多分、出来ないだろう。でも違う言い方をする人はいる。
スタッフは取り換えがきくと。

確かにメインアクト側がスタッフを選ぶ事が可能だ。スタッフは常に取捨選択される側にいる。だから立場が弱い。
ゼネコンの下請けが立場が弱いというのと同じで、こうしたコンサートの制作受託にいる人たちは、
基本的に事務所や出演者の意向に対して法律的な正論で交渉をすることは事実上出来ない。
従ってTERUさんにご存じないと思うが「労基法のままならコンサートできるはずもなく...」というコメントの中には、
本来こういう現実も含まれている。フロントに立つミュージシャンがスタッフの労働環境や条件を知る事は殆どないだろうし、余り関心時でもないだろうが、ハデなステージの裏側の事実はそうなっている。

私の経験を鑑みてもレコーディングにしろ、撮影現場にしろ、コンサートにしろ、収録現場にしろ、長時間労働が常態化する現場が多い。50歳過ぎて未だに徹夜って人も沢山いると聞く。
また、ある種そういう特殊な環境を誇りに感じて生きている人たちもいる。
”我々はそこら辺りの普通のホワイトカラーのような人種じゃないんだ”というような「妙」な誇りだ。
しかし時代は変わり、特殊業界だからなんでも許されるような感じになっていることを理解する必要がある。
電通で新人さんの女性が死んだのはそういう環境が彼女に寄り添わなかったからだろう。
結果的に人が死に、電通は叩かれ、22時消灯を余儀なくされ、そのツケは現場に押し寄せている。
エイベックスが残業代支払いを決定したという報道があったが、時代的要請で上場会社として自分たちを特殊だという良い訳が通用しなくなったからだろう。

実際、何よりも誰よりも長時間労働しているのは、実は平場で頑張っている現場スタッフたちなのだ。音楽業界だとミュージシャンも同様だ。
しかしミュージシャンと現場スタッフたちとは労働条件や見返りが異なる。
私がかつて経験した現場でのレコーディングでは、その成果の殆どはミュージシャンや事務所に帰属し、スタッフには還元されない。しかしそれは業務性質上致し方がない。
でもそうであれば当然待遇や労働条件があってもおかしくないだろう。
前述したが、音楽業界や映像業界などで現場仕事をする連中の給与待遇は殆どの場合、一般的な企業の60%から70%止まりだ。

私などは、音楽業界に入った初期、アルバイトのような身分だったから、当時の社会人初任給の年収の45%程度だったし、その後職場環境が変わり社員に昇格したが、それでも世間平均の60%程度だった。(おまけに福利厚生なし・・)
(その程度の仕事しかできないという評価もあったかもしれないが・・・)
それでも好きな仕事だったから気にしないようにしていたのも事実だ。

それ故、私は色々な現場のスタッフ経験をしてきたから断言できるが、エンタメ業界の平場のスタッフは恐ろしいほど低賃金の人たちが多く存在する。
仮に私の知り合いが今、音楽業界、芸能界で働きたいと言ったら必死に止めるだろう。
人生をバクチに投じる必要はないと。(反面バクチっぽいから魅力があるのだがね・・・)

賃金的に言えば例外はレコード会社の連中くらいだったろう。
彼らの殆どは親会社が大手上場企業であり、その子会社でもあるため、賃金体系が全く違う。
現代でもレコード業界の**社は、業績に似つつかわしくないかなり良い給料をもらっているようだ。

当時の私は、好きな仕事としてやっていたので、低賃金でも我慢出来ていた。
また、いつか上に伸し上がってリッチになるんだ!というような感覚もあった。
競争の激しい音楽業界、芸能界だからそれが当然という空気はある。
しかし、競争が激しいのは別に音楽業界、芸能界に限らない。
それでも勝利を掴むために頑張るのは個人の自由だ。

私は40代になって音楽業界の外で働きながらかのエンタメ業界を見てきたので、いわゆる一般的な企業の雇用環境と比較できるが、音楽業界、芸能界は明らかにスタッフ労働者の人件費を他の業態に比べて低く抑えて成り立っていると理解できた。

芸能事務所等で一般の企業並みの給与と待遇を得ようとしたら大手芸能事務所でも役職を得ないと難しい位と言っていい。つまり、対価を刈り取るためには、ある一定レベルの地位に登りつめないとそれを得られない世界なのだ。
現場の下働きのようなレベルにいると、かなり良くても一般企業の5~7割程度だ。
(この業界の個人事務所となるともっと低い)
 
一部上場企業だと、業態にもよるが、40代前半で年収平均600~800万円程度だ。少なくともこのレベルを音楽、芸能業界で得ようとすると相当な地位か成果のある人間ということになる。 (大多数の中小企業の平均はこれの65%程度・・)

前述したが、音楽業界、芸能界はある種の「滅私奉公」に支えられている業界だ。
法律を逸脱した長時間労働を経営者が容認せよというのは積極的に「滅私奉公」を容認せよというのに等しい。それはつまり前近代的労働環境で我慢せいということだ。

さて「滅私奉公」をした労働者にはどんなメリットがあるのか?

僅かな確率の成功を得た人達には大きなメリットがあるだろう。
ただ大多数にとっては、価値観の問題は置いておくとして、殆ど無いと思う。
それどころが、自分が本来生み出す事が出来る対価(労働価値)をドブに捨ててしまっていると言って良い。
私もかつて好きで音楽業界で生きてきた。
低賃金でも構わなかった。
ただ、私のような特に取り得のない普通の人間が競争の激しい業界で生き抜こうとして、僅かな成果しか生まず、人生のかじ取りを誤ると、中年期以降、特に経済影響を被ることは確かだ。そういう意味で、私は成功者とは言えない。
実際私は、音楽業界時代に収入に問題もあり年金を積み立てて来なかったため、今になって苦労しているし、生涯賃金にしたって、40歳以降に転職した先でやっと人並みになったという感じだ。


私は松浦社長の主張する「好きで仕事をやっている人は仕事と遊びの境目なんてない。」という主張は理解できる。
僕らの業界はそういう人の「夢中」から世の中を感動させるものが生まれるし、それを否定して欲しくない。」という主張はある意味で、その通りだと思っている。

しかし、それを会社組織として従業員に対して共有するはちょっと筋が違う話だと思っている。特に上場企業においては。
そもそも「好きで仕事をやっている人は仕事と遊びの境目なんてない」は「個人が引き取る問題」だ。
職場が共有する話ではないだろう。
経営者が従業員に対して「好き」を理由に長時間労働を強いるのなら、いずれにしても法律の適用範囲でやらねばならない。
業界が特殊だから例外を認めろというのは法治国家としても経営者の考え方としてもそぐわない。
それでは会社や業態として成り立たないというのなら、法人としてやるのは無理なので、全員個人事業者として働く業界に生まれ変わるしかなかろう。
いいとこ取りをして自分たちの業界にあった経営を成立させるというのは、社会規範を超えている考え方だと言われても仕方なかろう。

私の覚える違和感は、そういう部分なのだ。


長時間労働も必要なのか avex松浦社長「労基法批判」で大論争 
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161225-00000005-jct-soci

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たばこに関する議論 [独り言]

たばこに関する議論

NHKのクローズアップ現代でもやっていたが、
オリンピックに向けての日本の喫煙規制が現実味を帯びている。
愛煙家には腹立たしいだろうが、規制に大賛成である。

喫煙を嗜好と片づける方々がいるが、公共の空間に継続的に他人を巻き込んだ負荷をかける嗜好というのは余り例がない。

酒も酔っ払いという負荷はあるが、避けることが可能だ。喫煙で排出される煙はそれができない。
また酔っ払いで当方が健康被害を受ける事はないが、受動喫煙の健康被害は立証されている。
受動喫煙が原因のガンで年間13,000名が死んでいるというのも本当か?と思うほどだ。

飲食店に入るとランチ時でも禁煙しない店が多く、また一緒に行く人が喫煙者という場合もある。

正直に言うと公共空間での喫煙は非常に迷惑だ。
服や体につく匂い、受動喫煙の被害など、電子たばこにしても同じ場所に居たくない。
たばこを吸う人たちは吸わない人たちへの配慮がないのだろうか?と思うほどだ。
だからどうしても喫煙する人がいる場所が避けられない場合は、マスクをして、自分で洗える服で行くことにしている。

喫煙規制は世界レベルで徹底的にやってほしい。
100歩譲っての提案は、喫煙者のみしか入れない飲み屋とか作って
その飲み屋は完全に密封し、空気も共有しないようなスペース、
もしくは排出する空気は完全清浄した後という感じなら良いだろう。

以前、たばこを吸う人と同居していた時期があったが、部屋中がタールで
黄色になってしまった。おまけに掃除しても取れない。

音楽業界にいた時、ミュージシャンやクリエイターがスタジオや会議室で
タバコを吸うのを拒否できない環境は本当に嫌であった。

若い頃だったので気にしないようにしていたが、もうおっさんなので
自分の体の未来を考えても、そういう人たちとは仕事をしたくならない。
タバコ臭い楽屋や会議室も行きたくならない。

最近、女性の喫煙者は珍しくないが、子供を産みたいのなら喫煙すべきでないだろう。
医学的に見てもこの主張は根拠がある。
たばこ臭い女も好きじゃないし。
子供を産んだ人(旦那さんも含む)が子供のいる部屋で
タバコを吸うなんてある種の虐待じゃないかと思うほどだ。

そういう意味でスタバはいい。
ドトールのコーヒーは好きだが、分煙が怪しい。

吸うなとは言わない。吸うなら自宅か、決められた環境下だけにしてほしい。

ただ、小規模店舗の対応が、生活そのものを脅かすという部分は慎重な対応を要するだろう。
それでも時代はもう喫煙者と非喫煙者を混在させた生活を許さないと点において対応せざるを得ないだろう。 
 
 
 受動喫煙防止の波紋 小規模飲食店には厳しい条件 「店つぶれる」反対意見相次ぐ

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年金に頼れない世代が下層老人にならないための30歳からの考え方 [独り言]

 
年金に頼れない世代が下層老人にならないための30歳からの考え方としての結論。
それは、今の10~30代の若い層は、「生涯年収」が死ぬまでの全ての可処分所得になる時代への準備をしないと大変ってことだ。 年金だけに頼れない時代はそういう事を意味している。
 
私は1959年生まれだ。
約40歳まで好きな仕事が出来てればいいやって感じで生きてきた。
23歳から41歳まで過ごした音楽業界は私には心地の良い世界だった。
しかしミュージシャンにしてもスタッフにしてもかなり実力と収入が比例する世界だったので、
実力不足の私のこの間の総収入は年齢平均ギリギリか若干下回っていたと思う。
収入が不安定な時期もあったので、常に短期的視点でしか人生設計を捉えることが出来なかった。
年金も未納時期が多く、受給資格を得るのは事実上困難な感じになってしまっていた。

41歳で音楽業界を辞め、運よく、とある一部上場企業に転職した私は、
それまでよりも若干収入が増えたこととや、相対的に音楽業界よりは労働時間が少なかったため
自分の将来について落ち着いて考えられるようになった。

ある日、私は自分が仮に80歳まで生きたと仮定して、同じ水準の生活をした場合、
一体幾ら必要になるのかエクセルを使って単純計算してみた。
まあ、計算するまでもないのだが、41歳時の年間支出を80歳まで続けると仮定し、
なおかつ、60歳で退職したと仮定しても数千万円以上必要であることを認識したのだ。
とても41歳時の年間支出なんて80歳の段階では不可能なのだ。

私は自分の老後設計について、初めて現実を知ったのはこの時だった。
背筋が寒くなった・・。

私はその当時、年金未納期間が多くあったために、受給資格はゼロだ。
(その後法改正で10年以上の支払いで受給資格を得られるようになったので月に数万円はもらえそうだが・・)
従って定年後までに、一定程度貯蓄をして、切り崩す形に持ち込むか、現役で同程度の収入を得られる仕事をしているかの2つの選択肢しかないということが分かった。現役で同程度の収入を得られる仕事をしているかについては相当ハードルが高そうだ。
また、引退後は、41歳時点の生活の70%程度もしくはそれ以下になりそうだということも分かった。
最も困りそうなのが住む場所の確保だが、音楽業界時代の低収入がアダになって手持ちの貯蓄が圧倒的に足りないということが問題だった。

普通のサラリーマンで1960年以前に生まれた人たちは、年金受給者になると1人当りだいたい17万円程度の年金を受給できる。夫婦で月額25万円程度だ。
余程の例外でもない限り、殆どの人たちは日常の生活はこの金額内に収めることになる。
貯金があれば、日常以外の支出に回す事が可能だ。
そしてこういうちゃんとした人たちはだいたい持ち家がある。
だから贅沢さえしなければ割合と普通に暮らす事が可能だろう。

私の場合、これに全く当てはまらない。
多分今の若者も私のような感じになるだろう。
私の場合、殆ど年金に頼れないため、生涯年収の中でやりくりするしかないという事だ。
しかし、生涯年収で老後まで生活を維持するのは相当大変なのだ。
現代において国民の平均的年収は480万円だ。35年働いても総額約1.7億円。手取り1.2億円。これで平均寿命まで食つなぐというのが日本国民の平均的人生設計だ。

そこで私は41歳から60歳以降の生活レベルを想定しながら、生活レベルをできるだけ抑え気味にし、
かといって貧乏臭くならず、そして貯蓄を徹底することにした。
40代~50代前半って、ある意味サラリーマンのキャリアの完成時期で、
支出的に自分の買いたいモノを買える年齢である。
私の友人は、独身貴族なんだから高級車を買ったり良いもの食べたりすりゃいいじゃん、などと
けし掛けたのだが、私は元来買い物が好きでもないし、欲しいものもカメラ位と、
あとはコンサートに行く位だったので、支出的には30代前半のままを維持できた。

そして私が家計簿をつけ始めたのはこの時期だ。
自分の収入と支出を自分に沁み込ませるためだ。

そしてそれから16年が経過した。

60歳で定年したとして、私が安心して平均余命まで生きるには、どうやら最低でも65歳、出来れば古希近くまで何らかの仕事をしていないとならないようだ。
それで定年直後に露頭に迷う事だけは何とか避けられそうだが、年金だけでは全く生活できないし、
貯金の切り崩しは必ず預金残高の終了日が来てしまうため、やはり退職後の自分の労働場所にも配慮して
生きて行かねばならないのだ。

私の古巣の元音楽業界人には大金持ちと貧乏人しかいないようだ。
嘗ての私と同じように好きな仕事だから辞められないという考えで
キャリア設計を上手く組み立てられなかった人たちは総じて貧乏人になっており、特に老後の生活設計が悩みの種なのだ。

特に40歳を過ぎてからの転職は、人生のその後を決定してしまうため、相当な覚悟でやった方が良いです。
私は幸運にも一部上場会社に潜り込み、比較的恵まれた職場環境で過ごす事が出来たので、
社会人前半の収入ロスの一部を取り戻す事が出来たが、
それでも社会人前半の収入ロスの影響は大きく、
古希まで働かないといけないような現実を突き付けられているのです。

困ったのは何歳まで生きるかが不明なのと、いつまで健康でいられるのが何年かが判明しない点です。

現代を若者として生きる皆さんに言いたいのは、人生はある程度自分の意思で設計を必要とするという現実だ。
官僚連中が国の金を横取りして天下り先を作って結構な年齢になっても働ける労働場所を確保しているが、
頭のいい奴ってのはそういう事まで良く知っているんだなと分かる。

そういう意味でも年金だけでは暮らせない時代の方々は生涯年収が全てになってしまうため、
早めに対策を打っておいた方が良いというのが本文の趣旨であります。
私はギリギリでしたがね・・・・。









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ドキュメンタリー映画『Demain(明日)』を見よう!(と思っている) [独り言]

フランスで話題のドキュメンタリー映画『Demain(明日)』が日本で公開されるようだ。
メラニー・ローランさん(女性)とシリル・ディオンさん(男性)という
共に30代の二人の映画監督による作品らしい。
TBSラジオの森本毅郎氏の番組で紹介されていたが、映画製作のきっかけはローランさんが妊娠している時、
2100年には人類のほとんどが滅亡する、という研究結果を知ったことであったという。
子供達の世代は、水やエネルギーに乏しい環境に暮らす可能性がある事実に戦慄したようだ。

そうなんです。私、独身で子供がいないのですが、子供を作る気持ちに全くなれなかったのは、
未来の状況が人類にとってかなりの困難が予想され、そこに自分の子孫を残す事をためらったからでした。
(それでも未来の人類が皆で問題を乗り越えられるかもしれないという希望は捨ててないのだが・・)

今の若い人たちの中からこうした恐れを抱く人たちが出て来るのは自然な事でしょう。


映画『Demain(明日)』はこれを書いている時点では見ていないので、映画へのコメントはできないが、
未来永劫人類が生きてゆくために、絶対条件は既にハッキリしていると思っております。

「地球環境に出来るだけ負荷をかけず人類の生活を営む」ということです。

しかし、上記の一行を実行するのは難しい。

でもそれを行わないと未来の人類は果てしない苦難の道を辿ると思っております。

悪貨は良貨を駆逐するではありませんが、人類の一部がこの思想と外れて勝手気ままな生活を営めば、
残念ながら未来の人類は果てしない苦難の道を辿るでしょう。
つまり、上記テーマは世界が一丸となってやらなければ解決できないのです。


私個人の感覚ですが、既に人間社会は必要以上に便利です。
経済や効率の観点とは真逆な発想ですが、持続可能な社会維持のためには
実は不便にした方がいいと思ってます。
またインフラ整備の環境も居住地の集約化等で整理統合しないと持続した社会を維持するのは
困難でしょう。

現代は必要以上にモノにあふれております。
食料にしても水にしても財にしても人間が一生を送るには過剰なほどのモノに囲まれております。
これは人間の欲との闘いなのでしょうが、冷静に考えればこれほど多くのモノは不要でしょう。

また、我々は処理できない以上の情報に囲まれております。
ネット社会の利点はよく理解しておりますが、
情報を得るためにかかっている負荷について考えるべきでしょう。

昨今シェアービジネスが活況を呈してきておりますが、私的使用を整理し、
公共利用で賄えるシステムを構築すべき時代が普通にならざるを得ません。
そうなると経済的な影響を無視できませんが、地球が維持できる人口のサイズに限度がある訳ですから、
経済が永遠と伸びると考えるのはむしろ変で、どこかにある均衡点でケリを付ける必要があります。

現在の人類はリサイクル不能なものによって命脈を保っております。
原子力発電はその最たるものですが、明らかに自然の成り行きと逆行するものに
依存し過ぎており、経済を維持するために離脱することが難しい状況です。

私の言っていることは現状では夢想に近いかもしれません。
しかし映画『Demain(明日)』のメッセージは私の言及していることに近いでしょうし、
正しいビジョンだと思っております。

人類が瀬戸際に追い込まれる前に実行できれば未来はあると思いますが、
それは未来を生きる現代の若い人たちに託されており、
我々の時代の人間がその先鞭をつけるべきと思っております。









NHKスペシャルは宮崎駿氏の新作長編ドラマへの壮大な予告編のような番組だった(?) [独り言]

11/13のNHKスペシャルは宮崎駿氏の新作長編ドラマへの壮大な予告編のような番組だった。
現在75歳の宮崎氏が己の性ともいえる作品作りの情熱と自分自身の寿命と戦っている様子がよく伺えた。
しかし私がこの番組を見ていて感じたのはトップクリエイターの残酷(非情)と純粋さなのだ。

短編作品をCGで制作するという宮崎氏にとって初挑戦において、ご自身も理解できないような「腑に落ちない」
何かに悩まされる。当初、CGクリエイターたちはある程度の時間でできるだろうと思っていたようだが、
いざ作り始めてみると宮崎氏からの想像を超えた要求に対応できなくなってしまう。
また、その理由が宮崎氏以外に分からず、本人でさえも明確に分からないという時間が経過してしまう。
本人すら回答のないものへの要求にCGクリエイターたちは追い込まれる。
CGクリエイターたちもクリエイター集団の一角を担っているが、存在も経歴も上の宮崎氏からの要求は
相当な重荷だった様子が伺える。
しかし作品の質が担保されなければお客さんに応える事が出来ないという宮崎氏の純粋な信念は揺るがない。
そしてその質の担保は宮崎氏が納得するか否かが全てという非常に個人的な世界観なのだ。

こうした作品成立過程を見ていると、トップクリエイターは成果に対して冷徹で残酷だ。
それはあたかもグローバルトップ企業の経営者が利益を希求・追求するためには、
理由の如何を問わないような部分と重なる感じがする。
作品を作る事と利益を上げることは性質が違うため比較するのが不適当かもしれない。
言い方を変えると目的達成のためには必要な犠牲を厭わないという姿勢だ。
作品の場合、その冷徹さが偉大な結果を生むとも言えるのだが、
実際、それら作品は宮崎氏が全てを作る訳ではない。
映画の場合に限らず、多くの手が関わっているからだ。それでも宮崎氏の存在とビジョンは圧倒的だ。

番組でも紹介されていたが、宮崎氏の作品が生まれる過程で関わった多くのアニメーターは現在ジブリにいない。
作品のヒットの金銭的・社会的恩恵は生みの親である宮崎氏と法人であるジブリに帰るだけで
その周辺で仕事をしていた多くの人達ではない。
それがこの業界の掟である。(世の中はそんなものだという言い方もあるが・・)
こうした現実は否定しないが、残酷な現実であることも事実だ。
映画は多くの人間が関わり1つの作品を作る。そしてその制作形態は「中央集権型」だ。
ジブリ作品の場合、ヒエラルキーの頂点にいるのはプロデューサーの鈴木氏であり、宮崎氏だ。

番組の終盤、長編作品の覚書なるものをプロデューサーの鈴木氏に見せる場面があった。
宮崎氏は「鈴木さんが資金を調達してきてくれたら出来そうだけど・・・」と言いつつ、
3年半後の公開予定を見据えた予定表を見せる。
そしてその表の最後には「80(歳)、果てして生きているか?」の文字が見えた。
宮崎氏のような特異なクリエイターは代わりが居ない。自分の余命を意識し始めたクリエイターの心中は計り知れない。

この覚書を読んだ鈴木さんの心の奥底は想像するしかないが、宮崎氏に長編を作るだけの体力と時間が
あるだろうか?という懸念と、宮崎氏が満足できるような作品を作る体制が構築できるか?だろうかという懸念が
頭の中に浮かんだ事だろう。
2016年10月、色彩設計を長年務めていた保田氏が亡くなった。
それだけでも体制構築にはかなりの損失だ。
鈴木氏が冗談めかして言っていたが、絵コンテの段階で死んでしまったら誰がその先を作れるのか?
宮崎氏を一番好きで理解しているだろう鈴木氏にとってこの覚書は悩ましいだろうと想像する。

この番組で非常に印象的な場面があった。
ドワンドの川上さんが持ち込んだAIを使った自動生成のアニメーションソフトだ。
画面には頭を使って動く気持ち悪い人間が映し出される。
それを見た宮崎氏が自身の知り合いである障害者との関係性を引き合いに出し、「これを作る人たちは痛みとかそういうものについて、何も考えないでやっているでしょう。極めて不愉快ですよね。そんなに気持ち悪いものをやりたいなら、勝手にやっていればいいだけで、僕はこれを自分たちの仕事とつなげたいとは全然思いません。極めて何か、生命に対する侮辱を感じます。」 と発言する。
そして「どこにたどり着きたいんですか?」と問う。
これを聞いたドワンゴ関係者は言葉を失ってしまう。
なんでもかんでも自由な発想ができ作れる時代に根源的な問い質しをされたからだろう。

宮崎駿監督、ドワンゴ川上量生会長を一喝「生命に対する侮辱の記事:http://www.huffingtonpost.jp/2016/11/13/miyazaki-hayao-dwango_n_12950618.html?ncid=fcbklnkjphpmg00000001

クリエイターに限らず世を貫く成果を上げる人たちには非情で冷徹な素養がある。
しかし上記の宮崎氏の考え方を知ると生命を描く事に対して、その位でないと描けないんだという気持ちが伝わってくる。
私はそうした素養も気概もないため、どうしても様々な場面で手加減してしまう。
そのため成果も中途半端だ。
仕事の成果に対して信念を持って非情で冷徹で成果を出せる人を羨ましく思う反面、もう自分にはそこまでせめぎ合う人たちとはエネルギー負けするな・・と感じている。
そういう意味で、今後は偉大なクリエイターたちの作品を純粋に楽しむ立場でいようと思う。

オリンピックまでに次の宮崎作品が見れるだろうか?



定年後がリアル  50代でこんな事を考えるのは早すぎるだろうかね??っていう記事 [独り言]

2016年11月8日(火)記載

ここ数カ月、気力の衰えに悩まされている。(相撲取か・・・)
新しいビジネスや仕事へのアドレナリンもなかなか出ない。
 
かつての私なら未知であればあるほど興味を抱くはずの新規ビジネスへの挑戦だが
若い頃のような「無邪気」なパワーが出てこない。答えを知っているからだろうか?
単純に若い頃のような「無邪気なアドレナリン」が出ないのだ。
皆さんもそういうものなのか?
 
先日吉田拓郎さんのインタビューを見ていたら、生活感や人生感が50歳を過ぎて圧倒的に変化したと言っていた。
そうか、そういうものなのかもしれない。でも彼は天才だからな・・。 同じはずもないか・・。

年齢を重ね、経験を積み、情勢分析をし、冷静になって考えられるようになったとも言えるのだが、
「夢に向かって・・・」的な野放図でお花畑的な事を言っていられないという感覚の方が勝ってしまっているようだ。それでも夢に・・とか言える人がうらやましい。

かつては音楽業界に憧れ刺激的だったのが、今現在は、音楽ビジネスには殆ど興味が湧かない。音楽はずっと好きで今でも音楽を楽しむためのライブは過去に行った以上に見に行くが、音楽ビジネスには昔のような興味が湧かない。 
まあ、斜陽になった事もあるのだろうが、音楽というメディアが失った影響力もあるかもしれない。

そういう意味で、私の年齢はある種の「安定期」もしくは「更年期」なのかもしれない。また「鬱」なのかもしれない。もしくは「悟り」なのか?
 
そういえば、ネット記事で読んだのだが、武田鉄矢氏やビートたけし氏が40代から鬱になったとあった。
ロックスターのSTINGも50歳から12年間曲が書けなくて悩んだ事をライブでコメントしていた。
彼らのような才能のある人達がスランプや鬱になったのは、その年齢で自分の考えられる夢の実現を
早くも果たしてしまった事が大きかったと分析しているようだった。

自分を奮い立たせる目標を失ったということだろう。

私は彼らとは違いただの凡人だ。

それでもここ最近の自分の思考回路を探ってみると
自分の中で新しい達成目標の設定に迷っていることが分かる。
また現実に「自分の器」というものを突き付けられてもいる。

若い頃に夢見て来た事の半分位は何となく叶い、半分は能力不足で諦めたが、
我を知り、己を理解するに従い、残りの人生でどんなサプライズがあるのだろうか?と
見極めてしまっている自分があるのは確かだ。
敬愛する山下達郎さんも、自分の元に海外公演とか海外ミュージシャンとのコラボなどの話が沢山舞い込むが、全く興味がない、自分の身の丈を考えれば、国内での活動に絞るのが筋、と語っておられたが、「身の丈」という言葉に私は反応した。

そう、自分の身の丈だ。もう身の丈が分かってしまったという悟り感はある。それにもがいているのかもしれない。
現在ではフロントラインではなく、会社の立場も若い連中を指導するような感じになりつつある。
守りに入ったとは考えたくないのだが、周囲が私に要求する立ち位置、そういう冷めた自分がどこかに存在しているようでもある。

もちろん残りの人生で色々な事が起きるだろう。
60過ぎて新しい事を起こした人も多い。
伊能忠敬なんて全国行脚を目的として地図作りに励んだのは、当時の定年後の年齢だった。
でも、そういう人たちは実は極僅かだという事実もある。
五木寛之氏の「下山のすすめ」には人生の終盤に向う心構えが書いてあった。
抗なうのではなく、受け入れろ・・と。
 
 
タモリさんも友達に関してこんな事を言っていたようだ。 
 
そうなんだよね。友達に関するその考え方、凄くピンとくる。
友達って言える人間関係を持っている人って、良く考えると数人しかいないんだよね。
フェイスブックにもの凄い数の友達抱えていたり、何となく仲間という感じの人が何十人も写真と共に写っている人を見かけるのだが、私にはとても何十人の知り合いを相手にする体力も財力もない。
友人という人たちが全員死んで自分が生き残ったら彼ら全員の葬式に行くのだろうか?
多分無理だと思う。そういう意味で、自分の付き合い切れる人間の数ってそれぞれにあるのだろう。
 
美輪明宏さんが「人間関係は腹6分目がいいの」と語っておられた。
私も同感だ。 美輪さんは芸能人だから腹6分目ってのは相当難しいと思うが、美輪さんがそれを言うから凄い。
でも、それがいいんだよね。自分がそれで良いと思っているのなら。それが自然なんだ。
 
人の事はともかく、自分の人生を今後どのように過ごし、そして終わらせるかは
誰にとっても大きな課題だろう。
そしてそれは全ての人に平等にやってくる。
 
この間8歳年上の兄とも話たのだが、これからは、社会への貢献も当然だが、何十年か後には死にゆくだろう自分に優しくしながらという前提が必要だという結論になった。自分と社会貢献の適切な距離というのだろうか?

動けるうちは働き社会貢献をし、それが難しくなったら出来る範囲に縮小するってことだ。 

最近問題を起こす高齢者の記事を読むにつけて、
自分があんな風になったら嫌だな・・とか思う。
またアルツハイマーで自分が誰だか分からなくなるという状況になるのも避けたい。

自分の資産状況も分かっているので、経済的な未来もある程度予測が立ってしまっている。
余程の奇跡でもないとこの事態を変えられないが奇跡は基本的に起こらないと知っている。 
自分の将来の財政状況が、決して楽観できないことも事実だ。
そう考えてみれば、若い頃のように無邪気でいられるはずもないのだろう。

知り合いの会社でアルバイトを募集したら62歳で東大出の元雑誌の副編集長が応募に来たという。理由を尋ねると定年後仕事から離れたらやる事がなく、毎日が苦しい、金の問題ではなく何でもいいから出来る仕事がしたいという事だった。皆さん、東大出の人ですよ・・・。偏差値の遥かに低い私はそうすればいいのか?と思ったね。

それでも、一体自分は何をしているのが好きで、何をしたかったのか? あたらめて自問しようと思う。
小さい時代からずっとやっているいるのは、音楽と写真だけか・・・。それと最近は読書。
結局そこが私の原点なんだろう。

現在、夢があるとすれば、世界の主要な美術館を巡る旅に出る事だろうか?
私は美術についての教育を受けた事もないのだが、不思議と昔から美術展に通っていた。
私自身は絵心が全くないのだが、祖父は素晴らしい絵を書ける人物だった。
だから絵を描ける人に憧れがあるのだろう。多分私の父もそういう面があったから多少は似ているのだろう。

何をやれるかはともかく、今後は出来れば死ぬ直前まで自分のペースにあった仕事をやりながら逝きたい。本当は生活のためだけの仕事をしたくないのだが、残念ながらそれはちょっと無理そうだ。

50代でそんな事を考えるのは早すぎるだろうかね??
それとも、もしかしたらやっと人並みになったのかな?





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何故私は大好きだった音楽業界に絶望を憶えるのか? [独り言]

何故私は大好きだった音楽業界に絶望を憶えるのか?

私の心の奥底では今でも音楽の魔法を信じている。だからタイトルとは反対の気持ちが今でも大きいのだろうと思っている。
小中高時代に音楽がかけてくれた魔法の記憶と体感はかけがえのないものだ。
私の時代を彩ってくれた音楽は、今でも私の心の宝物だ。
私の一世代上の団塊の世代に生まれた超優秀なミュージシャンたちのお蔭もあり
私は恵まれたポピュラー&ロック音楽の進化過程を体感できた。
加えて78回転アナログ盤→LP&EPアナログ盤→CD→配信、またアナログ録音→デジタル録音という
技術的変遷も同時に体感し、絶え間ない変化と革新の過程にあった大衆音楽は、まさに時代を作った「メディア」そのものだった。

だから社会人になり、音楽に関わる仕事がしたくて音楽業界に潜り込んだ。
約19年、その場所にいた。そして一度その場所を離れた。
それから約14年を経て、まだ音楽業界に戻ってきた。

随分と景色が変わってしまった。

残念ではあるが、音楽業界にはかつてのような熱気や活気がなくなってしまったように思うのは、単に私が輪の中心にいないからかもしれない。
もちろん、今でもライブビジネスを中心に活気のある音楽活動やアーティストは存在する。
しかし、ネットによる情報過剰の時代と趣味嗜好が多様化の時代になり
音楽そのものが世の中を動かすパワーを相対的に削がれてしまったことは
時代の趨勢とは言え慙愧の念を禁じ得ない。
また人間がいい曲だと感じられる音の順列組み合わせはほぼ出尽くした感があり、音楽そのものに新鮮さを憶えるのは難しくなったこともある。もちろんこれに否定的な見解を示す方も多い。音楽はそんなチンケなものではないと。
だからきっと残っているのはアーティストの人間力、表現力だけだろうと思ったりもする。
しかし昨今のライブ事情を冷静に俯瞰すると、口パクライブを平気でやっていても1万円近く取って平気って感じだ。
もちろん歌は口パクだが演出、ダンスが凄いという人もいるだろう。
価値観の違いと言えばそれまでだが、だったら潔くマイクなんて邪魔臭いものを付けない方がいいだろう。
そういう意味で私は古い価値観なのかもしれない。

現代の音楽業界は、時代の波に晒されてビジネスモデルを大きく変えざるを得ない様相だ。
しかし特にレコード会社の人たちと話していると、大半の人たちがかつての栄光を忘れられないのか、あるいはまだ自分たちの過去のモデルが通用すると思っているのか、相変わらずCDを売る事にしかエネルギーを注いでいないようだ。

明らかにCDが売れない時代になってもう15年以上。

ここ最近はAKB商法なんていう言葉も出るような時代で、CDそのものよりもオマケの価値が高く、
無理矢理CDを販売している時代であるにも関わらず、レコード会社の方々はCDを売る事に熱中している。
彼らは「音楽」よりも「モノ」を売る事が使命になっているかのようだ。
私はとあるレコード会社の会議で腰を抜かす発言を聴いた。
とあるグループのCD販促でメンバーとの2ショットやハグ、握手会、サイン会を行い、その中で、ファンの一人が700万円もCDに費やしたという情報があった。
私は、レコードメーカーの人間として、そういう事実をユーザーに対して心苦しさを感じないですか?と尋ねたら、「それはユーザーが選んでいることですから関係ないですね」と返されたのだ。
その時私は、私の知っている音楽業界はとっくに終わっていたんだな、と確信した。
700万円も買わせる土壌を作ったのは一体誰なんだ?という事に何の痛みもなく、売れればいいという幼稚な経済論理を正当化する連中が今のレコードメーカーの平均的なレベルなのだろう。
そいつは50代なのにだ。いや、50代だからかもしれない。
CDを700万円も買った人間が本当の意味で幸せだったのか? 考えた事がないんだろう。
50代のそのレコードマンは、自分の居場所が確保できればそれで良いだけなのだろう。
メーカーからすれば、2ショットやハグ、握手会、サイン会で対価を得ているという論理だし、社員の給料も払えるってことだ。
レコードメーカーは、いつからタチの悪いホストクラブのオーナーのようになったのだろう?

こんな体たらくだから、最近のレコード会社には若手のスタッフが圧倒的に少ない。それも無理もないことで、Googleとフジテレビから内定をもらった若者は迷わずGoogleを選ぶ時代なのだ。若い人たちにとってレコード会社が今後30~40年、自分たちのキャリアを支え豊かにする産業とはとても見えないのは当たり前なんだろう。エイベックスですら、レコード部門はライブエンタ部門の中に包括される時代なのだ。
私はレコード制作が大好きだが、もう時代的にそれが重要な仕事でないこと位は受け止めている。
従って若手スタッフの流動性が下がる。それは古株、つまり栄光の時代を知った古手のスタッフが保守的に経営をしている組織であり、新陳代謝や新しい発想で今後のレコード会社を運営しようという体質からほど遠いということだ。
レコード会社は過去25年余り、ビジネスモデルを見直す機会が多くあった。
多くのレコード会社がそれに着手できていないのは過去が余りにも良すぎたのかもしれない。
いずれにしても社会からの役割は終わりつつある。 終わればいいとおもう。現代において、レコードを作ることや売ることはレコードメーカーの専売特許じゃないからだ。それに気が付いていないふりをして、未だに銀座や六本木のキャバクラでテレビ局などの連中を接待しているのはかなりの時代錯誤だろう。IT系企業に敵うはずもない。

私の時代、レコード会社は、時代の最先端を行っており、最も憧れていた職種の最高峰だった。
それが40年程度の間にここまでみすぼらしくなるとは、失望を通り越して絶望に近い印象だ。

エイベックスのような新興レーベルは、こうした時代の波を先読みして早期の業態転換を図っているが、
そういう彼らでもあと20年という時間を見据えると生き残れるかどうかは私にも分からない。
既に音楽部門は、ライブエンタ部門に吸収されており、会社の中での重要度は下落してしまっている。
ましてや古株のレーベルは業態転換を図ろうとする施策さえ見えてこない。
最近はレコード会社も360度ビジネスをやろうとしているが、そもそもレーベル社員にそのスキルがあるかどうかすら疑問だし、実際はM&Aでもしない限り無理だろう。
同じ業界には既存のマネージメント会社も多数あり、ビジネス上の衝突を回避できなくなれば、レコード会社の存在は増々不利に働かざるを得ない。
ソニーミュージック辺りの稼ぎ頭は、実はアニメをやっている「アニプレックス」だったりする。なんせ売上1000億円で営業利益が250億円(2016年度)にもなるのだ。アーティスト部門も頑張っているように見えるが、実態はそこにない。
残念だが、現代の音楽業界において、ロックは衰退し、ポップミュージックはアイドルかK-POP+ダンスミュージックで、覇者はアニメ関係というところだ。
昨今の音楽業界では、マネージメント会社の方が圧倒的に優位で、レコード会社の幹部が、マネージメント会社の役員に天下り出来れば最高のキャリアアップとさえ言われている。レコード会社は絶滅寸前の恐竜のような存在になろうとしているようだ。アメリカの先端を言う音楽シーンでは、ミュージシャンがレコード会社を排除するのがトレンドなのだ。
今のミュージシャンは、メーカーがなくても音楽を作る事出来、流通も出来、宣伝もネット経由で十分とも言え、ライブに至ってメーカーなど全く不要だ。現代の音楽業界において、レコード会社の役割は無きに等しいというのが事実なのだ。

とあるレコード会社の人からは、「今でも音楽業界の中心はレコード会社なんです!」と聞いたことがある。
まるで敗戦真近の日本軍のような連中だな・・と思った。
本当にそうであるなら、現代の多様性が全くない年間オリコンチャートは彼らの意思表明なのだろう。

昨今はヒットチャートに関係のないところで有力な活動をしているミュージシャンが多い。
一般的には無名だがツイキャスでは大人気のミュージシャンが両国国技館を満員にしてさえいる時代になったのだ。
また、オリコンには全く登場しないバンドでも1万人規模の集客をするような連中だっている。

彼らの名前を教えられても私には全く分からない。しかしこの集客力は凄い。そして、これが事実なのだ。

昔のようにテレビ、雑誌で全国区的な名声を得て影響力を作る時代は終わったようだ。
一般的には無名でもニッチなファンに深く突き刺さるミュージシャンが時代を作っているともいえる。
現代的なサブカルとも言える世界で生息するミュージシャンたちが、メジャーを超え始め違う音楽進化を遂げ始めている。 

そういう意味では、私も保守的な古株なのだろう。
私の時代もそうだったが、新しい文化は若い世代が作り出すものなのだ。

もうオジサンの出る幕はない。

私が戸惑っているのは、それを目の前で見せつけられ、自分の方程式では解を得られなくなっているからだろう。
また同じような古株連中が、若い連中に負けないぞ・・!と息巻いて解を持つ力もないのに頑張っているからかもしれない。
スティングやオールマンブラザースを知らなくたってどうってことのない時代の若者が文化の中心なのだ。

そういう意味で、私は若い人たちに任せるという選択をした。
私ができるのは応援することだけだから。
そして私は自分を彩ってくれた音楽をひたすら愛しむ。まだ聞いた事のない曲なんて数万曲あるし。それで十分だ。
昔のレコード会社や音楽業界人に多大なる感謝をしながら生きて行こう。







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安楽死について [独り言]

安楽死について


世界的に安楽死を容認しているのは以下の国家ということだ。

スイス - 1942年
アメリカ(オレゴン州) - 1994年「尊厳死法 (Death with Dignity Act)」成立
オランダ - 2001年「安楽死法」可決。
ベルギー - 2002年「安楽死法」可決。
ルクセンブルク - 2008年「安楽死法」可決。
アメリカ(ワシントン州、モンタナ州) - 2009年
アメリカ(バーモント州) - 2013年
アメリカ(ニューメキシコ州) - 2014年
アメリカ(カリフォルニア州) - 2015年


安楽死をどう捉えるかは非常に困難な問題だ。個人思想、宗教が絡むとなおさらだ。
安楽死の法制化は国家による殺人の肯定と考える人もいるだろう。
そういう見方を否定も出来ない。

しかし個人的には国家による安楽死という選択を日本も考えざるを得ない時機がそう遠くない日に
来るだろうと思っている。本当はそういう選択がないのが一番だが、
この動きは人類が自然に矛盾した生き方を選んだ事の反動だと思っている。
明治時代の平均寿命が50歳前後だった日本は、2016年の今や男女共に80歳を超えてしまった。
この先更に寿命が伸びそうな勢いである。こんなに急激に寿命を延ばした生物は人間だけだ。

こうした寿命の在り方は、自然の摂理とは合致しないように思っている。
人間の医療改革や食生活の改善は、自然摂理を超えて人間の寿命を延ばしたと思う。
またアルツハイマー病や老化を解決する医療の発展も今後開発されるだろうと言われている。
しかし、現代社会において、健康寿命は男女共に70歳前半で、残存寿命の12年は病気との闘いとなる。
私は50代の人間だが、幼少時代、還暦を迎えた人は全員高齢者、つまりお爺ちゃん、お婆ちゃんだった。
大抵は60代後半から70代前半で死に、それが一般的だった。
年金制度の設計もその時代を基礎としており、それが現行設計とのかい離を生んでいる。

個人的見解だが、「安楽死は人生を終盤の最後の保険」だと思っている。

私は自分が何歳まで生きるのか、健康のままで死ぬのか、長患いをして死ぬのか・・、
そういう漠然とした不安がある。人口の50%の人はガンになる時代だ。
先日逝去した大橋巨泉氏も、長い闘病生活に耐えきれず、安楽死を口にしたと聞く。
病気と当事者の格闘を考えれば、彼の気持ちは十分過ぎるほど理解できる。

私は長患いをし社会復帰不能なのにも関わらず治療という名の地獄が続くことにも恐れを抱いている。
社会復帰し、元の生活を取り戻せず、不自由になるくらいなら私は安楽死を選択したい人間だ。
加えて自分がアルツハイマー病になり自分から記憶も何もかも無くなったり、
誰かの手を借りなければ普通の生活を維持出来ないのにも関わらず、
ただ神から与えられた(と言われる)命を存続させるためだけに社会のエネルギーを浪費することに耐えられないだけだ。
人生とはそういう苦難を乗り越えることに意義と理由があるという人もいるだろう。
でも、本当にそうだろうか?

老老介護による殺人、社会復帰の困難な高齢者への医療の問題、社会保障費の増大など、
これから50年を見れば、安楽死という解決方法を無視できるはずもない。
先日、相模原市で19名の大量殺人があった。殺人者は、施設入所者のような人たちへの安楽死を主張していたらしいが、私はそのような意見に全く賛同できない。 

安楽死を制度化するのは相当に難しい問題だ。
安楽死に反対する人の気持ちや考え方を完全には否定できない自分もいる。
しかし、私には安楽死という「保険」があった方が多少気持ちが楽なだけなのだ。

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