So-net無料ブログ作成
検索選択

苦労 [独り言]

若い頃には買ってでも苦労しろなんて言葉があった。

正直苦労なんて買ってまでしたくない。

でも苦労のお蔭で人間としての成長があった事は事実だ。

苦労は辛く、楽しくもない。

でも苦労のお蔭で見える世界があった事は事実だ。

人間は勘違いしやすく傲慢で欲深い動物だ。

そういう人間を戒めるのは「苦労」だけだと信じている。

でも、できれば死なない程度の苦労にして欲しい。

死んでしまうような苦労には出会いたくないよね。

やっぱり。

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:資格・学び

クリエイティブ、エンタテインメント系の仕事を目指す若い人へのアドバイス [独り言]

クリエイティブ、エンタテインメント系の仕事を目指す若い人へのアドバイス


私は1983年に大学を卒業して以来、浮き沈みを経験しながら57歳の現在に至るまで
何とかエンタテインメント系の仕事をして来ました。
社会人前半19年は音楽業界、後半の42歳からは、衛星放送と映像運用+音楽業界という感じです。
振り返ってみると、40年近くこの業界で仕事を続けてこられたのは、ちょっと奇跡的な感じです。
振り返ってみると、私には特別な才能があったように思えない、というは結構普通でした。
ただ好奇心が強く、面白いものが好きで、その入り口は音楽だったという事だ。
結局私にとっての成功例は、韓流ブームに乗ったビジネスだった。
未だにそれで食べているが、韓流も今後どうなるか分からないと思う。


40年近い経験を持った私が、自分の体験を通じて分かった事があるので、以下に記し、今後クリエイティブ、エンタテインメント系の
仕事を目指す若い人へのアドバイスになればと思います。
明示的に言えば、この世界は弱肉強食です。
生き残りが厳しく、結構大変だという事は予めお伝えしておきます。

まず、基本的クリエイティブ、エンタテインメント系のスタッフの仕事は、全般的に給料が安いです。
特に若い時、つまり20代~30代前半においては、一部上場企業の同じ年代と比較して
40~65%程度だと思って差し支えないでしょう。
一部例外はレコード会社ですが、現代のレコード会社は完全な斜陽産業であり、未来は全くありません。
今でもいい給料をもらっている人は40代以降におりますが、早晩立ち行かなくなるでしょう。
レコード産業の売上は全体でも2000億円程度です。また毎年小さくなっております。
(ちなみにアメリカも1997年の1.8兆円から現在では半分以下になっている)
2000億円程度と言えば、一部上場企業なら1社分以下と言えます。そこに何十という会社が存在するのです。
各社のパイが小さいのは算数で分かるでしょう。
それ故に、大変にオセッカイな言い方だが、特に若い人はレコード会社への就職は全くお勧め出来ません。
エイベックスですら音楽部門は他部門に吸収されており、ライブと映像事業が主事業の時代です。
少なくとも音楽業界に関して言えば、インディーズで名を成す方が良い時代とも言えます。


タレントマネージメント会社は、大手であっても大抵は給料は安く激務です。
それでも色々な経験が出来るという点では人生を豊かにしてくれますが、
マネージメント会社に就職したら、売れるアーティストかタレントを発掘し、成果を出さない限り
自分の人生に未来はありません。
大手の会社ですと、40代中盤までに役員や本部長になれない人達以外は早晩、早期退職の対象になります。
従って現場マネージャーのような職種でやれるものは30代後半迄です。
マネージメント会社に入るなら、ノウハウや人脈を作り、タレント発掘して独立するくらいの気概がないと
一生の仕事として行うのは難しいでしょう。
また大手に就職するなら、部長級以上を目指さない限り年収や経費面で美味しくありません。
ただ、事業ノルマはかなり厳しくなります。
この分野の仕事は、アーティストやタレントとクリエイティブ以外の部分で対峙出来、
御する才能を求められます。その才能が無い人は、ただの「ボーヤ」になるだけで、
それ以上でもそれ以下でもない訳です。
40歳過ぎてアーティストやタレントのお世話係をするだけであれば、その先はなさそうというのが事実です。
(アーティストやタレントがその人がいないとダメだと言ってくれれば別ですが、それもリスクがあり)
この業界で残っている人間は、例外なく売れるタレントやミュージシャンを発掘育成しております。
マネージメントはそれが肝の仕事で、その上で仕事を作れるか?が問われるのです。


音楽にしろ映像にしろ、クリエイティブで身を立てようとする人は、基本的に独立した存在を求められます。
つまり才能だけが自分の武器です。
またクリエイティブ系の会社の社長になるのであれば、人脈と仕事作りの才能が必要になります。
そのためには、マーケットで求められる能力が必要であり、また事業継続できる力量が必要です。
音楽でも、デビューしたものの売れなかったり、ちょっと売れても下降線をたどる人は多いですが、
一生の職業とするためには相当な能力と胆力が必要です。
ミュージシャン、アーティストという言葉はカッコいいですが、実際にそれに見合う仕事をやり続ける事が
出来る人はほんの一握りです。
少なくとも20代中盤直後に目途の立たない人は才能的にも運的にも難しいと思った方が無難です。
また、才能だけでなく人間性も重要なファクターです。
才能を切り売りする仕事ですから、必ずクライアントやファンという存在がおり、自分の自由気ままだけで
金が稼げるほど簡単な仕事ではありません。
特に数十年の活動をするためには、一定の社会性も必要で、ミュージシャン、アーティストだから自由でワガママで
言い訳ではありません。
また優秀なスタッフとチームを作る事も大切ですが、金にまつわる話は透明化しておかないと、矢沢永吉さんのように
騙されてしまうことも発生致します。


アニメ業界のアニメーターというと薄給が知れ渡っております。
正直言うと彼らは能力を搾取されていると言って良いでしょう。
平均年収110~150万円なんて、生活保護以下です。
(私が昔やっていたミュージシャンのボーヤもこの程度でしたが・・。)
彼らの「アニメを書く事が好き」という自主性だけが、あの業界を支えている訳です。
しかしアニメ作品が売れても彼らには還元されません。
しかし彼らなしではアニメ業界は成り立たないのです。
そういう観点からみると日本のアニメ業界には、余り未来がありそうにも思えません。
この問題は宮崎駿監督がアニメーターの時代から言われているもので、
それを改善するために作ったのがジブリでした。
しかし、結果的に言えば、ジブリですら根本的な解決案を見いだせないままでした。
それは宮崎さん以外のヒットクリエイターをジブリ自身が作る事が出来なかった事にあります。
アニメーターはクリエイターというよりは作業者に近いため、どうしても地位が上がりにくいからです。

大ヒットした「君の名は」で一番儲かったのは配給の東宝でしょう。
300億円の興業収益だそうなので、30億円程度が手元残ったはずです。
その次に潤ったのは劇場でしょうかね。それと座組の投資家でしょうか?

またDVDもかなり売れるでしょうから、その販売元の利益は億単位でしょう。
監督にどの程度配分されるか分かりませんが、今後、監督さんはその利益を元にしてファイナンスし、
自主制作することをお勧め致します。
著作権を完全に保有する事以外にクリエイターがビジネスと対峙することは不可能です。
シンゴジラの庵野監督はもうその辺りに気が付いておりますよね。
後年のルーカスがスターウォーズの制作費を自主調達したのはそうした背景があったのです。
つまり、映画で稼いだ金で次を作り、それを繰り返すという事です。
そうすればビジネスサイドからの干渉を避けられ、クリエイティブに専念できるし、
配給からMGを支払ってもらえれば回収も早い訳です。

そういう意味で、アニメ業界には大いなるビジネス上のポテンシャルが有しながら、
底辺で搾取されるアニメーターやクリエイターの自助努力で成り立っていると言っていいでしょう。
(音楽でもそういう面がありますね・・・)
庵野監督は気がついているようですが、クリエイターたちが自立したければ、経済的自立が必須です。
そこに無頓着な人は大成出来ないというのがエンタビジネスの事実です。


以下のサイトを見ても分かるように、音楽業界の働き先はどこも低賃金です。
http://www.musicman-net.com/

人手不足で音楽業界も先の見えない時代に、こんな賃金の世界で働く事を求める人がどの位いるのかは疑問です。
私の時代は未来が明るかったので、希望という根拠のない未来を信じて、滅私奉公しても元が取れそうな
感じが致しました。
しかし、今の音楽業界には未来が見えず、滅私奉公は人生の無駄になり兼ねません。
現代の音楽業界は、業界全体で雇用環境を考えた方が良いのではないでしょうか?


私の知り合いでも、今でも生き残っている人は数が限られます。
人によってはリストラされ、フリーランスを余儀なくされております。
やはりエンタメ業界は、基本的にやり続けるのが難しい世界だなと思う次第です。


総括:

(1)この業界で仕事をするなら、普通のサラリーマンを超えて成功してやるという気概が必要。
(2)そもそもエンタメの仕事が三度の飯よりも好きでないと全く耐えられません。
(3)若い時代に定収入だとしても、必ず取り返すと決めて、チャンスと人脈のために自分の時間を過ごすこと。
(4)30代中盤から後半にかけて、当初の見込みとかけ離れていると感じた場合、人生の方針転換をすること。
(5)40代に入ってから業態、業界を変えるのは相当なリスクとなる。(私はこのリクスに直面した)
(6)この業界に限らず、トップの成功を収められる人は1%以下です。
   そこに残れないと思うのなら止めた方がいい。
   (ちなみにサラリーマンでも役員になれるのは1%以下だが、定年まで生き残れる可能性は本業界より遥かに高い))
(7)クリエイター(ミュージシャン含む)においては、30歳前に成功しなければ辞めた方がいいです。

坂本龍一氏 「async」に未来を期待して・・・  [独り言]

2017年4月、坂本龍一氏の新作アルバム「async」が発売された。私は渋谷タワーへ買いに行った。いわゆるJ-POP階と呼ばれる3階で売っていた。
家に帰りCDラジカセで聴き始める。
本作について、色々と意見があると聞いていたが、個人的には教授らしい音だったと思う。80年代に発売した「Field Work」のB面のExhibition、電子環境音楽とも言える作品で、ちょっとその感じを思い出した。個人的にはExhibitionは、良く聞いていた。

60歳を過ぎた彼が到達した音は「async」だったんだと思った。たから私はあれこれ考えず、素直に受け止めた。
1980年代初頭に「B2Unit」を出した時、あのサウンドを理解出来た人は殆どいなかった。結局「B2Unit」が再評価されたのは、1990年代中期で、日本にヒップホップ文化、つまりDJ文化が根付き始めた頃だった。そういう意味で、「B2Unit」は25年も早い音楽だった言える。そして確信的に教授は構築していた。

 「async」のオリコン初登場は20位で売上枚数は、4500枚程度だったいう。
決してポップでないアルバムなのだが、それでも1万枚以下か・・・。ちょっと萎える数字ではある。
現代の音楽の作り手には、随分と厳しい時代になってしまった。
それでも「async」が本当の評価を受けるのは、今から四半世紀後かもしれないな・・と思った。教授はいつも、その位先の音楽を作ってしまう人なんです。

async

async



 


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:音楽

私的な貧乏物語 [独り言]


「私の貧乏物語」という著書がある。現在では様々な分野で活躍されている方々の
貧乏物語を語ってもらいまとめた著書だ。
あの人が・・という意外な一面が著述してある。
貧乏の度合は、時代背景、地域、両親の仕事によって様々だ。
それでも戦後の貧乏は現在とは次元が違う事が伺えるが、
戦後においても貧乏で苦労している方は多いようだ。
 
私の「貧乏物語」――これからの希望をみつけるために

私の「貧乏物語」――これからの希望をみつけるために

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2016/09/28
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

かく言う私も、多分貧乏に近い部類の人間だったと思う。
父親は地方公務員。高度経済成長期において、地方公務員の給与は平場に比べて高くない。
母親が結婚当初、父の上司から、あれで本当にやって行けますか?と聞かれた話をされたことがあるが、
どうやら父親の給与は余り良かったとは言えないようだ。

小学校低学年の時のクリスマスの光景は今でも覚えている。
子供にとってクリスマスと言えば、普段買ってもらえないオモチャを買ってもらえる
絶好のチャンスだ。
しかしその年は全く相手にしてもらえなかった。
クリスマスの朝、母と一緒に寝ている今で目を覚ました私の枕元に置いてあったのは、
当時の値段では、30円で一束買える折紙だった。金銀の紙が1枚づつ入ったヤツだ。

子供の私はそれを見て堰を切ったように泣き出した。
その時、母は台所に立って洗い物をしていた。
私は母の背中に向って「こんなんじゃ嫌だ」と泣き叫んだ。
多分折紙は放り付けただろう。
母は黙ったまま洗い物をして何も言わなかった。
未だにこれを記憶しているという事は、当時の私には相当なショックだったのだろう。

後で知ったが、その年の父のボーナスは、想定以上に引くかったらしい。
母はいつか一戸建てを持って人並みになるんだと貯蓄をしていた。
そのため、当時30代の母は、電子部品系の内職をずっとやっていた記憶がある。
小さな炭素絶縁体に電動金属を嵌め込む仕事だ。1つやって1円もらえるという感じのものだった。
私も助けた事があるが、根気のいる仕事で、今の30代の女性がするなんて想像もつかない地味なものだ。

実は当時、私は自分の家を貧乏だとは思っていなかった。
私を含めた周囲は市営住宅に住んでおり、同じ様な生活環境だったからだ。
同級生は皆、継ぎ接ぎのズボンだったし、怪我をするので赤チンだらけだった。
私は昭和のガキんちょだったのだ。

小学校4年生で引っ越した。母念願の一戸建てを建てたのだ。
今で言えば4LDK。100坪の土地には庭もある。
この時、我が家はやっと世間並になった感じがした。
初めて我が家に車が来たのもこの時期だ。(カローラ中古車だが)

私は20歳になって成人をし、かつて住んでいた市営住宅を見に行った。
その場所は大人になった自分目には信じられないほど狭い空間の場所だった。
「オレって家族4人であんな狭い場所で住んでたんだ・・」

この時、両親の苦労が肌身を沁みて分かったような気がした。

あれから随分と時が経ち、両親は年金受給者になってから、
水引きの内職で貯めたお金を使って念願の中国旅行に行ったり、
犬を飼ったり(約20年で二匹)、ずっと夢見てきた事を少しづつ叶える事が出来るようになった。
そしてその時間も十分にあった。
2017年2月8日、67回目の結婚記念日を2人で迎えた。
今は毎日を静かに暮らしている。

我が家は、決して裕福な家庭とは言えなかったが、
老齢の両親は未だに自分たちで自分たちの事が出来ており、
十分幸せな家族だと思っている。
ありがたいことだ。







nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

韓国疲れは何故起こるのか?  [独り言]

私はもう15年以上韓国と仕事をしている。随分と世話にもなっているし、世話もした。

冬のソナタ以来、近くて遠い国と言われた日韓の距離は俄然近くなった。
そういう意味で、コンテンツが届ける文化や親近感は長年の外交政策を超える成果となった。
個人的に日韓の接近は良いと思っている。
外交的、地政的観点から言っても韓国との有効関係は日本にとって不利ではないしむしろ有効に活用すべきだ。
ただ、日本人が一般的に抱くような友好関係が日韓で維持できるというのは幻想だろう。我々は似た様な民族に見えるのだが、驚くほど違う宗教を持った国民であるというのがリアリティーだろう。
 
北方面に同国的な敵を抱える韓国にとり、外交的生存を貫くためにはロシア、中国、日本そしてアメリカとの関係の妙が国の存亡のカギとなる。
一言で言えば、韓国の外交戦略の根幹は「敵を作らない」事にある。それ故、パク政権当初に行っていた日本の慰安婦問題の批判を訪問先の国で公言したのは、彼らの気持ちを汲んだとしても余り賢いやり方ではなかった。実際THAADの配備で中国という手札を失い孤立している。親日である必要はないが、敵意をむき出しにするのは頭の良い外交政策とは言えない。

個人的にだが、ここ15年韓国と付き合ってみると韓国人に対して、大変な違和感を覚える事が数多い。
誤解なきようにだが、これから書く事は悪口ではない。私は韓国人に対して好きも嫌いもない。またK-POPのアジア進出の様子を見ていると彼らの才能や爆発的なエネルギーに感心さえもする。そういう部分において、特に日本の芸能、音楽業界人は謙虚に見習う部分があると考えているくらいだ。
さて、「違和感」についてだが、実は日本人の私だけでなく、中国人や台湾人も同様の見解を憶えている。
この「違和感」はなかなか乗り越えられない感じのものなのだが、お互いに引っ越す訳にはゆかないので付き合い方を考えて行くしかない。理解できなくても対応するしかないのが現実だ。

さて、韓国人の違和感とは? と尋ねられると、まるで「他にはないOSで動いているPC」という印象に尽きるだろう。

一例だが、立場の弱い段階では目線を下げて接してくるが、一たび自分が相手よりも優位と見るやそれまでの援助や人間関係を顧みない態度に豹変するというものがある。
これは知的レベル関係なく韓国の人たちに普遍的に感じる行動だろう。
これは我々のような外国人だけの意見ではなく、日本に住む韓国人たちも自国民に対して同様の意見を言う人も多い。
つまり彼らに対して下手に出ようものなら「直ぐに勘違いする」というものだ。
この勘違いは殆どスイッチが入ったようにグラデーションがないのも特徴だ。韓国人自身も自国民に対して違和感を覚えているというのが事実のようだ。

この思考回路は我々のような外国人には全く理解できない部分だ。あのOSの仕組みだけは未だに理解し難い部分だ。
さてこの思考回路は慰安婦問題に影を落としている。

日本は韓国との慰安婦問題で外交交渉を行い、日韓合意に従って色々と手を尽くしてきた。
90年代の河野談話は、韓国との関係や先方の事情を配慮した形を取る事でお互いに鉾を収めようと考えたからだろうが、このやり方は韓国人を理解したやり方ではなかったと思う。
韓国人は、日本的な「行間を読み丸く収める」「和を以て貴しとなす」的なやり方は通用しないという事を当時の外務省担当者は政治家に告げるべきだった。日本側のベースにあるメッセージ、つまり、日本側も一定の非を認める談話で事を終わりにしましょうという部分は当時の韓国政府や国民には理解できない部分だったと思う。

韓国人から見れば慰安婦問題は、100%日本に非があると思っている問題だ。彼らがベトナム戦争時にベトナム人の女性に同様の事をやっていたことは彼らにとって別問題だ。
従って彼らにとって慰安婦問題において自分たちが立場が下になるという事はないのだ。
自分たちが「上」にいる以上、韓国人にとってこの問題について日本は韓国人の「言うがままになるべき」というのが彼らの心理的根底的にある理屈なのだ。
極端な言い分に見えるだろうが、BSフジのプライムニュースに出た韓国人コメンテーター李 泳采(イ ヨンチェ/恵泉女学院大学)氏が、「最終的な(韓国との)合意があったとして日本は加害者である事が消える訳ではないので、永遠に謝罪すべきなんです」「日本は慰安婦問題において、常に加害者であるという立場を忘れないというのとが重要なのです」という発言に触れれば分かるように、韓国人のメンタリティーの全てがこうした点にあると言って良いだろう。
日本にいて日本の大学にいる韓国知識人でさえもこういう見方をするのだ。他は押してしるべしという事だ。

どうやら韓国人には、ある時点の謝罪によって「過去を清算する」、つまり一旦ゼロにして再出発するという発想がないようなのだ。この辺りが付き合っていて感じる違和感の1つだろう。ちなみに中国人は、かつて田中政権時において、日中国交を樹立した際、毛沢東政権から戦時下の所業についてあえて問わないとされた。現在においても中国の時の政権は日本の過去の所業を忘れるなとは繰り返して言うが、国交の合意そのものの精神に反した行動は取らない。南京虐殺の件にしても個別の歴史館のようなものは作るが、北京の日本大使館前に虐殺を象徴するような像を立てるような下品な真似は中国人でさえもしないのだ。

外交的な象徴である大使館前に平気で慰安像を置く韓国人の心理というのは、例え表面的に問題解決や合意があったとして、被害者である日本人に対してこの問題を永遠に忘れさせないというメッセージがあると考えて良い。これは前出の韓国人コメンテーターの発言と一致する行動なのだ。この湿度の高い「しつこさ」や韓国人のメンタリティーや思考回路が、一般的な常識で受容困難なのは、議論の果ての外交的な解決という事実と日本政府及び日本国民が慰安婦問題において永遠の責任と謝罪を有する事が「別次元の問題だ」と考えている事にあるからだろう。

プライムニュースなどて時折取り上げられ議論されている本問題で、韓国人コメンテーターと日本側と殆どかみ合わないのはこうした背景がある。日本からすれば、慰安婦問題の解決に際して外交的な解決で過去の経緯や問題、課題に区切りをつけ、先に進もうという、世界標準的な外交的アプローチで投げかけても、韓国側は、それはそれ、これはこれと、その都度違う条件や見方を提示してため、日本側や世界は戸惑うのだ。
韓国人にとって過去の清算は事実上、永遠にないというのが精神の根本にあるからだ。これは「恨」の発想だろう。
日本側の日韓合意の解釈は、「外交的に合意した内容と精神に準じた行動と対応をする」という事だが、韓国側の解釈は、「履行した合意内容と精神はそれとして、もしこの件で何か起きたら、個別にそれぞれの事情や状況を考えて双方で協力して対応する」という感じなのだ。
韓国人からすれば自分たち側にも色々事情があるのでそういう事情に合わせて(そもそもの加害者である)日本も(当然一緒に)考えるべきだというような感じで、彼らの感覚からすればむしろ当然の行為や思考なのだが、これは自分たちの問題も相手が一緒に引き取るべきだという韓国独特の考え方で、世界標準的には理解し難い部分なのだ。これが別の違和感を生んでいると思う。

仮にだが、慰安婦たちに安倍首相が直接謝罪をしても、次に想定されるのは韓国世論や政府が天皇の謝罪を要求してくる事だろう。実際そうなるのは火を見るよりも明らかだ。
私の推測だが、自民党政権はこれを最も危惧していたのだろうと思う。イ・ミョンバク元大統領が竹島に上陸した時、天皇に戦争責任の謝罪をしろと言った事は、日本との関係性で触るべきではない部分だった。韓国人は日本の天皇を表現する際「日王」と言っている。それが彼らの日本や天皇に対する見方でもある。少なくとも国内の人気取りのためにイ・ミョンバク元大統領が天皇の謝罪を求めたのは悪かった。ああいう部分が韓国人の外交センスのなさと言えよう。
しかし、その後、韓国のパク・クネ氏や外相のユン・ビョンセ氏が政権を担い、日本を敵として演出してきたが、中国との関係が怪しくなり、外交的に日本との関係をこれ以上悪化させることが相当に不利と読んで国内のリスクを取ってでも慰安婦問題に合意を取り着けたのは、韓国社会の背景を考えるとかなりの英断なのだがそれまでの日本との外交を鑑みると泥縄状態で、そのため短期的な視点で日韓関係を回復させるためアメリカの介入もあって慰安婦問題に合意をしたが、民間の認識と理解とは相当な乖離があるのはご存じの通りだ。現状パク政権は死に体で、アメリカとの首脳会談などは夢のまた夢という状態だ。サムソンまで巻き込んだ現政権のスキャンダルは、韓国経済を直撃するだろう。

韓国の「儒教思想」や「恨」の根深さは非常に独特な歴史背景で成立している。当時の日本の外務省や政府首脳はその点を理解した上で外交的措置を取らないから混迷を極める原因を作ったのである。そういう意味で河野談話は大失敗だった。
当時の政府は、日本は先方の顔を立てておけば、同じアジア人として先方も日本の立場を理解して行動してくれるだろうと考えただろうが、韓国人にそういう思考は通用しない。

韓国人と付き合っていると良く分かるのだが、人間関係で密なモノを求めるため公私の境界線が非常に曖昧になりがちだ。(日本も同じような部分があるが韓国のような濃さはない)。
一例だが、韓国では、友達になれば相手が自分の持ち物を無断で使ったりすることに対して韓国人は違和感を感じない。授業中に消しゴムのやり取りをする際、日本では友人でも一言声をかけるが、韓国ではそういう行動をしない事が普通なのだ。友人の家に入ったら相手のものを自分の物のように使う事も平気だ。
こうした文化的な違いの累積はなかなか大きい。自分の問題であっても他人が同じ様な目線で一緒に引き取る事を求める「依存的な考え方」は、外交にも現れているとも言って良い。
(別にこれが悪いという意味で例を出している訳ではないのであしからず。文化の違いはどこにでも普遍的あるものですから・・・)
また、これは儒教思想の影響が色濃いためだが、公共よりも自分、家族、親戚への貢献が重要な指標になる。
韓国の大統領が任期を終えると親族への違法な行為によって逮捕等されるのが常態化しているが、こうした行動癖は、正に儒教思想の影響だ。家族、親戚連中は身内である大統領に「集る(たかる)」のを当然と考えしまう。大統領になっても身内の要求に応えなければ儒教思想としてはまずい。結局、公の人間でも身内に配慮をした行動を取るため、任期後にトラブルとなる。
ここが韓国のややこしい一面でもある。

韓国が法治国家でなく人治国家と言われる所以は、儒教思想を根底に持つ事に他ならない。
法的客観性よりも人的主観性(身内の論理)の方が勝ってしまうのだ。
(ちなみに江戸時代、日本は儒教国だった。士農工商はその思想の現れだ。明治維新という革命的時代があったため、日本は儒教国でなくなったが、これはある意味で幸いだったと言えよう。それでも今でも公務員上級試験によってエリート官僚が選ばれるというのは科挙の名残だろう。) 

従って物事を客観的に見て、論理的な部分で整理する必要がある大きな問題が起きると方向の定まらない船のようにフラフラしてしまう。人的主観性(身内の論理)の方が勝ってしまうため、民衆が騒ぐと毅然とした対応が出来にくくなる。

慰安婦像の対応にしても、法律的には設置が認められないのに行政が対応を出来なくなる背景には、慰安婦問題について悪は日本であり、それを糾弾することは正義であり、その糾弾の象徴である像の設置に意義を唱えるのは親日だということになるため、韓国人としては法的客観性を主張できる立場(政治家、裁判官ら)でも法的である人々でさえも行動が制約されてしまい。出来ないのだ。そんな事をすればいわゆる「村八分」になってしまう。

また、日韓合意があっても慰安婦像の設置に政府首脳が対応できないのは、年長者の慰安婦に対して歳下の政治家たちは、儒教思想的な対応(年長者を敬い祖法を守る)をしなければならないもどかしさがある。加えて特に韓国では、政治家が親日のレッテルを張られたらお終いだ。
そういう意味で韓国とはまるで二重人格のような国に見える。(外交拠点への慰安婦像の設置を非難する韓国人も存在するが圧倒的な数ではない)
民主主義的に成立した政府があるのに、人的主観性を保持しようとする国民の声によって政府の方針が変わるという部分だ。(日本にも建前本音の二重人格があるが、それでも概ね法的運用が担保され維持されている。)

この二重人格的側面が国民個々に普遍的に見られるのが、「韓国疲れ」と言われる部分なのだろう。プライムニュースで反町さんが毎回韓国コメンテーターに頭を抱えているのはこうした部分だと言って良い。

さて、プサンの慰安婦像問題はこの先、どうなるだろうか?

現行の韓国政府及び自治体は像を撤去させられないだろう。これはパク大統領の職務停止が大きい。前出の李 泳采(イ ヨンチェ)氏は、こうした状況下で日本政府が大使召還をしたのは行き過ぎだと語っていたが、彼(ら)の発言を聞いていると、いつも何か問題があるたび自分たちの瑕疵を棚上げにして、相手に譲歩や協調を求める傾向がある事が分かる。これらも韓国人の特徴に見える。しかしこの考え方は韓国では普通なのである。

プサンの慰安婦像問題について1つの可能性はある。パク・クネ大統領が弾劾されず復帰した場合だ。
こうなった場合、パク・クネ大統領は全ての権力を使い、自分を陥れた(と考える)権力者たちや報道関係者たちに報復&反抗するだろう。その際に慰安婦像の撤去も含まれるかもしれない。
しかしその副作用として国民的なデモ等が起こりしばらく韓国社会は混乱するだろう。またパクさんが大統領職の任期を終えたあと、彼女の韓国国内の居場所はなくなるかもしれないが・・・。
(それが引き金にもなって経済も疲弊し始め結局韓国は極度の不況に陥るだろうが・・・)

現実論としてこのまま撤去されない場合、日本政府と韓国政府は長い冷戦状態に入るかもしれない。安倍首相も召還した大使を返す機会を逸したままになる可能性もある。実際既に1カ月を経て帰任の気配がない。長引けばさらに機会を見いだせないだろう。
慰安婦問題の本当の真実がどこにあるのかは私には分からない。100歩譲って当時の現場で自らの意思とは違う扱いを受けた慰安婦さんらが居て、それに日本軍人やその周辺が何らかの関与していた可能性があったかもしれない。
戦時下の混乱期とは言え大変に気の毒な事であり、彼らに一定のルール下で保証はされるべきことだと思う。そしてその事について議論の末に2016年末日韓は合意をした。個別の意見はあるだろうが決められた事は決められた事だ。
今後は双方の国の問題として合意に基づいて行動するだけだ。それが国家間の約束事への一般的な対処となる。特に今回の合意は「不可逆的」であり「韓国側の基金設立=日本側10億円供出」を条件とし、「米を含む国際社会の確認」があったものだ。嫌な言い方になるが、韓国政府はよくこの条件を飲んだと思う。安倍首相の言っていた通り、この合意を事実上解決する実務の責任は韓国側に比重が重いからだ。そしてその実行をするのが韓国人としてはかなりハードルが高い。(それでも合意したのはパク政権がその意味を理解していなかったのではないか?と勘繰ってしまう・・・)

2/10(米時間)に行われる日米首脳会談を機にして、近い将来的にはアメリカが安全保障の立場で間に入り、強制的な調整を行うかもしれない。契約を重視するアメリカ人からすれば韓国側の状況はかなり不利に映るのは目に見える。
日韓の冷戦が解除され一旦元に戻ったような感じを装うだろう。プサンやソウルの像の撤去を現在の韓国政府が自立的に出来ないのは明白であり、それなしで日本側も大使を帰任させることは難しい。
いずれにしてもチキンゲームの様相の「日韓冷戦状態」は、韓国が合意に基づいて自立的に解決策を出すか、アメリカをキッカケにするしか動きが取れないように思える。

 
 慰安婦像問題について、安倍総理が韓国に冷ややかな理由:(Yahoo News)

私は、韓国のテンジャンチゲやチャンジャ、サムギョプサルなど食だけ取っても良い部分をいくつも上げる事が出来るのだが、どうも彼らの思考や態度にはついて行けないもどかしさがあるのが残念だ。韓国人にしても日本人に違う見方で同様なのかもしれない。
私は韓国人の慰安婦像の設置そのものには反対しない。表現の自由だからだ。設置そのものが韓国や国際法的に全く問題ない行為であれば我々があれこれ言う筋はない。
それでも設置場所や方法は問うべきだろう。また政府も外交的にそうした活動との距離を考えるべきだ。
日本人の誰かが東京・仙台坂の韓国大使館前に「韓嫌像」なんて設置しようものなら日本の警察が来て排除するのが当然だ。ヘイトスピーチにしても日本は法律を作って出来ない様にしたではないか。
そう考えればソウルやプサンの日本大使館前の設置やアメリカ国内の公園などの設置などで行う異常な主張方法の違和感は議論の余地のない事だろうと思う。



「韓国人に生まれなくて良かった」元駐韓大使が心底思う理由:(元・在韓国特命全権大使 武藤正敏)

上記記事には同感だった。韓国社会は苛烈だ。勝ち抜いた各界の少数エリートは生き残れるが、そのため中間層が不在になる。苛烈さについては韓国人も理解している。





nice!(1)  コメント(1)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問

「この世界の片隅で」を鑑賞した50代のオッサンが映画を見て考え感じたこと(ちょっとネタバレあり) [独り言]


やっと噂の「この世界の片隅で」鑑賞した。新宿ピカデリーでやっていたが満員だった。
オッサン1人で見に来ている人は私だけだったろうか?

映画を見終わり、単にいい映画だったとかどうだったかという感想を
すぐには言い起こせない様々な気持ちが心に沸き上がった。
アニメ作品的にはボクトツとした絵と情景が拡がるのだが、映画の中に描かれている全てが妙にリアルだったからだ。
コトリンゴがカバーした「悲しくてやりきれない」は故・加藤和彦氏の名曲だが、時代を経て新しい息吹を楽曲に込めており、曲の印象と映像が不思議なシンクロを演じていた。 

私は1959年(昭和34年)生まれだ。
あの映画が描く昭和8年~終戦となる昭和20年は私の約二世代前の人々の世界だ。
だからあの光景そのままを知る年代ではない。
それでもあの光景の残像とも言えるものを私は見ているのだ。

主人公のすずは恋愛を知らないままにに知らない土地の家に嫁ぎ当たり前のようにあその家で家事をすることになる。
またオシャレをしたり、人生を楽しむ事も殆どないような時代で、戦争に突入してゆく中で日本全体が倹約の嵐を強要される。
あの時代はそれが当然の行為だったし、周囲もそうだった。その世代は私の父親、母親の世代なのだ。

映画描くあの質素な生活感やご近所との付き合い、大らかな生活態度の一部は、私が田舎で過ごした幼少期~小学校の時代にそこここに残っていた風景だ。
私は市営団地住まいだったが、周囲の同世代の母親連中が長屋のように共同で育ててくれていたような環境だった。
母親の誰かが何らかの都合で出かけたりすると子供を預けあったり、面倒見てくれたりしてくれた。
今のような育児ノイローゼなんて皆無と言って良い環境だった。
道路は舗装されていないところだらけだったし、牛車が道を進み、道には牛の糞がそこここに落ちていて、
それでも誰も文句を言わないような時代だった。
(今のように犬の糞でもキチンと片づけるのが当たり前の時代からすると凄い適当だったんだよね)

風呂敷を背負った人もたくさん見かけたし(大抵は物売りのお婆さんだった)、電話は呼び出し、
流石にモンペを履いている人はいなかったが、私の祖母は、家で必ず着物を着て家事をしていた。
ネットも携帯もありゃしない。テレビだって白黒が主流。
私の田舎のテレビ視聴環境は、NHK2チャンネルと民放1チャンネルだけだった。
電車の座席は木製で硬く、車内でタバコはOKだった(灰皿があった時代だった)し、エアコンはなく扇風機だけ。何もかもギコちなく、発展途上だった。

映画の中で終戦を告げる玉音放送に聞き入っている人たちが反応をする場面が出てくるが、
その昔、母親に当時の様子を聞いた時の話によく似た光景だったのは驚きだった。
一般民衆は心の中で戦争を疎ましく思っていたのだ。
そういう意味で戦中の日本は今の北朝鮮に似ていたとも言える。

振り返って2017年。現代の我々はモノに必要以上に溢れた便利な生活を当たり前のように生きている。
映画の最後が描かれる素朴で質素な世界観に心がジーンとするのは何故なのだろうか?
物質的には貧しくても、あの時代の日本人の心はもっと豊かだったと思ってしまうからではないのだろうか?

しかしそれは現代において、無いものネダリなのかもしれない。
でも妙にあの映画が描く素朴な世界が眩しく見えた。
最近の若者には我々の世代よりも物欲が無くなっているというが、モノに溢れた現代に違和感があるのかもしれない。
足るを知る。 
映画館を出た私の心にずっと残っていたのはそういう感覚だった。





nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:映画

「滅私奉公」と長時間労働の狭間にある問題 [独り言]


電通新入社員の自殺で勃発した労働環境問題。
そこに新らたな一石を投じたいのは他でもないエイベックス社の松浦社長。
彼の主張のポイント
は以下だ。

「好きで仕事をやっている人に対しての労働時間だけの抑制は絶対に望まない。
好きで仕事をやっている人は仕事と遊びの境目なんてない。
僕らの業界はそういう人の「夢中」から世の中を感動させるものが生まれる。
それを否定して欲しくない。」

かつて音楽業界に居た身として、松浦氏の上記の主張は感覚的に理解できなくもない。
実際私自身がそういうタイプだったからだ。
音楽業界、芸能界には、「仕事と遊びの境目なんてない」と考えて仕事をしている人が実に多い。
好きだからのめり込むし、成果も大きい場合もある。

GLAYのTERUさんは「労基法のままならコンサートできるはずもなく...」というコメントを残したようだ。
更に彼は、
「全くその通りだと思います。レコーディングやコンサート事業もそうですが、基準以内での運営は皆無。」
「仕事の内容によって適応する制度になれば良いんですが、そうなると線引きが難しい。
今は大手企業が槍玉にがげられてますが、僕らの会社も労働基準法のまま仕事をするとなると
コンサートなんてできるはずもなく…。難しい問題ですね。」(原文ママ))

私も業界人だったので、上記の意見を聞いて、そういう考え方をするのは無理もない事だと思っている。
しかし、それでも彼らの意見を読んで、自分の中にボンヤリとした違和感があった。
その違和感を探ってみると結論は1つだけなのだ。

音楽業界にしろ、芸能界や映像業界、CM業界にしろ、長時間労働を強いられている殆どの人種は一般企業で言う適切な対価をもらっていない労働者が圧倒的に多いという現実だ。
言い方を変えるとこれらの業界は「滅私奉公」によって成立している業界なのだ。

もっと砕いて言えば下働きのような階層のスタッフは代わりは幾らでもいる・・という立場で低賃金を強いられ、結果的に雇用主のコスト調整をされているのだ。
前述のGLAYのTERUさんが言うように、労基法のままならコンサートできるはずもなく...というのは、
労基法のままスタッフに賃金を払ったらコンサートが経済的に成り立たなくなるという事を示唆している。

何故か? スタッフに正規賃金を支払う事が難しいからなのか?

それは違う。

「誰か」が確実な利益を確保しているからだ。
もしくは確実な利益を確保しようとしているからに他ならない。

「誰か」とは誰だろう?

事務所か? 出演者か? その両方か?

それでもこの議論の根幹にはある前提がある。

コンサートにしろエンタメ業界は、メインアクト(出演者)という存在が居なければ成立しない。
従って仕事を作ってくれるメインアクトがまず利益を確保し、そこに付随する人たちは身分を弁えるという考え方がある。

この問題は悩ましい。ある意味では事実だからだ。
ではメインアクトはスタッフなしでコンサートを成立させられるのか?
多分、出来ないだろう。
しかし、メインアクト側がスタッフを選ぶ事が可能だ。スタッフは常に取捨選択される側にいる。だから立場が弱い。
ゼネコンの下請けが立場が弱いというのと同じで、こうしたコンサートの制作受託にいる人たちは、
基本的に事務所や出演者の意向に対して法律的な交渉をすることは事実上出来ない。
従ってTERUさんにご存じないと思うが「労基法のままならコンサートできるはずもなく...」というコメントの中には、
本来こういう現実も含まれている。

私の経験でも件の業界は、レコーディングにしろ、撮影現場にしろ、コンサートにしろ、収録現場にしろ、長時間労働が常態化する現場が多い。
また、ある種そういう特殊な環境を誇りに感じて生きている人たちもいる。
”我々はそこら辺りの普通のホワイトカラーのような人種じゃないんだ”というような「妙」な誇りだ。
しかし時代は変わり、特殊業界だからなんでも許されるような感じになっていることを理解する必要がある。

実際、何よりも誰よりも長時間労働しているのは、実は平場で頑張っている現場スタッフたちなのだ。音楽業界だとミュージシャンも同様だ。しかしミュージシャンと現場スタッフたちとは労働条件や見返りが異なる。
私がかつて経験した現場でのレコーディングでは、その成果の殆どはミュージシャンに帰属し、スタッフには還元されない。しかしそれは業務性質上致し方がない。でもそうであれば当然待遇や労働条件に上限があってもおかしくないだろう。私などは、音楽業界に入った初期、アルバイトのような身分だったから、当時の社会人初任給の年収の45%程度だったし、その後職場環境が変わり社員に昇格したが、それでも世間平均の60%程度だった。(おまけに福利厚生なし・・)
(その程度の仕事しかできないという評価もあったかもしれないが・・・)
それでも好きな仕事だったから気にしないようにしていたのも事実だ。

それ故、私は色々な現場のスタッフ経験をしてきたから断言できるが、エンタメ業界の平場のスタッフは恐ろしいほど低賃金の人たちが多い。仮に私の知り合いが今、音楽業界、芸能界で働きたいと言ったら必死に止めるだろう。
人生をバクチに投じる必要はないと。(反面バクチっぽいから魅力があるのだがね・・・)

賃金的に言えば例外はレコード会社の連中くらいだったろう。
彼らの殆どは親会社が大手上場企業であり、その子会社でもあるため、賃金体系が全く違う。
現代でもレコード業界の**社は、業績に似つつかわしくないかなり良い給料をもらっているようだ。

当時の私は、好きな仕事としてやっていたので、低賃金でも我慢出来ていた。
また、いつか上に伸し上がってリッチになるんだ!というような感覚もあった。
競争の激しい音楽業界、芸能界だからそれが当然という空気はある。
しかし、競争が激しいのは別に音楽業界、芸能界に限らない。

私は40代になって音楽業界の外で働きながらかのエンタメ業界を見てきたので、いわゆる一般的な企業の雇用環境と比較できるが、音楽業界、芸能界は明らかにスタッフ労働者の人件費を他の業態に比べて低く抑えて成り立っている。

芸能事務所等で一般の企業並みの給与と待遇を得ようとしたら大手芸能事務所でも役職を得ないと難しい。
つまり、対価を刈り取るためには、ある一定レベルの地位に登りつめないとそれを得られない世界なのだ。
現場の下働きのようなレベルにいると、かなり良くても一般企業の5~7割程度だ。
(この業界の個人事務所となるともっと低い)
 
一部上場企業だと、業態にもよるが、40代前半で年収平均600~800万円程度だ。少なくともこのレベルを音楽、芸能業界で得ようとすると相当な地位か成果のある人間ということになる。 (大多数の中小企業の平均はこれの65%程度・・)

前述したが、音楽業界、芸能界はある種の「滅私奉公」に支えられている業界だ。
法律を逸脱した長時間労働を経営者が容認せよというのは積極的に「滅私奉公」を容認せよというのに等しい。それはつまり前近代的労働環境で我慢せいということだ。

さて「滅私奉公」をした労働者にはどんなメリットがあるのか?

僅かな確率の成功を得た人達には大きなメリットがあるだろう。
ただ大多数にとっては、価値観の問題は置いておくとして、殆ど無いと思う。
それどころが、自分が本来生み出す事が出来る対価(労働価値)をドブに捨ててしまっていると言って良い。
私もかつて好きで音楽業界で生きてきた。
低賃金でも構わなかった。
ただ、私のような特に取り得のない普通の人間が競争の激しい業界で生き抜こうとして、
思った成果を生まず、人生のかじ取りを誤ると、中年期以降、特に経済影響を被ることは確かだ。
実際私は、音楽業界時代に収入に問題もあり年金を積み立てて来なかったため、今になって苦労しているし、生涯賃金にしたって、40歳以降に転職した先でやっと人並みになったという感じだ。


私は松浦社長の主張する「好きで仕事をやっている人は仕事と遊びの境目なんてない。
僕らの業界はそういう人の「夢中」から世の中を感動させるものが生まれる。
それを否定して欲しくない。」という主張はある意味で、その通りだと思っている。

しかし、それを会社組織として従業員に対して共有するはちょっと筋が違う話だと思っている。特に上場企業においては。
そもそも「好きで仕事をやっている人は仕事と遊びの境目なんてない」は「個人が引き取る問題」だ。
職場が共有する話ではないだろう。
経営者が従業員に対して「好き」を理由に長時間労働を強いるのなら、いずれにしても法律の適用範囲でやらねばならない。
業界が特殊だから例外を認めろというのは法治国家としても経営者の考え方としてもそぐわない。
それでは会社や業態として成り立たないというのなら、法人としてやるのは無理なので、
全員個人事業者として働く業界に生まれ変わるしかなかろう。
いいとこ取りをして自分たちの業界にあった経営を成立させるというのは、社会規範を超えている考え方だと言われても仕方なかろう。

私の覚える違和感は、そういう部分なのだ。


長時間労働も必要なのか avex松浦社長「労基法批判」で大論争 
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161225-00000005-jct-soci

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:音楽

たばこに関する議論 [独り言]

たばこに関する議論

NHKのクローズアップ現代でもやっていたが、
オリンピックに向けての日本の喫煙規制が現実味を帯びている。
愛煙家には腹立たしいだろうが、規制に大賛成である。

喫煙を嗜好と片づける方々がいるが、公共の空間に継続的に他人を巻き込んだ負荷をかける嗜好というのは余り例がない。

酒も酔っ払いという負荷はあるが、避けることが可能だ。喫煙で排出される煙はそれができない。
また酔っ払いで当方が健康被害を受ける事はないが、受動喫煙の健康被害は立証されている。
受動喫煙が原因のガンで年間13,000名が死んでいるというのも本当か?と思うほどだ。

飲食店に入るとランチ時でも禁煙しない店が多く、また一緒に行く人が喫煙者という場合もある。

正直に言うと公共空間での喫煙は非常に迷惑だ。
服や体につく匂い、受動喫煙の被害など、電子たばこにしても同じ場所に居たくない。
たばこを吸う人たちは吸わない人たちへの配慮がないのだろうか?と思うほどだ。
だからどうしても喫煙する人がいる場所が避けられない場合は、マスクをして、自分で洗える服で行くことにしている。

喫煙規制は世界レベルで徹底的にやってほしい。
100歩譲っての提案は、喫煙者のみしか入れない飲み屋とか作って
その飲み屋は完全に密封し、空気も共有しないようなスペース、
もしくは排出する空気は完全清浄した後という感じなら良いだろう。

以前、たばこを吸う人と同居していた時期があったが、部屋中がタールで
黄色になってしまった。おまけに掃除しても取れない。

音楽業界にいた時、ミュージシャンやクリエイタースタジオや会議室で
タバコを吸うのを拒否できない環境は本当に嫌であった。

若い頃だったので気にしないようにしていたが、もうおっさんなので
自分の体の未来を考えても、そういう人たちとは仕事をしたくならない。
タバコ臭い楽屋や会議室も行きたくならない。

最近、女性の喫煙者は珍しくないが、子供を産みたいのなら喫煙すべきでないだろう。
医学的に見てもこの主張は根拠がある。
たばこ臭い女も好きじゃないし。
子供を産んだ人(旦那さんも含む)が子供のいる部屋で
タバコを吸うなんてある種の虐待じゃないかと思うほどだ。

そういう意味でスタバはいい。
ドトールのコーヒーは好きだが、分煙が怪しい。

吸うなとは言わない。吸うなら自宅か、決められた環境下だけにしてほしい。

ただ、小規模店舗の対応が、生活そのものを脅かすという部分は慎重な対応を要するだろう。
それでも時代はもう喫煙者と非喫煙者を混在させた生活を許さないと点において対応せざるを得ないだろう。 
 
 
 受動喫煙防止の波紋 小規模飲食店には厳しい条件 「店つぶれる」反対意見相次ぐ

nice!(0)  コメント(2)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問

年金に頼れない世代が下層老人にならないための30歳からの考え方 [独り言]

 
年金に頼れない世代が下層老人にならないための30歳からの考え方としての結論。
それは、今の10~30代の若い層は、「生涯年収」が死ぬまでの全ての可処分所得になる時代への準備をしないと大変ってことだ。 年金だけに頼れない時代はそういう事を意味している。
 
私は1959年生まれだ。
約40歳まで好きな仕事が出来てればいいやって感じで生きてきた。
23歳から41歳まで過ごした音楽業界は私には心地の良い世界だった。
しかしミュージシャンにしてもスタッフにしてもかなり実力と収入が比例する世界だったので、
実力不足の私のこの間の総収入は年齢平均ギリギリか若干下回っていたと思う。
収入が不安定な時期もあったので、常に短期的視点でしか人生設計を捉えることが出来なかった。
年金も未納時期が多く、受給資格を得るのは事実上困難な感じになってしまっていた。

41歳で音楽業界を辞め、運よく、とある一部上場企業に転職した私は、
それまでよりも若干収入が増えたこととや、相対的に音楽業界よりは労働時間が少なかったため
自分の将来について落ち着いて考えられるようになった。

ある日、私は自分が仮に80歳まで生きたと仮定して、同じ水準の生活をした場合、
一体幾ら必要になるのかエクセルを使って単純計算してみた。
まあ、計算するまでもないのだが、41歳時の年間支出を80歳まで続けると仮定し、
なおかつ、60歳で退職したと仮定しても数千万円以上必要であることを認識したのだ。
とても41歳時の年間支出なんて80歳の段階では不可能なのだ。

私は自分の老後設計について、初めて現実を知ったのはこの時だった。
背筋が寒くなった・・。

私はその当時、年金未納期間が多くあったために、受給資格はゼロだ。
(その後法改正で10年以上の支払いで受給資格を得られるようになったので月に数万円はもらえそうだが・・)
従って定年後までに、一定程度貯蓄をして、切り崩す形に持ち込むか、現役で同程度の収入を得られる仕事をしているかの2つの選択肢しかないということが分かった。現役で同程度の収入を得られる仕事をしているかについては相当ハードルが高そうだ。
また、引退後は、41歳時点の生活の70%程度もしくはそれ以下になりそうだということも分かった。
最も困りそうなのが住む場所の確保だが、音楽業界時代の低収入がアダになって手持ちの貯蓄が圧倒的に足りないということが問題だった。

普通のサラリーマンで1960年以前に生まれた人たちは、年金受給者になると1人当りだいたい17万円程度の年金を受給できる。夫婦で月額25万円程度だ。
余程の例外でもない限り、殆どの人たちは日常の生活はこの金額内に収めることになる。
貯金があれば、日常以外の支出に回す事が可能だ。
そしてこういうちゃんとした人たちはだいたい持ち家がある。
だから贅沢さえしなければ割合と普通に暮らす事が可能だろう。

私の場合、これに全く当てはまらない。
多分今の若者も私のような感じになるだろう。
私の場合、殆ど年金に頼れないため、生涯年収の中でやりくりするしかないという事だ。
しかし、生涯年収で老後まで生活を維持するのは相当大変なのだ。
現代において国民の平均的年収は480万円だ。35年働いても総額約1.7億円。手取り1.2億円。これで平均寿命まで食つなぐというのが日本国民の平均的人生設計だ。

そこで私は41歳から60歳以降の生活レベルを想定しながら、生活レベルをできるだけ抑え気味にし、
かといって貧乏臭くならず、そして貯蓄を徹底することにした。
40代~50代前半って、ある意味サラリーマンのキャリアの完成時期で、
支出的に自分の買いたいモノを買える年齢である。
私の友人は、独身貴族なんだから高級車を買ったり良いもの食べたりすりゃいいじゃん、などと
けし掛けたのだが、私は元来買い物が好きでもないし、欲しいものもカメラ位と、
あとはコンサートに行く位だったので、支出的には30代前半のままを維持できた。

そして私が家計簿をつけ始めたのはこの時期だ。
自分の収入と支出を自分に沁み込ませるためだ。

そしてそれから16年が経過した。

60歳で定年したとして、私が安心して平均余命まで生きるには、どうやら最低でも65歳、出来れば古希近くまで何らかの仕事をしていないとならないようだ。
それで定年直後に露頭に迷う事だけは何とか避けられそうだが、年金だけでは全く生活できないし、
貯金の切り崩しは必ず預金残高の終了日が来てしまうため、やはり退職後の自分の労働場所にも配慮して
生きて行かねばならないのだ。

私の古巣の元音楽業界人には大金持ちと貧乏人しかいないようだ。
嘗ての私と同じように好きな仕事だから辞められないという考えで
キャリア設計を上手く組み立てられなかった人たちは総じて貧乏人になっており、特に老後の生活設計が悩みの種なのだ。

特に40歳を過ぎてからの転職は、人生のその後を決定してしまうため、相当な覚悟でやった方が良いです。
私は幸運にも一部上場会社に潜り込み、比較的恵まれた職場環境で過ごす事が出来たので、
社会人前半の収入ロスの一部を取り戻す事が出来たが、
それでも社会人前半の収入ロスの影響は大きく、
古希まで働かないといけないような現実を突き付けられているのです。

困ったのは何歳まで生きるかが不明なのと、いつまで健康でいられるのが何年かが判明しない点です。

現代を若者として生きる皆さんに言いたいのは、人生はある程度自分の意思で設計を必要とするという現実だ。
官僚連中が国の金を横取りして天下り先を作って結構な年齢になっても働ける労働場所を確保しているが、
頭のいい奴ってのはそういう事まで良く知っているんだなと分かる。

そういう意味でも年金だけでは暮らせない時代の方々は生涯年収が全てになってしまうため、
早めに対策を打っておいた方が良いというのが本文の趣旨であります。
私はギリギリでしたがね・・・・。









nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問

ドキュメンタリー映画『Demain(明日)』を見よう!(と思っている) [独り言]

フランス話題のドキュメンタリー映画『Demain(明日)』が日本で公開されるようだ。
メラニー・ローランさん(女性)とシリル・ディオンさん(男性)という
共に30代の二人の映画監督による作品らしい。
TBSラジオの森本毅郎氏の番組で紹介されていたが、映画製作のきっかけはローランさんが妊娠している時、
2100年には人類のほとんどが滅亡する、という研究結果を知ったことであったという。
子供達の世代は、水やエネルギーに乏しい環境に暮らす可能性がある事実に戦慄したようだ。

そうなんです。私、独身で子供がいないのですが、子供を作る気持ちに全くなれなかったのは、
未来の状況が人類にとってかなりの困難が予想され、そこに自分の子孫を残す事をためらったからでした。
(それでも未来の人類が皆で問題を乗り越えられるかもしれないという希望は捨ててないのだが・・)

今の若い人たちの中からこうした恐れを抱く人たちが出て来るのは自然な事でしょう。


映画『Demain(明日)』はこれを書いている時点では見ていないので、映画へのコメントはできないが、
未来永劫人類が生きてゆくために、絶対条件は既にハッキリしていると思っております。

「地球環境に出来るだけ負荷をかけず人類の生活を営む」ということです。

しかし、上記の一行を実行するのは難しい。

でもそれを行わないと未来の人類は果てしない苦難の道を辿ると思っております。

悪貨は良貨を駆逐するではありませんが、人類の一部がこの思想と外れて勝手気ままな生活を営めば、
残念ながら未来の人類は果てしない苦難の道を辿るでしょう。
つまり、上記テーマは世界が一丸となってやらなければ解決できないのです。


私個人の感覚ですが、既に人間社会は必要以上に便利です。
経済や効率の観点とは真逆な発想ですが、持続可能な社会維持のためには
実は不便にした方がいいと思ってます。
またインフラ整備の環境も居住地の集約化等で整理統合しないと持続した社会を維持するのは
困難でしょう。

現代は必要以上にモノにあふれております。
食料にしても水にしても財にしても人間が一生を送るには過剰なほどのモノに囲まれております。
これは人間の欲との闘いなのでしょうが、冷静に考えればこれほど多くのモノは不要でしょう。

また、我々は処理できない以上の情報に囲まれております。
ネット社会の利点はよく理解しておりますが、
情報を得るためにかかっている負荷について考えるべきでしょう。

昨今シェアービジネスが活況を呈してきておりますが、私的使用を整理し、
公共利用で賄えるシステムを構築すべき時代が普通にならざるを得ません。
そうなると経済的な影響を無視できませんが、地球が維持できる人口のサイズに限度がある訳ですから、
経済が永遠と伸びると考えるのはむしろ変で、どこかにある均衡点でケリを付ける必要があります。

現在の人類はリサイクル不能なものによって命脈を保っております。
原子力発電はその最たるものですが、明らかに自然の成り行きと逆行するものに
依存し過ぎており、経済を維持するために離脱することが難しい状況です。

私の言っていることは現状では夢想に近いかもしれません。
しかし映画『Demain(明日)』のメッセージは私の言及していることに近いでしょうし、
正しいビジョンだと思っております。

人類が瀬戸際に追い込まれる前に実行できれば未来はあると思いますが、
それは未来を生きる現代の若い人たちに託されており、
我々の時代の人間がその先鞭をつけるべきと思っております。