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大きなお世話だと理解しているがオフィス北野・森社長の適正報酬額とは? [独り言]

大きなお世話だと理解しているがオフィス北野・森社長の適正報酬額とは?


オフィス北野の騒動もやっと沈静化してきた。



オフィス北野・森社長、自らの報酬既に大幅減額 軍団ととも新体制で立て直しへ
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180409-00000241-sph-ent


経緯については以下のまとめサイトが詳しい。
http://clippy.red/entertainment20180405-2/



今回、軍団諸氏のSNS上の書き込みや発言でオフィス北野の経営状況が露出してしまった。
大物タレントさんのいる事務所としては異例の事態だ。


■ダンカンさん公表による「オフィス北野」の業績:

ダンカンさんによると売上の8割はたけしさんだそうです。

2012年 売上24億4500万円 利益2800万円
2013年 売上23億6100万円 利益9600万円
2014年 売上24億2300万円 利益4900万円
2015年 売上24億4500万円 利益5600万円
2016年 売上25億9300万円 利益1億1700万円
2017年 売上約24億円 マイナス500万円の赤字


上記の利益とあるのは営業利益の事だろう。
2012年度から2016年度までの5期は黒字、2017年度には僅かに赤字だ。


いずれにしてもオフィス北野の企業規模は24~25億円で、営業利益率は1%~5%程度となり、
企業としての利益率は決して高いとは言えない。
さてこの規模の企業のトップ経営者の報酬額はどの程度が適切なのだろうか?

今回の騒動で森社長の報酬が1億円に近いと暴露された。事実かは分からない。
ただ近い関係者の情報としてこの金額を参照するしかない。

さて、果たして彼が受け取っていたこの報酬は、
この会社の規模として適切だったのかを検証してみたい。

大きなお世話だと思っているが、頭の体操としてやってみた。


まず、比較対象がないと適正かが分からない。
そこで一部上場企業の経営者(代表取締役社長)で1億円以上を受け取っている企業のリストは以下にある。


なお、1億円周辺というレベルになると上場企業の500位程度のランクになるようだ。
さてこれらの企業の経営規模はおおざっぱに拾うと以下のようなものだ。


アシックス:売上4,000億円(連結) 営業利益195億円。
マブチモーター:売上1,469億円 営業利益240億円。
ライオン:売上4,100億円(連結) 営業利益270億円。
カルビー:売上2,520億円(連結) 営業利益288億円。
ミクシィ:売上2,007億円(連結) 営業利益89億円。



上記を見ても判るように、一部上場企業の経営者(代表取締役社長)で1億円程度を受け取っている人たちは
例外なく売上が1,000億円以上(連結)の規模があり、50億円以上の営業利益を出している。
実際、私がかつて所属していた企業は、売上1,000億円で営業利益が100億円程度だったが、
社長の報酬は1億円には遥かに届かないと理解している。


さてこれらと比較して24~25億円の企業の社長が1億円近い報酬を取っているのはどのように映るのか?


上場企業と違い、個人商店のような会社の場合、特に経営層の報酬制度は恣意的になりやすい。
上場企業の場合は、外部取締役を入れての報酬委員会があり、一定の範囲で管理されているが、
芸能界の事務所の場合の多くは非上場企業であり、報酬ルールの規定が曖昧になりやすい。
それでも株主はいるため、本来は株主総会を開催して議決するべき内容だ。

これはあくまでも個人的な意見だが、「オフィス北野」の業績を鑑みた場合、社長の報酬として適切だと思われるのはかなり上限値としてみても年収1,000~2,000万円程度だろう。
また2017年度がマイナス500万円になっているが、経営陣が一部報酬を返上すれば会社を赤字にするこはなかったのは明らかだ。

会社に赤字があると資金調達が困難になりやすい。それでも法人税を考えて赤字にしてしまう中小企業があるが、大抵の場合家族経営のような場合が多い。

通常会社を赤字にすることは経営者としての能力に疑念を持たれる端緒になるが、
500万円程度なら経営努力でいかようにもなる数字だ。
オフィス北野の社長が1億円近いということは副社長、専務クラスは数千万以上と推定でき、
報酬総額が営業利益を大幅に上回る事になりちょっと適切とは言い難いだろう。

また経費も比較的自由に使える立場であるだろうと推定され、
そうした金額を含めるとかなりの額を裁量できたと考えられる。
500万円程度の赤字なら資産売却や報酬カットで対応できそうだが、
それらをしなかったのだろうか?


週刊新潮には森社長の以下のようなコメントが掲載されていた。

「きっかけは、1994年にたけしさんが起こしたバイク事故。
『この業界はいつ何が起こるか分からない』という教訓を得た。
その思いから払えるときに払っておかないと、いつ従業員に十分な手当をしてあげられなくなるかわからない。
したがって経営が上手くいき黒字が出ているときはなるべく従業員への
給与・賞与を多くしそれが従業員のモチベーションにも繋がるし、ひいてはいい人材を集めることにもなると考えた」



なるほどと思わせる内容だ。

これを読むだけで感じるのは森社長には従業員思いの優しさがあるという事だ。
しかし違う言い方をすれば、『この業界はいつ何が起こるか分からない』ということなら、
会社を永続的にさせるため、経営者として何をすべきだったかについても思慮が必要だったという事だろう。
残念ながらオフィス北野は北野さん以外に大玉のタレントがいない。

ひょっとしたら森社長は北野さんの一代限りの事務所と割り切っていた部分があったかもしれない。

北野さんという希代に才能が君臨する事務所であるため、
北野さん抜きで新しいタレントを育成し難かったのかもしれない推察はできる。
それでも従業員や所属タレントの未来・将来を見据えるなら、新しいタレントの育成や新しいビジネスの構築が
必要だったかもしれないと思うし、北野さんのいない時代への準備も必要だったかもしれない。
いずれにも経営者の仕事である。



業態は違うが、ソニーと比較してみよう。
2017年度の営業利益は約6,500億円(予想)で、社長の報酬は5~7億円程度だとされる。
営業利益に対する社長報酬率は、0.001%程度だ。
(企業規模が一定以上に大きいと利益と報酬の比率が極小的に変動する事実があることは記しておく)

ちょっと乱暴な計算方法だがこれをオフィス北野に対してそのまま当てはめてみると、2016年度でも117万円ということになる。
ミクシィと比較してみても140万円程度しかない。
単純な数値比較の計算からだとこういうことになる。

つまり事業規模がないと高額報酬は経営に相当な負荷をかけてしまうということを理解して欲しいのだ。
役員報酬を含めた人件費の比率のあるべき料率は事業規模に関わらずある程度の範囲が決まっている。

たけしさんが辞める前の段階においてこれが経営上、適切な範疇だったかは検証しておいた方がいいだろう。
(誠にお節介な話だというのは理解して書いております)


さて、私の知り合いの会社を例の取って比較してみよう。
彼の会社はオフィス北野と殆ど同規模売上と利益で経営をしているのだが、
友人である社長の報酬額は約1,000万円だ。
1例だけでは全てを語れないが、つまりこれがこの規模の経営者の市場価値と言えるのだろうと思う。

従って前述した年収1~2,000万円を報酬として得るためには現在よりも
大きな利益を会社に残す経営が求められるというのは想像に難くないのはお分かりだろう。


上場企業であれば本部長クラスで年収2,000万円はいるが、そのクラスになると部門だけで50~100億円以上を売上、営業利益も数億~10億円単位をたたき出すレベルだ。

従ってこれまでの森社長の1億円近い報酬が事実ならば、明らかに企業経営の規模に対して
かなり大きすぎると結論付けるしかないだろうと思う。


今後たけしさん抜きで、タレント数も減った会社での経営となれば、売上、利益共に激減することは想像に難くない。
仮に売上3億円、営業利益3,000万円程度だとすれば社長報酬の上限は700万円~1,000万円程度が妥当と言っていい。
芸能界の社長は激務なので少ないとも言えるが、報酬金額を上げるには経営の規模を拡大するしかないのは世界中同じだろう。


通常経営者は利益に対して報酬が設定されるのが一般的だ。

従って報酬のベースラインを決め、利益と報酬を連動させる設計をしておけば、
経営者としてもインセンティブが働くということになる。
たけしさんの離脱は経営的には大きな危機だが、これを期に新たな体制で会社を作り直すという事も可能であり、是非挑戦して成功をして欲しいと感じている。


今回の騒動の情報を見て、ふとそんな事を思った次第だ。



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音楽著作権侵害裁判で活躍する「音楽分析官」とは? [独り言]

 

以下は、ネット版ローリングストーンズ誌の記事の一部を翻訳したものだ。

 

本来は記事の翻訳行為は翻案権を必要とするが、一定範囲内の引用をした上で評論すれば著作権法上の問題ないのでその体裁で本記事を書く。

 

元の英語の記事:

https://www.rollingstone.com/music/features/music-copyright-after-blurred-lines-experts-speak-out-w518206



ここに記載されている内容の概要については、日本でも報道されているが、その詳細な中身までを解説した記事は見当たらない。なのでここで書いてみようと思った。

この裁判は今後の作曲家や作詞家に少なくないだろう影響を与えるだろうし、特に日本の作品がアメリカ側の視点で引っかかったら相当な損害になる事は火を見るよりも明らかだ。実際日本のヒット曲のネタ元はアメリカの作品が多いからだ。
そういう意味に日本の音楽業界人は注意すべき内容だと思う。

 

まず本記事の趣旨は、①"Blurred Lines"という楽曲に対してMarvin Gayeの遺族が著作権侵害で訴えた事、②音楽分析学という職種がクローズアップされたこと、③更に著作権侵害には「曲の雰囲気」や「イメージ」が含まれるという驚愕の判決が下った3点だ。



(記事引用)

2015年3月、陪審員らはRobin Thicke, Pharrell WilliamClifford "T.I." Harrisらに対して彼らが作曲したという"Blurred Lines"Marvin Gayeの古典的名曲"Got to Give It Up,"の著作権を侵害したと評決を出し、Marvin Gaye側は、数億円の富を得ることになった。しかし、音楽業界関係者によれば、"Blurred Lines"の3月の上訴審での判決は、音楽分析学(forensic musicology)という小さな分野で働いている人々のより大きな影響を与えるだろうと言っている。

この論争が始まって以来、人々はforensic musicologist(音楽分析官)という仕事が一体何であるのかを知りたがっていたと、20年に渡ってこの分野で働き"Blurred Lines" の事件でも専門家の一人として携わり、Sandy Wilburは語る。

「この2年間は私にとって一番忙しい時期だったよ」。

 

彼を忙しくしていたのは、"Blurred Lines"のように明確な著作権違反がメディアに煽られたことによるものであったことは疑いの余地がない。
イギリスのロックバンドであるLed Zeppelinの“天国への階段”のように音楽分析官の助けによって著作権裁判に勝って逃げ切ったようなケースもあった。

しかし、、"Blurred Lines"の評決は、音楽業界に対して創造と模倣の線引きがどこにあるのかについて非常に大きな不確実性をもたらしたといえる。

また法廷弁護士や音楽分析官もどきの連中たちは、こうした流れを新しいビジネスに変えようとしていた。

 

記事はMarvin Gayeの遺族がRobin Thicke, Pharrell WilliamClifford "T.I." Harrisらに対して彼らが作曲したという"Blurred Lines"Gayeの楽曲の著作権侵害をしていると訴え裁判に勝ったというものだ。

ここで現れたのが聴きなれない業務をしている人間だ。英語ではforensic musicologistと書いてある。Forensicとは鑑識を指し、musicologistとは音楽分析をしている人のことだ。そのため私は音楽分析官と訳しておいた。日本には公式には存在しない職業で、私もこの記事で初めて知った職業だ。

 

音楽分析官についての記事(英語):

https://www.theguardian.com/money/2015/jan/20/how-become-forensic-musicologist

 

上記の記事を要約引用すると、音楽分析官とは、作家や音楽出版社への楽曲に関するアドバイス、また著作権裁判になどにおいては対立する楽曲を分析し、類似や相違を科学的、音楽的に行いコンサルタントを行うのが仕事だ。過去から現代に至るまでの幅広い音楽知識や広範な教養を必要とするとのことだ。


さて本編の記事を読むと分るが、今回の分析には驚くべき内容があった。

 

(記事抜粋引用)

'Blurred Lines'の判決以降、弁護士のクライアント(ミュージシャンたち)から“(自分の)この曲はあの曲に似ていると思うがどうか?”という電話が増え始めたとL.Aでエンタテイメント専門の弁護士としてDanger Mouse Public EnemyChuck Dら の著作権関係のクライアントを務めているKenneth Freundlichは語っている。

この事件がキッカケで、音楽分析系の仕事が激増したよ。

 

イギリスにあるボストンバークレー音楽院のJoe Bennettの説明によれば、表面的に言えば音楽分析官の仕事は2つの曲を具体的に比較する事が仕事で、第一に、“客観的な類似性”、第二に著作が持つ“雰囲気の類推“を行うことだ。

音楽著作権に関する訴えがあった場合、原告被告の双方は普通音楽分析官に電話をし、問題の2作品を分析し、歌詞、メロディーやリズム、アレンジや演奏、コード進行やハーモニーに至るまでの詳細を調べる。もし不明瞭な疑義が生じれば、スペクトラム分析を実施してデジタルの指紋ともいうべき2曲の波形を見て解明を試みる。

 

音楽分析官の仕事とは、原曲と新しい曲をあらゆる部分(メロディー、歌詞、リズム、コード進行、雰囲気)で比較して類似性を探し出すことだという。また不明瞭な部分は波形を使った比較を行うという。こうした仕事には専門的な音楽素養が必要であるという。

さて、実際に裁判ではどのような分析になったかが興味深い。

 

(記事抜粋引用)

実際"Blurred Lines"のケースでは予想外の展開があった。
音楽業界の専門家によれば、陪審員は、2曲の間の二次的な類似性を根拠に、通常の法律上保護されている歌詞やメロディーやその他の要素ではなく「ノリ」と「感じ方」を法律的に認めたかのように(判決を)行ったと語る。

 

"Blurred Lines"の被告側の証言をしたWilburは、'Got to Give It Up'のどのパートと比較しても2音連続で同じ音符は無かったと語った。

上訴審においては2対1で、3人の裁判官のうち1人は我々の主張に完全に同意してくれた。彼女は私と同じように、この判決によって「ノリ」と「感じ方」が著作権侵害の要素になってしまうことに恐れを抱いていた。

 

ここで問題になっているのが、科学的に定量的に推し量れる証拠ではなく、定性的で感覚的な部分が証拠に採用され判決が下された点だ。これは日本の著作権訴訟における判決とは異なる部分だ。

日本において有名な裁判は「記念樹裁判」だ。

「どこまでも行こう」という楽曲の後発となった「記念樹」という楽曲がどこまでオリジナルでどこまでが著作権侵害なのかを争ったものだ。この裁判の記録を読むとかなり科学的に煮詰めた領域に限って検討されており、両曲の音符の類似性を数値化して判断している。
従ってアメリカのように「ノリ」と「感じ方」は証拠として一切採用していない。
日本での裁判は「記念樹」に剽窃を認め、原告の「どこまでも行こう」が勝っている。

アメリカの判決のように「ノリ」と「感じ方」が著作権侵害の要素とするならば、リズム構成、テンポ、楽器の使い方などを分析すれば説明できる。何となく似ているではなく、ここは似ている、ここは似ていないを裁くのが裁判ではないのだろうか?と思うが、アメリカは陪審員が評決を出すのでどうしてもそうなるのだろう。

さてアメリカの裁判に関わった関係者の一人はこう語っている。

「私はアーティストは賞賛に値すると思っています。ですから彼らと同じような感覚やスタイルを踏襲したいと思うでしょう」

しかし彼はこのように付け加えた。

「そのことで私は訴えられるのでしょうかね?」

 

この人物の言いたい事は誰の影響も受けずノリや雰囲気も全くオリジナルの音楽以外は存在できないという意味なのか?という事だ。


 

(引用記事)

不確実性のためにアーティストたちやレコードレーベルは作品をリリースする前に著作権侵害のリスクの可能性について、これまでになく作品の鑑定を強化する必要性に迫られている。

'Blurred Lines,のケース以降、やり方が全く変わってしまった。レーベルの側が自分たちで楽曲の鑑定が出来ないようば場合、私に依頼するケースが増加している」とWilburはいう。

「楽曲が発売される前の段階で、その楽曲が他の曲と似ていないと証明することを求められるのさ。レーベルの連中は相当慎重になっているよ」と付け加えた。

"Blurred Lines,"以前は、発売前の楽曲のリスク評価などという事は聞いたこともなかった。だが、レーベルや映画スタジオで働く音楽分析官たちにしてみれば、以前に比べて格段に神経質になっており注意を払っているという。

「音楽分析官が分析に関わる前に、法的な問題がありそうな楽曲は、実際に対応可能な反論や問題があるかどうかが分かります。 今のところ非常に曖昧さが多いのです。コード進行に似た点はないが、他の曲と雰囲気が似ているような場合、(曲の雰囲気を)変える選択をした方が無難ということになるのです。」

 

判決が混乱を与えているのは明らかに定量的ではない部分が違反だと言われているからだ。ノリや雰囲気が著作権侵害であると言われれば、ロックンロールやブルース、ジャズなどの定型化されたジャンル音楽は全て著作権違反という事になりかねない。そういう意味でこの判決が今後著作権侵害のスタンダードになるのかは微妙だ。

Gayeの裁判では遺族側が勝訴をしたが、だからと言ってGayeの音楽が全く過去の作品やアーティストから何の影響も受けずに全てがオリジナルだった訳ではない。極論すればJAZZやリズムアンドブルース以降の音楽の全ては何等かの意味で過去の作品やミュージシャンの影響の上に成り立っている。
実際完全なオリジナル作品の方が皆無と言っていいだろう。それでも影響下の中に個々人のオリジナリティーを発揮し、ポピュラーミュージックは成立しているし、適度な影響であれば問題ないとしてきている。

そういう意味で記事の最後の言葉が一番腑に落ちるという感じがした。

 

もし'Blurred Lines'の裁判が正当化されたとすれば、ほとんど全ての楽曲に対して訴訟が起こるだろう。つまり全ての楽曲は他の楽曲と繋がりがあるからだ。だって我々は皆、過去の音楽に影響を受けているからね。

 

この文章の言う通りだと思う。

人間が通常で歌える音域は2オクターブもない。つまり鍵盤24個分にも満たない中での順列組み合わせがメロディーの持つ数的な限界だ。その中で人間が良いメロディーと感じる音符の組み合わせ数は更に限られてくる。
全世界に数十億人がおり1950年代以降のポップミュージックの隆盛から約60年を経て似たようなメロディーに全く出会わない確率の方が数学的にあり得ないだろう。その限られたパターンの中で人間的なオリジナリティーがせめぎ合う。ミュージシャンは音楽の可能性は無限というが、表現的な可能性はともかく、音符の順列組み合わせには自ずと数学的限界があるのは自明の理だ。

楽曲の著作権侵害は剽窃の度合いの認定が難しい分野だが、結局は定量的な見地で判断するしかないだろう。
前述したように定性的(ノリや雰囲気)を主眼にすれば、JAZZやリズムアンドブルース、ロックンロールなんて全て著作権侵害になってしまう。Chuck Berryの"Roll Over Beethoven"とThe Beatlesの”I'll saw her standing there”を比較してThe Beatlesが著作権侵害をしているかを考えてみればそのおかしさが分かるだろう。

"Blurred Lines
“を聴いてみたが"Got to Give It Up,"を下敷きにしたのは確かだろう。あれを完全な新作でオリジナルだというのは確かに言い過ぎだと思う。

しかし何をもってオリジナルと言えばいいのか難しい。先のChuck BerryとThe Beatleだけを見ても楽曲だけにフォーカスを与えれば、この世のほとんどの楽曲が孫、ひ孫のようなものだからだ。Marvin Gayeにしても過去の作品や音楽の歴史に支えられて上で音楽を構築していた部分があるだろう。Marvin Gayeの全ての作品が全く過去の下敷き無しで作られたはずもなく、Marvin Gayeだってそういう仲間の一人なのだ。そうなると"Blurred Lines“が"Got to Give It Up,"に似ているのは著作権侵害と言えるほどの罪なのか?という話にもなる。

Chuck BerryとThe Beatles、また他のロックンロールやブルーズなどを含め、俯瞰的な議論が必要だろうと思うが皆さんはどう思いますか?


そういう意味で、影響を受けた作品と影響を与えた作品の線引きは難しく、お互い様と割り切った方が建設的なのか?それとも、曖昧な線引きを見える化するために裁判で決着をつけるのが良いのか? 

これからますますオリジナルを名乗るのが難しい時代に何らかのルール化が求められる時期なのだろうと思う次第だ。


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佐藤千恵さんという女性が生きた1960~1980年代時代 [独り言]


私以外の人で佐藤千恵さんと言われてもピンとくるはずもない。
同姓同名は多いのだが、私にとっての佐藤千恵さんは「あの人」しかいない。

私や友人たちは、彼女の事を「千恵」と呼んでいた。

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1988年3月26日、午前7時30分、佐藤千恵さんは上野の永寿病院で逝去した。
享年28歳。
病気を患ってのことだった。
エネルギーの塊のような人だったから、
もっと生きたかっただろうと思う。

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当時の私は、神様とは残酷だな・・と思った。

彼女は私が大学時代に知り合った友人で、大学時代の私に多くの影響を与えてくれた人物だ。
当時の私にとって彼女はある種の「ディーバ」であり、自分とは次元の違う感覚を持った人物だった。
本当に興味深い人だった。

千恵さんが亡くなってから2018年で30年が経過するが、今でも時折彼女の事を思い出す。
元気印の千恵さんが今でも生きていれば58歳になっていたはずだ。


佐藤千恵さんが58歳になっていたとしたら今頃何をしてどのように生きていただろうか?と思う事がある。

きっと素敵な熟女(笑)になっていただろうと想像する。

さて、時は1988年3月21日に遡る。
当時学芸大学の目黒郵便局裏にあった私が仕事をしていたオフィスに千恵さんの友人のAMさんから電話連絡が入る。この日は祝日だったが私は仕事で事務所にいた。

電話の内容は千恵さんが危篤だという知らせだった。

電話を切ると私は群馬の友人H君に連絡を入れて事情を伝えた。


実は、彼女はこの2年以上前から病気と闘っていた。
彼女が相当深刻な状態だというのを知ったのは、その前々年の1986年12月に京都大学病院に入院し手術をすると聞いた時だった。
これを知ったのは祖師ヶ谷大蔵で行きつけだった平八という飲み屋のマスターからだった。


実は彼女は1985年に結婚をしている。
旦那さんは赤坂にあったレストランで料理長をしていた人物だ。
現在その店はないが、銀座には本店らしき店があるようだ。
彼と私は大学時代に千恵さんを通じて知り合ったが、
結婚後の彼女が私や他の男友達を連絡を取り合う事を良しとしておらず、
我々は結婚が決まった時期を境にしてちょっと微妙な関係になっていた。


しかしその日は意を決して旦那さんの自宅に連絡を入れ状況を把握するに至った。

聞かされた状況は私の想像を超えていた。

その直後、京大付属病院に入院していた彼女から1通の手紙が届いた。
手術が12月10日頃に行われることなどが書かれて、
先々の希望にも満ちていた。
その手紙は今でも手元にある。


実は手術の内容とは体の一部の切断だった。
私はそれを知り、身が引きちぎられるような気持ちになったのと、
残酷な神の差配を恨んだ。
そして年末で慌ただしい世間をよそに雪深い京都に立ち寄り彼女を大学の友人S君と2人で見舞った。

正直見舞いに行くこちら方が辛いような気分でもあったのだが、病室の彼女は気丈でそれだけが本当に救いだった。
それでも体の一部を失った千恵さんが辛くなかったはずはない。

しかし彼女は私たちとの会話の中でネガティブな事を一切言わなかった。
あれが彼女の強さであり素晴らしさだろうし、私が彼女に羨望を向けた部分かもしれない。
(内心は辛くて苦しかったに違いない・・)


病気の発端が何だったのか?は分からない。

彼女は体の一部にちょっとだけ大き目のアザがあり、以前からそれを気にしていたが、
ある時それを除去する手術を受けたようだ。
病気の発症とアザ手術の因果関係は分からない。

それでもこれが何等かの起因だったかもしれないと今でも思っている。



京都への見舞いの翌年、一度だけ彼女の自宅(つまり旦那さんとの住居)を訪れたことがある。
彼女から来て欲しい連絡があったからだ。この時期彼女はリハリビをしており、時折街に出る事もあったと聞いていた。
当日、旦那さんは仕事でいなかった。

旦那さんと私や私の男友達とは微妙な関係であることを知っていたから、
そうした時間を避けるようにして出かけたと思う。
時間は彼女の指定だったかもしれない。


部屋の中の彼女は寝室に引かれた布団に一人で横たわっていたが、病気の影響は傍目にも分かるほどだった。
目の前の彼女の様子は、もうリハリビや街歩きができるような感じではなかった。
ほんの数日前、吐血したことも教えてくれた。
正直辛い気持ちで一杯になった。

「頑張れ」って言葉があれほど無意味な言葉だというのは初めて知った。

この頃、彼女は自分の寿命を悟っていたのかもしれない。
だから私を呼んだのだろうと思っている。
呼んだとしたら私だけではないだろうが、かつての友人たちは大学卒業でバラバラになっていた。


この時も辛いとか何だとかは一言も口にしなかった。
吐血の事もちょっと他人事のような口調だった。


また大好きな酒を私と一緒に飲めるようになるために頑張るよって言ってたな。

彼女との生前の会話はこれが最後になってしまった。


彼女と最後に面会したのは永寿病院の病室だった。
事務所で危篤の報を受け取ってから出かけたはずなので、3月22日だったろうか?
群馬の友人のH君も一緒だったはずだ。

彼女の自宅に赴いてから約6か月程度の期間が開いていただろう。
明けの正月には年賀状が届いていたので、少しづつ元気になっているのだろうと勝手に思っていた。
そのため3月21日の危篤の報には驚きを隠せなかった。

病室のベッドに横たわっていた千恵さんは機器や管に繋がれた状態でかなり意識が混濁しているような感じだった。
私の預かり知らぬ間に彼女は状態を悪化させ死の淵にいた。

ホンの一瞬だったが、ベッドで寝ていた千恵さんがグワっとしたような感じで瞼を開け、私と友人のH君らと視線が合った。
そして私の方に向かって千恵さんは私たちに手を伸ばすような仕草をした。
名前を呼んだがそのまま力尽きて目を閉じて気を失うように眠りについてしまった。

私にとっての生前の彼女の姿はそれが最期となった。

この時点でもって数日だろうと言われていた。

私は友人が死に向かっている姿を目の当たりにしながら、自分の心のどこかが冷たく死んでゆくのを感じていた。


危篤の報から5日目の1988年3月26日朝、私は経堂の自宅のアパートの部屋で何かに引き込まれるような感覚で目を覚まして、目先にあった時計を見た。

7時30分だった。

そしてその直後の7時35分頃、自宅の電話が鳴った。

ずっと病院に詰めていた女性友達からASさんだった。
千恵さんの逝去を知らされた。
午前7時30分だったそうだ。


あの感覚は何だったのだろうか?と今でも考える。

死に行く彼女は私やH君にお別れの挨拶に来たのだろうか?と・・・。
私はこの摩訶不思議な感覚を経験した事はそれ以来一度もない。

だから「魂」はきっとあるのだろうと思っている。


死去の翌日には告別式、その次の日に葬儀が行われた。
千恵さんの旦那さんが喪主だった。彼とは本当に久しぶりに会った。
我々と彼との間には微妙なものがあったが、当然だが葬儀ではそうした感情は封印されていた。
彼とは会話らしい会話もしなかったと思うが、彼の悼みは良く理解できた。
彼も私たちと同じで千恵さんのことを大好きだったからだ。


遺体が焼かれ骨になった千恵さんと対面した時、言い知れぬ寂寥感があった。
ああ、もうこの世に戻ることはないんだな・・という感じだ。
欧米の埋葬の風習に火葬が少ないのは、そういう感覚があるのだろうと思った。

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彼女の白黒写真の遺影がどこか私にリアリティーさを欠く感じに映っていた。

大学時代の友人やその他の関係者で骨を拾い骨壺に入れた時は悲しみを通り越していて
感覚が無かった。
あんなに元気で美しかった彼女がこの世から忽然と消えてしまった・・、そういう感じだった。

葬儀の間、私は全く泣けなかった。
悲しいという感覚を超える感覚はあれが初めてだったかもしれない。
悲しすぎて泣けない・・、そんな感じだった。
もしくは現実であることを私の内面が拒絶していたのかもしれない。


時折彼女を思い浮かべ、楽しく過ごす事の出来た大学時代をパステルカラーのような景色の中に蘇ることがある。私の学生時代、あんなに印象的な女性はいなかった。


彼女は現在でも初婚相手の墓地に埋葬されている。
埼玉県東松山市にある昭和浄苑内だ。
彼女の墓参りはこれまで何度か友人としている。
それでも決して私の住まいから近くないこともあり、ここ16年ほどは行っていない。


結婚相手の旦那さんはその後再婚しているようなので、
彼女の遺骨は実家の墓に戻せばいいだろうとも思うが、
私の出る幕ではないからそういう意見だけを述べておく。


あれから30年が経過し、私も58歳になった。
切りもいいので2018年3月中に彼女の墓参りをしようと思っている。
彼女の誕生日が3月だからだ。同じ58歳同志で話もしてみたいじゃないか。
群馬の友人で元カレのH君も同意してくれた。
H君は大学時代の友人で唯一定期的な連絡を取り合う仲だ。


この記事を書こうと思ったのもそんな時期に合致していたのは偶然とは言え奇遇だ。
千恵さんが天国から呼びかけていたのだろうか?

私が大学生だったのはまだネットも携帯も無い時代。
従って彼女の個人的なデータは現在のネット上には全くないだろうと思う。
実際検索しても彼女の情報は皆無だ。

彼女の声やしゃべり方は今でも私の耳に残っている。
スマホで動画が簡単に撮影できる時代なら、沢山の想い出を動画や音声で残していただろうし、その記憶を再確認出来ただろう。
しかし1980年代初頭ではそれは叶わぬ時代で、彼女の動画や音声は全くなく、写真と記憶のみだ。

そして考えた。

それなら私が残してあげればいいだろうと。


だからここに「彼女がこの世に存在した記録」を残すことにする。

佐藤千恵さんは確かに1988年3月26日まで存在していたのです。
タイムスリップして彼女に会えるなら、やはりあの話をするだろう。


例のアザは手術するな・・と。

少なくともそれをしないチャンスがあれば違う人生があったかもしれないと・・考えてしまう。


これから書く事は1979年以降に起きた私と千恵さんと彼女の友人たちの想い出話だ。



佐藤千恵さんは静岡県磐田市出身だ。
1960年3月10日生まれだ。
自営業の家庭で、地元もで名士の家だ。
一度だけ彼女の実家に行ったがいわゆる裕福な家庭の子だ。

私と彼女の出会いは、1979年、大学時代に遡る。

当時大学二年生だった私は、学校の喫茶室に目立った女子集団がいることを知っていた。
女子集団は美形揃いだし、品も良かった。
しかし彼らと共通の友人もおらず、なかなか知り合う機会が無かったのだが、
とあることから友人を通じてやっと彼女たち一群を知り合うようになった。
その中に佐藤千恵さんがいた。


当時の彼女は、ファッショナブルで、モデルような体形をしていて、また誰彼構わない交友範囲の広さを誇っていた。

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(上の写真は確か、アクアスキュータムのコートを買った

直後の写真だったと思う。当時相当お気に入りのコートだった。

そのメーカーが現代になって倒産の憂き目にあると知ったら彼女は悲しむだろうと思う。)


またハデな見た目とは異なり料理が抜群に上手く、彼女が作ってくれた料理の多くは私の人生で初めて食べるようなものが多かった。
(例えば”ダイコンのサラダ”とか”ほうれん草のカレー”とか何とかパスタ等など)
あれだけの料理を作れる女性を未だに知らないと言える位だ。

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(いつもここで料理をして振る舞ってくれた。)


当時彼女は狛江のマンションに弟さんと住んでいた。
両親公認の京都にある有名大学を卒業予定で博報堂に内定していた彼氏と付き合っていた。
Kさんと言ったかな・・。


ある時、私と群馬の友人H君は、彼女の要請で彼女の実家に行ってある用事をするために
レンタカーを借りて実家のある磐田に向かった。
当時のお母さんの言葉から、Kさんとの結婚をとても望んでいることが分かった。
(今の人には信じられないかもしれないが、1980年代当時は、女性の結婚適齢期は25歳より前だった。)


帰路、渋滞に巻き込まれた事と、途中、小田原で高速を降りて海沿いを走るコースに変更した事で東京到着が深夜になってしまった。
3人にとってとても楽しい1日だったが、我々と別れたあとの深夜、彼女にはそうではない事件が起きた。


翌日学校に行くと彼女の顔や胸元にいくつもの青痣があった。
話を聴いてみると帰宅してみると狛江のマンションに彼氏がいて、
帰宅が遅かった事を問い詰められたそうだ。
その後今でいうDV系の事が色々とあったということだった。

私は女性にそういうことをする男を見た事が無かったので衝撃的な経験だった。

どうやら千恵さんの彼氏はとても束縛の強い人物だったのだ。
まあ、それを責めるのは酷だとは思っている。
そういう男が多いのは事実だからだ。

千恵さんは彼氏を愛していたのだが、彼の強過ぎる束縛にはかなり困っていた。
彼女はどちらかと言えばオープンな性格で自由人であり、束縛が似合うタイプじゃなかった。
酒に酔うとちょっとフワフワしてしまうのが玉にキズだったかもしれない。


そしてそれらの相談に乗っていたのが群馬出身のH君だった。
H君は私より1つ上だったが、一浪していたので学年が一緒だった。
いつもサスペンダー付きのジーンズとシャツを着て、Dr.スランプに出て来るお父さんのような感じだった。
H君は私より世間を知っていて、千恵さんも同じく大人な感覚の人だったので、
二人は見た目は合わない美女と野獣型なのだが価値観が合っていた。



今でも思い出すのが、狛江の彼女のマンションで3人で朝まで酒を飲みながら
何を話すでもない会話を永遠とやっていた事だ。
私の人生であんなに人と話をした時間はなかったかもしれない。

BGMの音楽は大抵ユーミンで、特に「ミスリム」や「悲しいほどお天気」がヘビロテだった。
ミスリムの1曲目の「生まれた街で」が流れてきた丁度その時に、東の窓の先の風景から太陽が昇ってきた時があるが、あのアルバムや曲は今でもあの当時の印象を私に残してくれている。
この時期は本当に楽しい時間を過ごしていたと思う。

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(20歳になったばかりの頃の千恵さん。)



その後、博報堂に内定していた彼氏とは別れ、H君と付き合う事になった。
相談している間に2人は同期し始めたようだ。

実は、私はこの間、何となく千恵さんに恋心を抱いていて、結局失恋してしまったのだが、
あの二人はそんな私を包み込んで変わらずに友達付き合いをしてくれた。


我々が住む祖師谷大蔵3丁目に千恵さんが狛江から引っ越してきたのは1981年頃だったであろうか?
私のアパートから30秒、H君の住まいから3分の場所。
少なくともこの時期から大学卒業までの間は、私とH君、そして千恵さんは殆ど毎日会って話をしていた。
彼女の部屋は私の2倍以上もあり、また風呂付で豪華な住まいに映っていた。
現在その場所には当時の建物はなく、別の一戸建てが建っていて往時を偲ぶ事は出来ないが、私には当時のアパートが見える。

また千恵さんの家には大学の友人も多数訪れ、来ればワイワイガヤガヤのミニパーティーが始まる。
料理は殆ど千恵さんが作るのだが、やり手の女将さんのように捌いていた。
彼女は来るもの拒まずだった人なので、彼女のアパートにはいつも誰かがいた。
大抵はH君がいるので、大学失業前までは殆ど毎日彼ら2人と会っては
飲んで話をしているような感じだった。
(ちなみにH君は酒が飲めない)

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千恵さんは酒に酔うと自分のベッドに潜り込んで寝てしまい、残った男の2人でその後を過ごす感じだ。

彼女はアメリカに留学経験があったこともあり英語がペラペラだった。
私の友人のN君が就職試験と面談で英会話が必要となった時、彼女はずいぶんとN君を教育していた。
あの時代で英会話に堪能な人は私の周囲では2人程度だった。


彼女はとにかく明るい性格だった。もちろん人間なのでネガティブにもなるのだが、彼女はそういう時でも
前向きだったし、明るく振る舞う人だった。
その後病気で辛い時期も同じだった。
私と会っている時には全く自分の苦境を言う事はなく、それは他の人にも同じだったようだ。
私は根暗な性格なので、楽観的とも言える彼女が眩しかった。

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(自宅で電話する千恵さん。当時は黒電話だった点に注目!)



当時の日記を紐解くと彼女やH君との事が色々と書いてあるが、今では取り留めもないようなことばかりだ。
3人でよく行った場所の1つが湘南海岸だった。
大抵は土曜の深夜に車を出して行き、134号線沿いのロイヤルホスト辺りで一晩中お代わり自由のコーヒーで
安く上げながら朝まで話す、そんな時間が当時の私には宝石のようなものだった。
話の内容は、同級生や友人の恋の話だったり社会情勢だったり、音楽の話だったりしたのだろうと思う。
音楽の話はよくしていた。
サザン、達郎、ユーミンなど、彼らの作る音楽、歌詞、メロディーをそれぞれがそれぞれの想いで語っている時代だった。



彼女は時折六本木のディスコに通っていた。
女友達と一緒だったり一人だったりだ。
我々の大学時代の友人の中に高級ディスコで働いていた男性OT君がいた事もあったかもしれない。
龍土町辺りにあったというパシャクラブという名のディスコだ。
私は行った事がなかったが、フライデーという雑誌に芸能人絡みの記事で登場したことがあり記憶している。
彼女から聞かされるディスコの風景は、当時の私には届かない大人の世界をもたらしてくれているようだった。


彼女は何故かそういう場所が似合う女性でもあった。
彼女の妖艶な後光は、田舎者の私にはとても眩しいものだったと思う。

OT君は今でいうイケメン系の男性で大学でも女性に人気があった。
当時六本木に住んでいると言っていた。
彼はバイクが好きだった人物だが、ある日買ったばかりの高級バイクが盗難にあって
落ち込んでいた。大学生時代からホストクラブで働いていると聞いた事があるが、卒業後、彼の消息はいつの間にか知れずままになった。
多分彼は千恵さんが亡くなったことを未だに知らないかもしれない。


千恵さんがH君と付き合っている大学時代、3人でバイトをした経験がある。
交通量調査だ。
当時、学生にとって交通量調査は割のいいバイトだった。
このバイトは3日連続で1人当り36,000円をもらえるというものだった。
拘束時間は1日当り10時間。
当時私が友人から払い下げられて所有していた車を持っており、
その中に居ながらで出来るバイトだったので千恵さんを誘ったのだ。
千恵さんはバイト経験が無かった。しかし彼女には朝飯、昼飯を作ってもらう係になってもらい、
あとはH君と私が事実上のバイト作業を行った。
車内にずっといた千恵さんは、我々の話相手になってもらったり、暇な時間は後部座席で昼寝をしていてもらったりした。

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(バイト中の千恵さん)


実に楽しいバイトだった。
特に2日目には暴風雨が吹き荒れる天候で、車の中で仕事が出来て良かったと思った。
調査をした場所は勝どき橋の先にある交差点だったろうか?



私の大学卒業後の1983年、一度だけ彼女と2人でコンサートに行った事がある。
クリストファークロスの武道館公演だ。
見ていた場所は1階の東側の中段だったと記憶している。
彼女は私よりも洋楽に精通している部分があり、Steely Danを知ったのも彼女の自宅のステレオでガウチョを聞かされてからだ。
私が彼女と2人でコンサートに行ったのはこの時だけだったが、今でもフンワリと当時を思い出す。


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大学を卒業して結婚をするまでの短い期間だったと思うが、彼女は六本木のワインバーで働いていた。
交差点の近くだったと記憶している。
その店には1度だけ行った事があるが、彼女が働いていたのを見たのはその時限りだ。
ワインバーで働く彼女を見て私はちょっと複雑な気持ちになった事を記憶している。

彼女は大学を卒業してからまだ自分の中で何をやりたいとかやれたらいいかという事について
焦点が定まっていなかったのだろうと思う。ひょっとしてそんな自分に戸惑っていたのかもしれない。


大学卒業後、H君は群馬に戻り、千恵さんと彼は遠距離恋愛になった。
それが影響したのか、彼らは以前のような付き合い方が出来ないまま関係が自然消滅してしまった。
私は社会人になってからも彼女と比較的会っていたのだが、やがて千恵さんも大学卒業する年齢になった。
私も彼女も双方が社会人になると大学時代のように頻繁に合う事が減ってきた。
そんな中、ある日千恵さんから例の共通の知り合いであるシェフ君と結婚すると伝えられたのだ。


そうなんだ・・。

私は良いとも悪いとも思わずちょっと意外な告白を聴いていた。
千恵さんは、私や友人たちと関係性の良くない人物を夫に迎える事をちょっとだけ私に話ずらそうだった。
しかし、彼女なりの決断だっただろうから彼と私の関係は別にしてこれからも友達でいようと伝えた。

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上記の写真の机の位置からすると1983年~1984年頃だろう。
当時はサントリーホワイトが手ごろだった時代。



千恵さんの結婚に伴い祖師谷からの引っ越し作業は千恵さんからの要請で手伝わないことにした。
しかし荷物が片付き彼女が家の玄関を出る時、こっそりと別れの挨拶をした。
千恵さんの後ろ姿を見て、青春が消えて行くのを感じた。
千恵さんは我々より先に大人になってしまったかのようだった。

彼女がシェフさんとの結婚を決めた理由は知らない。
シェフさんは以前から彼女が好きで、相当なアプローチをかけられたということは風邪の便りで聞いた。
いずれにしても彼女は人妻になってしまった。

千恵さんが結婚式を挙げたという記憶がない。確か彼女の実家からは反対されていたような事を聞いていたし、友人連中とシェフ君とは折り合いが悪かったので、我々の知らないところで式を済ませたのかもしれない。

まだ学生気分の抜けない私は、彼女が届かないほどの大人の世界に足を踏み入れて消えて行く感じがしていた。

しかし彼女の苗字は変わってしまったが、私にとってはずっと「佐藤千恵」なのだ。


結婚後、手紙などのやり取り以外は音信不通となった。
そしてある日、祖師ヶ谷大蔵の居酒屋で彼女が病気を患っていることを知らされたのだ。


前述したが、千恵さんが今でも生きていたらどこで何をしているだろうか?と思う。
誰かの幸せな奥さんになっていたのか? それとも料理の腕を生かして繁盛する料理屋さんでもやっていたのか? それとも美魔女になって有名になっていたか?
想像が尽きない。
強がりでハデに見えたが、実は古風なところがあり、気使いもでき、傷つき易い人だったから、誰か強い男が必要だったかもしれない。
彼女にはそういう支えが必要だったと思う。


私は社会人となってから大学当時、彼女やH君と語っていた夢の一部を叶える事が出来た。
そういえば千恵さんの夢って何だったのだろう?
聞いた事なかったな・・。
多分聞いたら”毎日美味しいもの作って食べて、良い酒のんで、楽しい友人に囲まれていたいだけ”なんて
言うかもしれないな・・・。

彼女だったら実現できていたかもしれない。


逝去から30年。
私もH君も随分と歳を取ってしまった。

28歳という若さで、まだ生きたいと言いながら亡くなっていった千恵さんを思い出すと
今でも心が痛い。
こっちはあれから30年も余分に生きてしまった感じがする。

若干25か26歳で発病し、約2年余の間病気と闘い死んで行ったのだ。
その間の千恵さんの心の葛藤を私は全て共有している訳ではない。
彼女の心中を察すれば、言葉もないという感じだ。
友人として何も出来なかったと言っていい。


私も還暦に近くなったが、やはり昔の知り合いで一番会って話をしたのは千恵さんだ。
昔話をしたら意外な事実を聴かされるかもしれないし、違った話もできるだろう。


私もやがて千恵さんのいる場所に行くことになる。
その時の千恵さんは28歳のままの若さと美しさと元気さで
私や友人たちを迎えてくれるのでしょう。
こっちはジジイやババアになってしまっているから大変だ。


佐藤千恵さん、今度あの世で出会ったら改めて本気で泣けるかもしれないと思う。
その時が来るまで・・・・。


佐藤千恵さん、君は本当に素敵な女性だったよ。


また逢う日まで。



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1982年2月に湘南海岸で車のヘッドライトを使って撮影した写真。

彼女が映っている中で一番好きな表情をした写真だ。














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昭和40年代の長野県伊那市の風景、小学校のスケート、日影区のアパート [独り言]

去る2018年2月17日、小平 奈緒さんが女子500mで日本のスケート史としては初めての金メダルを取った。

数十年前ではとても考えられないような女子スケートでの金だ。
彼女はたまたま私と同郷の長野県出身者なのだが、そういう意味でも非常に誇らしい。
ところで彼女は高校時代に伊那西高等学校に通っていると聞いた。伊那と聞くと懐かしさがあふれる。


実は、私は1962年以降の3歳頃から小学校4年生まで伊那市に住んでおり、竜東保育園~伊那東小学校に通っていた。

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(上)1965年春頃の伊那東小学校。現在でもここは残っていたように記憶している。


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上の写真は天竜川にかかる中央通りに通じる大橋の高遠寄りの風景だ。
背景の建物は現在はない。


当時住んでいたのは日影区に今でもある市営アパート群の一角だ。

この時代、冬季は今よりもかなり寒いため、近隣の小学校は校庭に水を張り凍らせて
スケートを体育代わりにさせていた。
現在の伊那の気候しか知らない世代にはとても想像つかないだろうが、少なくとも50年近く前の
1960年代~70年代初期までは確実に冬の小学校の校庭はスケートリンクとして活用できる時代だった。

当時の様子はこのブログに掲載した写真で確認して欲しい。

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1960年代初頭の伊那東小学校で開催された校内スケート大会の模様。
寒い中、1日外で行うイベント。
400m競争で1位で滑走中に転んでどん尻になった記憶しかない。

中央左の古い建物は古くからあった校舎だが、私が小学校3年生位の時に
建物ごと移動させたのち、解体したような記憶がある。



当時の伊那市の冬季の朝は、当たり前のように零下だし、日中でも一桁の下の方の気温は当たり前だった。

下の写真のように冬季に伊那でもこの程度の雪は当たり前のように積もっていた。


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伊那東小学校の生徒は、朝学校に来るとスケート靴に履き替えて校庭に出来ているスケートリンクで滑る。
一時限目前までだから8:30頃までは滑っていただろう。また体育の時間も基本的にスケート。
昼近くになるとさすがに溶け始めて危ないので、体育の授業でスケートをするのは昼前までだったと思う。
当時はまだ今のような革のスケート靴が一般的ではなく高価な買い物だったために、
家庭の経済事情が厳しい生徒は「ゲタ・スケート」なる、手製のスケートを履いて滑っていた。


「ゲタ・スケート」とは、ゲタの歯の部分を取り去り、その部分にスケートの刃を固定したものだ。
鼻緒の部分を使って足を縛って固定するのだが、靴とは違い不安定で緩みやすい。
少なくとも私のクラスには1人か2人、「ゲタ・スケート」で滑っていた生徒がいた。

当時は多くの人たちが裕福ではなかったし、服が破れたりすると継いだりパッチを当てたりして
着ているのが普通の時代だったため、「ゲタ・スケート」を履いている子供が
差別対象になったりはしなかった。



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伊那東小学校。2008年4月撮影。咲いている桜は私が小学校一年生として

入学した際の記念樹だ。桜の咲いているところを見たのはこの時が初めてだった。
当時の面影はかなり濃厚に残っており、私もこの道を歩いて通学していた。


当時、一般的に普及していたスケート靴のメーカーは「SSK」だった。
「SSK」は野球用品のメーカーで有名だが、私にとってはスケート靴のイメージが遥かに大きい。

私の父は市役所の役人をやっていたので経済的に余裕があった方ではなかったが、
スケート靴は買ってもらえたし、母も時折近隣のスケート場で(大抵は湖が凍った場所を使っている)
スケートを楽しんでいた。


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上記は伊那西スケートリンクと名図けられていた伊那市西方にあった場所。


小平 奈緒さんは80年代の生まれなので、かなり温暖化が進み伊那でも冬の校庭に氷が張らない時代だったため、高校時代に伊那でスケートをしたことはないだろうと推察するが、
彼女がある時期、雪をたたえた仙丈岳などの南アルプスや中央アルプスなどの変わらない美しい景色を
見ていたかもしれないというのは何となく嬉しくもある。



当時私が住んでいた日影区は、現在のように舗装されておらず砂利道、土道だった。
牛車を使う農家も通行しているような場所で、至る所に牛糞が落ちているような時代だった。
現代の感覚では衛生上の問題を指摘されそうな感じだが、当時はおおらかな時代だったので
避けて歩いていた。(たまに踏んでしまうのだが・・・)

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写真上は、日影区の市営アパート前から市内に通じる道路。
まだ砂利道で舗装されていないのが分かる。
昔は大抵の道はこんな感じだった。



また市営アパートの前の段差は宅地開発前だったため森が茂っており、開発途中の山を切り崩した場所は
むき出しのままだった。子供時代の私はそういう場所に秘密基地を作って友達と遊んでいた。
現在の同所は全て宅地で埋め尽くされており、往時の様子とは随分違う。

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上の写真は、当時私の家族が住んでいたアパートで写真に見える棟だ。
背景には家がぎっしり建てられているが、先に掲載したスキーをしている

写真の背景と比べれば変化が分かると思う。


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アパートの共有公園付近からの様子。
当時はこの辺りで暗くなるまで遊んでいた。
2012年7月撮影。



市営アパート周辺には二軒の雑貨屋さんがあり、みどり屋さんと千代田屋さんと言った。
数年前に行って見たがみどり屋さんの場所には別の家が建ち、千代田屋さんは建物だけが残り廃業していた。
みどり屋さんの想い出は、メキシコオリンピックを見て感激した子供時代の私は、どうしてもメキシコシティーに行きたくなった。
そして母からみどり屋さんのおばさんの娘さんがメキシコに留学していると聞いたので、
おばさんにメキシコに行くための話を聴きに行った記憶がある。

千代田屋さんはとにかく夏のアイスクリームと大判の醤油せんべいを買った記憶が強い。
まだ10円のカップアイスや当り付きのバーアイスが売っていた時代だが、当時の私にとっては
50円を超える買い物は相当なものだった。

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千代田屋商店さん。2012年7月撮影。
子供の頃、この店は私のオアシスだった。


私は日影区の奥にあった中学校の前に建っていた三角屋根のお宅に住むピアノの先生からピアノを習っていた。
この家は現在でも同じ場所にあるようだ。
私は当時から譜面が全く読めなかったのだが、先生の弾いているピアノを見聞きしてマネるのが上手く、
結局4年間、私が譜面が読めないことを理解されず、結局私は初見では譜面が読めないままとなった。


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伊那東中学校の校門前の様子。右奥の三角屋根のお宅が
ピアノの先生のご自宅。当時はこのようなデザインの家がなく
とてもモダンに見えていた。
(その後私の実家には同じデザインの家が建つ)


昭和40年代前半の伊那市の風景の一部でございました。



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結局才能ある若者たちはヒップな産業に集まる [独り言]


私は1959年生まれだ。


私が青春を過ごした時代に憧れの産業は音楽業界だった。
特にレコード会社やアーティスト事務所は垂涎の場所であり、
実際に時代の先を作っていたのは明らかに彼らだった。


現代に目を移すと音楽業界は見る影もなくなった。

何故か?


この年齢になると若い人たちの日ごろの興味どこにあるのかが疎くもなるが、

日常の行動を見ているとどうやらその原因がスマホゲームにあるらしいと感じた。


実際に電通総研が発行した情報メディア白書を見ればそれが数値的に分かる。

2015年の音楽産業全体の規模は1.5兆円程度だが、ここ20年で25%マイナスだ。
いわゆるフィジカルと呼ばれるCD販売の市場は2千億円程度で、
これはピーク時の1997年の1/4程度に縮小している。


反対にゲーム産業はこの10年で40%伸び1.7兆円規模に成長し、
特にスマホゲーム市場は約1兆円近い支配力を持っている。

音楽産業の75%に匹敵するマーケットが1つの事業ドライバーで成立しているのだ。

私の時代に才能ある若者たちは音楽産業やその周辺に集まり時代を作る音楽を生み出した。

才能が集まるから当然のようにヒット作品が増え、更に才能が集まった。

昨今ヒット作品と言われても誰も歌えない100万枚ヒットと呼ばれる一連のアイドル作品や、
年間ベスト10チャートが3組程度に寡占化され、多様性を失ったチャート、
また配信チャートとCDチャートとの大きな情報乖離を見るにつけ、
明らかに音楽業界が部分的に劣化していることを感じる。


こういう現象が起きている原因は1つだろう。


才能のある若い連中が集まっていないためだ。


ではどこにいるのだろうか?


現代において才能のある若い連中は、スマホゲームを開発している会社に集まっていると見ていいだろう。

若くてアンテナが敏感でクリエイティブの高い連中が縮小マーケットを目指すはずがない。


かつて音楽産業が華々しい時代を考えれば、現代においてそれに該当するのがスマホゲームの産業だ。
なんたって1兆円を超える規模になっているのだ。今後更に伸びるに違いない。


現場でゲームを作っている人たちの行動を見聞きすると、それはかつての音楽制作現場とソックリだ。
好きな連中が好きなだけ時間とエネルギーを注ぎ自分たちの頑強なコダワリを込めている。


そう、かつて音楽産業が華々しい時代だったのは明らかに素晴らしい才能を吸引する市場と規模があったからだ。
残念だが音楽産業はその役割を終え、位相を変える時代になっている。K-POPが日本で市場を作り始めたのは
その兆候と見て良いだろう。


そしてかつての音楽産業に匹敵するヒップさをもっているのは、スマホゲーム産業だということだ。

そして若い才能はそこを目指す。


ゲームだけでなくゲームから派生したグッズビジネス、ライブエンタやアニメ化等の事業も展開しており
映画産業と同じようなモデルで成長することになるはずだ。


現在の日本のレコード会社において最大の問題は30代のスタッフの希薄化だ。
そしてミュージシャンにおいては才能の絶対的な流入数の減少で更に厳しい。

私にとってミュージシャンとは未だに憧れの存在だが、現代の若者にとってはそうでもないということだろう。

時代と言えばそれまでだが寂しい限りだ。


しかしスマホゲーム産業とて30年後にどうなっているかは分からない。
そういう意味でこうした流れはいずれ繰り返されるのだろう。

エイベックスは音楽制作部門をライブエンタ部門内に包括しているし、
今後大手レコード会社でも似た様な事が起こるだろう。


音楽産業にとって音楽配信とライブエンタが音楽ビジネスの二大柱になることは疑いようがなく、
CDは遺物になってしまうだろう。
そうなった場合、音楽産業はいずれアーティスト中心ではなく、外部のメディアと連合した形で
生き残りをかけることになるだろうと推測する。


またK-POPの台頭は日本のアイドル産業に外圧としてのしかかり、彼らとの連携が日本の芸能産業としての
生き残りを左右する時期がもう目の前だと言ってもいい。


エンタメ業界も新しい時代になったと思う。






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時代遅れを感じたスター・ウォーズ [独り言]

「時代遅れを感じたスター・ウォーズ」というタイトルは、 スター・ウォーズの大ファンには不遜だと思っている。 名作を貶すな!と言われるかもしれないが、 その理由は以下に書くので読んで頂ければと思う。

また、あくまでも主観なのでお許し頂きたい。


スター・ウォーズ、最後のジェダイを見た。 封切りから2週間以上経っていたが、会場は満員だった。 今回少し違和感を感じたのでそれについて書こうと思う。 スター・ウォーズはエピソード3がスタートしてから40年経過した。 ご存知のように SF映画の中でも最も成功した作品だ。


しかし40年を経過し今回の作品を見てスター・ウォーズがついにSF作品としては 時代遅れになってしまったと感じるに至った。 それは一体どういう意味か? なお以下に記載する事は 1部ネタバレがありますからご注意ください。 皆さんはご存知だと思うが日本においても2020年にはAIが運転する自動車な公道を走るようになる。 また様々なものがAIを使って自動化される。我々がこれから生きる世の中は 一昔前までのSF映画が描いていた世界以上の世界を生きることになる。


そんな中今回見たスター・ウォーズは40年前の設定からどうしても抜け切れない部分がある。 例えば反乱軍の戦闘機だ。戦闘機にはパイロットがいる。 しかし現代において徐々にではあるが戦闘機にはパイロットが不要の時代になっている。 いわゆるドローンを使ったものだ。


実際の戦闘現場ではAIが判断して敵を殲滅するような兵器も生まれている。 現実では既にこのような戦闘行為を現実としている時代において SFの映画の中でパイロットが生死をかけながら戦うと言うのはちょっと古めかしくないか? と言うよりもSFの世界においてはすでに非現実的だとも言える。


戦艦をバリヤーで防御できる技術を持つ反乱軍が、戦闘機にわざわざパイロットを載せ 人的資源を失いながら戦うというのはどうにも理解に苦しむのだ。

もちろん映画の演出としては感動を呼ぶのだが、私には逆に醒めてしまった部分だ。


またローラ・ダーン演じる反乱軍の司令官が敵陣へ突っ込んで行く際、 自分自身がパネルを操作をして艦艇を反転させ敵艦隊に突っ込もうとするシーンがあるが、 SFの世界においてこうした描写はあまりにもアナログ的と言え、 見ていた私はこの部分にも興ざめしてしまったのだ。 (久しぶりにローラ・ダーンが見れた点は良かったのだが・・


Googleホームだって音声認識で様々なことをやってくれる時代なのに スター・ウォーズほどのSFがマニュアル的操作と言うのはあまりではないか。


実際この文章だってiPhoneの音声認識を使って書いている。 われわれの身の回りの世界では自動運転や自動走行が一般になりつつある。 未来を描いているはずのSFがこうした現実から後退した世界感を使って描いているのは 40年前の設定を変えられない部分があるにしても 少し興ざめするような部分だろう。 もちろんフォースを持つジェダイの末裔たちがライトセーバーで戦う演出だって 古色蒼然としたものだと言えなくはないが、スター・ウォーズの様式美であり否定はできない。


しかし40年前に気にならなかったこうした部分が気になり始めてきたのは、 かつてはファンタジーだった演出の一部が現実に現れてきたからだろう。 そういう意味で我々はかつてSFが描く世界を日常にし始めている。


たかだか十数年前に公開されたマイノリティーリポートの犯罪予知にしても、 映画とは違う方法だがアメリカの警察で実際の利用が開始している。 何という時代になったのか?とも思う。


そういう意味で私にとってスター・ウォーズは今回で十分だという感覚だ。 SF映画の制作者には大変な時代が来たと思う。


今後の続編が制作されるらしいが、制作陣はワクワクする未来を描いて次世代に繋いで欲しいと願う。

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映画・映像表現と音楽に共通するドーピングの蔓延について。 [独り言]


先日スターウォーズ ~最後のジェダイを見に行った。
スターウォーズシリーズは1970年代後期に始まり40年を経てまだ続いている。
ルーカスという稀代の才能が生んだストーリーの賜物なのだが、
私は上映前の予告編に大変な失望を感じた。

この日、予告編は5作品ほどが上映された。


たまたま編成的な理由もあったのだろうが、共通していたのは4作品がCGを中心として描かれた映画だった。
実写中心の映画はスリー・ビルボードという作品だけだった。
CGを使った映画はどれも似た様なテイストで個性が見当たらなかった。
タイトルさえも記憶に残らない。
金太郎飴のような予告編だった。


SF作品にしろファンタジーにしろ実写にしろCGは映像表現に欠かせない時代になった。
CGの無い時代は、美術さんが絵筆で背景や追加画像を描き実写に組み込んで撮影していた。
1950年代に制作された「風と共に去りぬ」は見事に実写と書き割りを融合させていたが、
こうした手法は80年代になるまで続く。



70年代後半に出現したスターウォーズは光学処理を使った特殊効果が主体だったが、
80年代において「TRON」によって映画界に出現したCGだが、背景や追加効果以外の利用が可能性を見せつけた点でエポックメイキングだった。
そしてCGが特殊効果の一部だった時代を一変させたのは90年代のジュラシックパークとターミネーター2からだろう。
ここから加速度的にCGの技術は進み現在に至る。



しかし昨今はCGで描がかれる映像表現が余りにも増加し、表現方法に限界が無くなったため、
見る側としては逆に想像力を掻き立てられなくなり、
私に限れば、最近の映像表現がとても物足りない感じがし始めてきている。

以前なら実写で撮影するような映像でさえもCGで代替し始めており、リアリティーが薄く、
おまけにどんなに優れたCGでもCG臭さが消えないために見ている間に興ざめしてしまうのは私だけだろうか?

確かにCGによって映像表現が圧倒的に向上してくれた部分があるとは思っている。


しかし不要なほどのCG量は、感覚的に馴染まない部分が顕著であるというのが私の感想だ。

不要なCGによって過剰な表現になってしまったり、出演者の容姿を直したり、
実写可能な映像でさえもCG化する事までしており、本当にそこまで必要なのだろうか?とさえ思う。
ハリーポッターやスターウォーズ、アバターなど、CGが無くては成立しない映画はともかく、
CGを使わない方が映画として良いなと思う作品にも過剰利用されている現状を見ていると、
映画関係者にはCGの在り方についてもう少し考えなおして欲しいと思っている。



実は音楽にも同様の事が起きている。


昨今はPro Toolsのお蔭で、音楽制作において相当な事が可能になっている。
端的な例は、オンチの唄でもある程度上手い歌手のように歌わせる事が出来るというものだ。
これは音質を殆ど変えないでピッチや表情を直すアプリの登場から業界内で頻繁に使われるように
なったのだが、実際の本人の実力の唄とは全く違うパフォーマンスに出来上がる。
またコーラスに至っては、同じテイクを張り付けて終わりという現場もあるし、
コーラス隊で呼ばれた歌う側がそれを要求する不埒な現場さえもある。



こうした「ドーピング的な修正」は80年代からあったのだが、昨今は細部に渡って細かく修正が可能なため、
本人の実力以上の歌唱効果を得る事が可能だ。
しかし人によっては本人の再演が不可能だったりするから意図が全く分からない。

昨今、ライブにおいても歌入りのカラオケで誤魔化すパフォーマンスするのがまるで当たり前のようになり、
何処までが実力なのかも分からない時代なのだ。それで入場料1万円とかを支払って客は喜んでいる。



CMやポスターなんかもそうだが、昨今レタッチと呼ばれる修正が当たり前になっている。
皺を消したり顔の輪郭を変えたり、エクボまで取ったりと、ちょっとやり過ぎだろうと思うくらいだ。
アメリカではモデルの撮影時とポスターの出来栄えの違いが顕著過ぎて社会問題にまでなった。

私はこれらを「クリエイティブ的過剰ドーピング」だと思っている。


現代の映画・映像、音楽も過剰ドーピングがまるで当たり前の時代になっていると言っていいし。
客も知ってか知らずかそれで良いように振る舞っている。
駅で見かけるポスターやCM映像なんてツルツルの顔しているが、ちょっと気持ち悪い位だ。
またアイドルやK-POPのライブなんてダブルトラックドーピングだらけだ。

割り切りの良い言い方をすれば、それらに価値を見出せばそれを価値だとも言えるのだが、
人間技でない部分が優れている事で価値とするならば、別に特別なタレントに頼らなくてもいいのだろうとも思う。


昨今、AIアイドルも出現しているが、現状でも人間はただの「素材」と化している訳で、
本当にそれでいいのだろうか?と訝る。

私はエンタテインメントへの基本は、並外れた人間技と才能への畏敬だと思っている。
将棋や囲碁の世界で圧倒的な能力でAIが勝っても、全く感動をしないのはそういう事だ。

またAIが分析したレンブラントの絵を見ても、心を揺さぶられないのはそこには人間技がないからだろう。
ゴッホ展でキャノンが作った立体再現プリンターの絵を見たが、技術的面への驚きはあったが、感動には至らなかった。
人間には機械と比較して物理的な能力限界があるが、常人を超えたいる人たちのパフォーマンスだから感動や喜びがあるのだと思う。



スポーツも同様だ。
機械と人間がスポーツで闘い、機械が勝っても感動を呼ばないだろう。
だからスポーツには厳格なドーピング対策がある。
しかしエンタメにはない。

並外れた人間技と才能を持った人間は、数十万人に1人程度しか出現しないから価値がある。
そうしたフィジカルの凄さこそがエンタテインメントの価値の源泉であろうが、昨今は見る影もない。

実際、映画・映像や音楽の世界ではこれらについて「ドーピング」と受け止めていないが、
私には「過剰なドーピング」に思える。


昔の作品にも技術を頼りにした部分が多いが、それでも最後の肝は人間技が引き取っていた。
昨今の作品にはそういう息遣いが感じられないのだ。

AI時代に入り誰でも同じようなパフォーマンスが出せるとなれば価値は自然と落ちて行くだろう。

価値のないものに過剰な修飾を施しても当たり前なら、もはや心を動かされないだろう。
踊る阿呆に見る阿呆というが、ちょっと次元が違い過ぎないか?

最近のロックバンドや若手歌手の生歌を聞いていると、音源とライブの違いの凄さはちょっと酷過ぎないだろうかと思う。
特に歌のピッチの揺れ方は度し難い。


映画にしても、上手い役者の演技を邪魔するような特殊効果は見ていて辛いほどだ。
古い例で恐縮だが、仮にThe  Eaglesがライブでホテル・カルフォルニアを生でレコードのような演奏出来なかったら、彼らのレコードを買い、ライブにいくことはないだろう。

さて、スターウォーズ ~最後のジェダイは、SF作品であり、特殊効果を前面に出す事で地位を得てきたのだが、もはや映像を見ていてもワクワクしなくなったのは、観客の私が今の技術なら当たり前だと感じているからだろう。


そういう意味では不幸な時代になった。新しいターウォーズを見ていてあれ以上の何を期待して良いのか
私にはもう分からなくなった。3DもIMAXも本質ではない。
私にはこの手に対して飽きが来てしまったと言っていい。

エンタメは本質を磨く時代から技術に逃げる時代になってしまっているのだろうか?

ここ最近、映画なら昔の映画を見るし、音楽ならオールディーズものを中心に聴くようになったは、
ドーピングレスのエンタメを欲求する背景があるのかもしれない。
単純に昔を懐かしんでいるというより、昔のものの方が圧倒的に人間技として良く出来ていると私の感覚が言っているのだ。



先日ザ・ビートルズのドキュメント映画、「Eight day the week」を見た。
彼らが生身の体から生み出す新しいメロディーや音楽にどれ程の民衆が虜になったのかが良く分かるが、
その根底には並外れた人間技と才能への畏敬があったのだと思う。

レンブラントの絵をAIが解析して書いた新しい絵は、技術的には興味深いがそれ以上でもそれ以下でもないことは述べた。
技術的要因を多用した映画や音楽が人間技の欠片もないとは言わないが、想像力を掻き立てる何かを失っている点については、制作者側に立ち止まって考えて欲しい部分だ。




私は古い人間なので、オールドファッションが好きなのだろうと言われれば全く否定しない。
ここ何十年もゴッドファーザーや地獄の黙示録、大脱走やエンゼル・ハート、羊たちの沈黙、アマデウスに
匹敵するような映画らしい作品が見当たらないのは寂しい限りだ。

音楽に転じれば、私の20代は、桑田佳祐氏や山下達郎氏、大瀧詠一氏、坂本龍一氏などの素晴らしい才能に囲まれていたが、現代の若手のミュージシャンの中に彼らに匹敵し、なおかつこの先30年をリードできる人材は何名いるのだろう?
ギリギリ星野源氏位だろうか?



日本の音楽シーンは、AKBや嵐、三代目でベスト10を席巻し、多様性を失った事で市場そのものが冷え込んでしまった。
彼らを選んでいるのも市場だが、この多様性の無さに音楽業界は危機感が無さすぎた。

これは20年を掛けて音楽業界が斜陽になり、有能な若いスタッフが入ってこなくなり、
有能だった団塊世代周辺のスタッフが消滅した事により、才能を見つけ育てる機関が失われ、
企画的でメディアと結びついたジャンルだけが生命線になってしまった事でバランスを欠くようになったのだろう。


これは映画も同様だ。
パシフィックリムやアベンジャーズが席巻しているのは市場の要求なのだろうが、
甘いお菓子ばかりの映画供給環境は音楽と同様で多様性がなく、大人の私には食い足りない映画ばかりだ。

また大型劇場の席巻によって、特に渋谷の地においても単館上映館が激減し、小さなニーズを引き取る環境が
減ってしまった事も私にとってツマラナイなあ・という感じだ。

しかしそれも時代の流れといえばそれまでだ。



ただ感覚的に言える事は、優秀な若いクリエイターの絶対数は、明らかに映画や音楽からは激減している点だ。
理由は分からない。
優秀なクリエイターが音楽や映画などの斜陽産業を避け、ITやゲームなどの分野に
行ってしまったからかもしれない。実際スマホのゲーム分野の市場は成長軌道にある。
成長軌道を作る新しい産業には才能のある若者が多くいるのが常だ。



彼らにとって、映画や音楽は魅力的で永続的な分野でないのだろう。
だから面白くなくなったと言えるのかもしれない。

しかしスマホのゲーム分野もいずれは飽和するかもしれないが、今の段階では分からない。

この年になると、エンタメに対して若い頃のように驚いたり感動したりするハードルが上がってしまう。
滅多な事で笑えないし、驚く事も少なくなった。

老化なのか?と思う時もある。

大抵のことを見聞き、経験してきたからなのだから仕方ないがちょっと寂しい気分にもなる。

ただ自然の営みにはまだまだ未知の領域があり、歴史、美術の分野には心を動かされる事も多く、
こうした部分にはこれから先、ジックリ取り組もうとは思う。
もう流行り廃りに惑わされず自分のスピードで生きる年齢だとも思っている。

音楽や映画の価値観については、35歳までに見聞きしたものが絶大な影響を与えてしまうという記事を
読んだ事があるが、そうかもしれない。



まあ、こっちがオッサンになって懐古趣味的になったということは多少の理由としてあるのだろうが・・・。




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ミュージシャンという生き方 [独り言]


中学高校時代、ミュージシャンは私の憧れの職業だった。
一時期私はミュージシャンを仕事にすることを目指して生きていた。
音楽業界で働く事に憧れを持っていたのはミュージシャンへの憧れと同等だった。

それから45年近くが過ぎ、ミュージシャンという職業を傍から俯瞰していると、
これほど過酷で生き残りが難しい職業であったろうか?と感じている。


正確ではないが、少なくとも70歳を超えて一線と言える場所で活躍しているミュージシャン(ソロ、もしくはグループ)は、加山雄三氏、吉田拓郎氏、小田和正氏、細野晴臣氏と言い切っていいだろう。
寺内タケシ氏も含んでいいかもしれない。
活動の幅はそれぞれ違うが、少なくとも彼らは1500~2000名以上のホール級を満員にし、ツアーをし、メディア露出等も定期的にある。

その下の年代になると矢沢永吉氏、井上陽水氏、さだまさし氏、山下達郎氏、森山良子氏、谷村新司氏、
南こうせつ氏、高橋真梨子氏、坂本龍一氏、中島みゆき氏、浜田省吾氏、桑田佳祐氏、
松任谷由実氏、THE ALFEE、矢野顕子氏、長渕剛氏、竹内まりあ氏、鈴木雅之氏、八神純子氏辺りが
妥当な線だろう。私の無知で漏れている人もいるかもしれないが概ね正しい範疇だと思う。
ちなみに演歌、歌謡界は除いてある。 

数えてみれば分かるが、全部で30組は存在しない。多少範囲を広げても50~100組程度だろう。
彼らはロック・ポピュラーミュージック界のエリート集団と言っていい。


60年代~80年代前半にデビューし、キャリアを30~40年近く続け、現在でも一線でやれているフロントラインのミュージシャンはこの数程度しか存在しないという証だ。
小田和正氏に至っては70歳になってもアリーナ級を満員にしており、少なくとも彼と同じ年齢では最高動員数だ。
昭和22年生まれの彼の同年代出生数は、2,678,792人とある。
つまり、彼のようなミュージシャンの出現する確率は約260万分の1ということだ。
細野、吉田、小田氏の3名の出現確率は、90万分の1程度ということになる。
また60歳~69歳の出生数は約2,000万人強だが、上記を見て明らかなように
一線で生き残ったミュージシャン数は20組程度。つまり100万人に1組という感じだ。
だから概ねこのレベルの才能をもち持続性があるミュージシャンの出現する確率は50~100万人に1名と言っていいだろう。

凄い数字じゃないか・・。普通じゃない。



さて、先ごろ小室哲哉氏の不倫報道が週刊誌上に踊った。
著作権詐欺事件以降、小室氏の活動は火が消えたようだ。
90年代のブームの大爆発を知っている年代からすれば、今日の彼の活動状態は信じられないだろう。
小室氏は本件に絡んで引退を表明したが、YMOに憧れた彼がYMOの次の世代を担った第一人者だったことが疑いようがない。
(ちなみに個人的にはたかだか個人の不倫報道に絡む引退表明は唐突感が隠せない。別に引退しなくても良いと思うのだが、KEIKOさんへの贖罪を自分の職業を棄てる事で表したかったのかもしれないし、彼自身の体調の件もあったのだろう。還暦になる彼が自分の引退を会社員の定年退職になぞらえた発言があったが、彼の会見を見ていて往時を知る世代としては、輝きを失い弱った老人のようにも映る会見の姿は寂しいものだと思った。夢を与える側の仕事の只中にいる人物の現実的な課題を表に現した点で異例ともいえる会計だったが、彼に限らず私生活の問題や本人の体力、気力の減少は彼なりにあったようだし、それは我々と同じということなのだろう。)


2018年には還暦になり日本の音楽史にその名を刻んだキャリアを持っているような才能が、
先述したようなミュージシャンたちのように活躍を持続出来なかったのは何故なのだろうか?と訝る。

才能の違いと言えば簡単だが、彼が人並み外れた才能を持っている点において、過去の履歴から否定出来るはずもない。
しかし持続性が無かった点では上記の先輩たちと比較しても陰が薄くなる。
彼が尊敬する坂本龍一氏は、特にYMO後ソロでも成功し、その後映画音楽の分野でアカデミー賞を受賞するなどのキャリアを構築し、現在でも一線にいる。

坂本氏やそれに類するミュージシャンに備わっていて小室氏に無かったものは何だったんだろうか?


それを紐解く材料は小室氏の著作権に絡む詐欺事件にあるだろうと思う。


生き残っている大物ミュージシャンたちは、一見才能だけでやり続けているようにも思うだろうが、
実際はそうではない。彼らは常に自分の才能以外の見識や能力を総動員して戦っているし鍛錬もしている。

こうした事を否定するミュージシャンもいるだろうが、才能だけで生き残れるほどこの世界は簡単ではない。天からもらった才だけを使い、空から降ってくる音楽を捕まえるだけでは生き残れないという意味だ。

彼らの活動が無意識だけで継続できるはずもなく、我々同様に「頭で考え」「感性を磨き」「研究をし」「意識的に成果を作り出し」「分析し」自分の居場所の維持や新しい才能の出現と絶えず戦っている。

ミュージシャンと言えばチャラチャラした気楽な印象だけがあるかもしれないが、
職業として数十年を生き残ろうと思ったら実際はそういう訳に行かない。

相当にタフだし、相当にエネルギーがいる。成功している彼らは並外れているためそれが出来るのだ。
それでも60歳を過ぎれば歌手の場合、いつ歌えなくなるか・・という恐怖との闘いもある。また当然だが引退や残り時間とのせめぎ合いもある。これは誰もが同じだが、その場凌ぎでは出来ない事だ。


小室氏には厳しい言い方になるが、著作権に絡む詐欺事件の背景には、小室氏が過去の栄光を梃にして、
ピーク時の贅沢三昧な生活を維持するための身の丈以上の金を得ようとしたのかもしれないし、本分とはかけ離れたものに首を突っ込んでしまい、本来彼がプロのミュージシャンとしてやるべき仕事の源泉を蔑ろにし、地道にやって来なかったかもしれないと推察する。
また周囲に彼の行動ややり方をキチンと質すミュージシャンやスタッフにも恵まれなかったのだろう。耳の痛い事を言う人は遠ざけたくなるのが人情だが、時にはそれを受け止める器が人生を決定することもある。

少なくともこの時点での彼の躓きはキャリアを大きく棄損してしまったし、その後の活動にも影響を及ぼした。


小室氏のキャリアを総括すれば、TMネットワークで世に出て、Globe、安室奈美恵氏などを売り一世風靡したに尽きる。
彼自身がメンバーとして関わって売れたバンドはTMネットワークとGlobeだけであり、彼の音楽キャリアの源泉はそこにある。

残念ながらGlobeはKEIKOさんの病で活動が出来ない。

TMネットワークは何等かの理由で人前に出て来ないが、これはある意味で自己キャリアの否定をしているに等しい。小室氏に限らずTMネットワークのメンバーはソロアーティストとして市場価値がある訳でなく、常に他者との共存でその才能を発揮してきた。(これは多くのバンドメンバーに共通する点だ)

この辺りがソロ活動で生き残っているミュージシャンと決定的に違う点だ。
従って小室氏の活動にはかつてのバンドメンバーの協力が必要だが、長年実現していないということは
人間関係が切れてしまっているのだろう。

エンタメ業界のように成功例を出す事が稀で、なおかつ長期的な活動戦略が必要な業界において、価値のあるバンドでの活動が出来ないのは決定的に痛い部分だ。
長期的にはTMネットワークはいつでも再開できるようにしておきべきだった。核となる活動を失ったために時流に乗れない時期を迎え代替策がなくなり、本人の活動の限界が早まったと言っていいだろう。

冒頭に書いたミュージシャンたちを見れば分かるが、彼らは直近において新作のヒット曲はない。それもでやれているのはロイヤルティーの高いファンの支えがあったからだし、支持が切れないように自分の価値の維持に努めていた点も大きい。従って地道な努力の賜物と言っていいだろう。



このようにミュージシャンが長期に渡って高い価値を維持して活動を続けるのが、どれほど針の孔を通すようなものかお分かりだろう。
日本には数十名程度この孔を通った人達がいるが、いずれに独自の生き残り方法と個性を展開している。


ミュージシャンとして一線で生き残る事がこれほど難しいというのは還暦を迎え苦境の会見を行った小室さんが一番感じていることだろうと思う。

かつては一斉風靡した多くのフロント・ミュージシャンたちは、全国のライブハウスやカフェ程度の店を廻っての演奏活動やその他の周辺業務を支えにして生計を立てている。完全に音楽を中心中心とした活動で生きていると言えるのは、小田和正氏、山下達郎氏、井上陽水氏、矢沢永吉氏、坂本龍一氏など本当に極々僅かな人たちだけだ。

かつての人気者たちも年齢と共に地方の旅暮らしを余儀なくされ、体力的にも相当に堪えるはずだが、やり続けないと食えないし自分のパフォーマンスも衰える。
華やかに見える彼らにも、活動規模には様々なグラデーションがあり、羨むようなレベルにいる人達は非常に僅かな一部だけだ。


そういう意味で私のような凡人は、中高生時代に憧れたミュージシャンに「なれなくて」良かったかもしれない。私ではとても務まらなかっただろうと思う。(実際35歳で諦めた)

多くの音楽ファンは、オヤジバンドとかを一生やっていた方が普通の丁度いいのが音楽や演奏活動の世界だろう。




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GLAY、結婚式で楽曲無償提供の誤解報道、勝手に補足説明 [独り言]

GGLAY、結婚式で楽曲無償提供の誤解報道、勝手に補足説明


4人組ロックバンドのGLAYが、結婚式でGLAYの曲の使用を無償で提供すると
2017年12月10日に公式ホームページで発表した。


ネットニュースを読むと、「楽曲提供無償」が目立つが「完全無償」でなくトラブル心配の声もとの追い報道もある。




本件について、目出度い結婚式での楽曲使用についてメンバーが表明してくれた気持ちは嬉しい事だと思う。
これは彼らの純粋な気持ちだろう。
同時に彼らの気持ちに寄り添うなら、もう少し周辺スタッフが噛み砕いて上げるべきだとも思う。


上記のGLAY公式サイトの「ブライダルでのGLAY楽曲の使用に関して」を読むと、正直言えば、素人の人には
何のことだか完全には理解出来ないと思う。
報道にあるようにメンバーは無償提供と言っているのに報道の言う「完全に無償じゃない」というのはどういう意味なのか?


問題は著作権の管理者が複数あることが事を複雑にしている。


凄く簡単に言うと、著作権には幾つか種類と権利の恩恵を受ける幾つかの対象者が存在する。
知らない人が分かるように以下に簡単に記載する。


音楽著作権の場合、ザックリ言うと①作家(作詞、作曲家)が持つ権利と、
②レコードを作った事に関係する権利の2つがある。
この2つの権利は管理団体が異なる。

また両方の管理団体は、権利者の預託範囲ないで使用料の管理(財産権)をしている。


日本において作家の権利管理は、JASRAC(一般社団法人 日本音楽著作権協会)とNEXTONEの2団体、
また、レコード会社が音源を作った事に関係する権利はCPRA(一般社団法人 実演家著作隣接権センター)が管理している。

今回、メンバーが使用料免除要望を出した部分は「CPRA」が管理する部分で、「JASRACとNEXTONE」ではないという事だ。


何故JASRACとNEXTONEは免除が出来ないのか?


難しい説明を省くが、JASRACとNEXTONEに対して信託登録された作家であるメンバーは、既にブライダルなどの場所で楽曲を使用する場合の使用料徴収権をこの2団体に一定期間自分たちの作品を預けている。
これを信託しているという。信託というのは、見かけ上、著作権を管理団体に譲渡し、徴収作業をする際、管理団体が権利者のように振る舞う事を著作権者が許可するような事をいう。

つまり、信託されているというのは、この2団体が作家と同じ権利を持った「状態」で使用者に対して使用料徴収業務が出来るという意味だ。
もっとかみ砕いていうと使用者に対してメンバーの代わりに使用料を払って欲しい(だって権利者だから!)と言える立場がこれらの管理団体ということになる。

従って既に登録済の楽曲はメンバーの著作権であるにも関わらず使用料の徴収に関して、取ってもいいとか取らなくてもいいなどのような自由にならない。

これは管理システム上等の問題で受付られないのだ。


何故か?


通常ブライダル会場を運営する会社が既存曲を利用した演出をする場合、JASRACとNEXTONEとは会場の規模や売上に応じて年間利用として包括した利用料の支払いを行う。その方が事務作業が低減できコストメリットもあるからだ。
通常ブライダル会場側は従量制的に支払うか、包括契約としての対価を1年分をまとめて払うため、仮にGLAYの曲が免除されても形式上、この2団体は使用料を受け取る事になり、管理団体が受け取った使用料は作家に分配しなければならない。
従ってGLAYだけを除外した作業が出来ないから使用料免除にするのが困難なのだ。


メンバーがそこまで知って発言していたかは怪しい。まあ、ミュージシャンはこういう部分に疎いからだ。
従って公式サイトに説明されているように「著作隣接権についての無償提供をさせて頂く運びとなりました。」という言い方になってしまうのだが、この説明では一般の人がピンとくるかは難しいと思う。


著作隣接権なんて聞いた事も無い人が多いだろうが、有体に言うとレコード会社が保有している原盤権と
レコードを作る際、演奏等に関わったミュージシャンたちが持つ権利の事だ。

実は著作隣接権も年間包括契約を採用しているが、使用量に従量した徴収も行っている。


そのためJASRACとNEXTONEと異なり運用に柔軟性があり、分配も同様のため無償対応出来たという事だ。

メンバーからすれば自分たちの想いの半分しか叶わなかったということだが制度上致し方ない。


もし自由に利用環境を設定してければ自分たちで管理すれば良いと思うが、
そのリスクとして知らないところで利用されても金を取りこぼす事を覚悟しなければならない。
また煩雑な管理体制を維持しなければならず、良くも悪くもJASRACとNEXTONのような団体に預けておいた方がメリットがある。

個人がブライダル等で使用する場合でも1曲辺り8,000円程度のJASRACとNEXTONEへの使用料支払いを求められる。


著作隣接権使用料も概ね同額なので、それなりの出費となる。
(詳しくは包括契約状況や使用環境等で異なるので各ブライダル施設にお問合せ下さい)


よく、自分が買ったCDだから個人で使っても関係無いと言い張る人がいるが、
CDを買い個人的な利用をする事とその著作権を別の環境下で利用出来るかどうかという事は全くイコールではない。他人が作ったものを利用するというのは対価が発生すると考えておく方が普通だと思っておいた方が良いだろう。

つまり、今回の件は、GLAYの曲をブライダルで使用すると「著作権使用料をブライダル会場経由もしくは個人で著作権管理団体に申請して支払いをしなければならないが、隣接権団体は免除となる」という事で、手間は半分になったが、著作権使用料は支払う必要があるという事です。


そういう意味で今回のGLAY記事のは、一般的に馴染みのない話で説明が難しいが、少しでも助けになればと思い書きました。









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はしだのりひこさんの訃報に接して [独り言]

はしだのりひこさんの訃報に接して。


はしだのりひこさんが2017年12月2日、ご逝去された。
ニュースはネット経由で知った。


フォーク歌手、はしだのりひこさん死去…72歳
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20171202-00050073-yom-ent


彼の訃報に接し、私は殆ど忘れていた中学時代からの彼との交流を思い出す。

40年近く前の話なので記憶の片隅になってしまっていた事はご容赦願いたいが、
はしださんは私の人生にとってプロミュージシャンとして初めて接した人物だった。

長野県の田舎の中学に通っていた14歳当時の私は、日本のフォークミュージックに傾倒していた。
小学校6年生から始めたギターもかなり腕前を上げ、オリジナル曲を作り始めていた時代だ。
夢はミュージシャンになることだった。
1970年代初期、はしだのりひこさんは信越放送のラジオのパーソナリティーをしており
土曜深夜帯に冠番組を持っていた。

ラジオっ子だった私は、その番組のリスナーだった。
(当時の同世代の方の多くはラジオを聴きながらの受験勉強のご経験があるに違いない・・)

この番組はいわゆるオーディション形式を内包した番組だった。
はしださんとSBCのスタッフが長野県各地を移動し、
現地での番組収録をしながら音楽愛好家から出演の応募を募って演奏や番組を構成し、
各地の優勝者を決めるという内容の番組だったのだ。

またゲストの演奏もあり、なぎらけんいちさんなどの音楽が聴け、当時の私はその音場を楽しんで聞いていた。
14歳のある日、私はこの番組の演奏者に応募して出演することになった。
地元のバスターミナルの上階で行われた公開収録に出演し、自作自演の曲を演奏することにしたのだ。
当時の私はミュージシャンになることに憧れていた。
だからプロの意見や聴衆の反応を知りたかった。

もう40年以上前であるため記憶が定かでないが、確か2~3回ほど番組に出演し演奏したと思う。
その内1回は優勝してはしださんのサイン入りのギターをもらった。
(今でも実家にある)



今にしてみれば当時の私の演奏が素晴らしいはずはないのだが、
オリジナル曲で挑んだという事や、まだ14歳だったという点を考慮されたのだと思う。
当時の私は目立ちたがり屋で出たがりの子供だったからはしださんも面白がってくれたと思う。
実際その後、彼の番組にゲストDJ(喋る方のDJです・・。当時のDJはそっちの意味ですから。)として2週分の放送に出演する機会を頂いた。
今考えると無謀とも思えるし、当時の放送された録音も手元にないので正確に何を話したのかさえも殆ど記憶がない。
しかし田舎の中学生の私がラジオ番組に出演するという人生でも滅多にない「経験」があった事を思い出したのは、彼の逝去の報道がキッカケだった。私はこんなすごい経験を忘れていたのだ。

当時のはしださんはとても優しかったという記憶しかない。
シロウト同然の中学生と絡むのは、プロの彼にとって優しい事ではなかったと思う。
それは自分が音楽業界に入った事でようやく理解できた事だ。

当時の私は早口であったため、活舌が悪く、時折はしださんに注意をしてもらいながらの収録だった。

私が18歳になって大学に通うために東京に出て来た時期になってもはしださんとの交流が断続的にだがあった。
はしださんの事務所は原宿の竹下通り入り口に今でもあるマクドナルドの向かいに建っていたマンション内にあった。
私は時折事務所を訪問してご機嫌伺いをしながら、時折だったが彼の仕事をボランティアで手伝っていた。
記憶にあるお手伝いは、新宿厚生年金会館の小ホールで開催された企業慰安向けのコンサートだった。
当時そのライブで唄っていた曲の中で記憶があるのは「たとえば光」だったが、
現在ユニバーサルの音源として存在しているようだ。
なおその日、同じ会館の大ホールでは、レイナードスキナードが公演をやっていた記憶がある。


たとえば光





私とはしださんはそれ以降疎遠になってしまった。
理由は正確に憶えていないが、私が大学生活を謳歌し始めて
連絡をしたり事務所に行かなくなってしまったからだろう。
加えて彼の方からも何となく連絡がなかった事もあっただろうと思う。


私が音楽業界に入ってからもお会いする機会が無かった。
80年代以降、彼が地元の京都を中心とした活動をしていたためだろう。

それから40年以上の年月が流れた。


60代になったはしださんは、パーキンソン病などの闘病生活を送っていたという。
72歳という若さでご逝去されたが、最後まで人生と格闘していらっしゃったのだろうと推察する。
私も還暦が近くなり、病気がもたらす過酷さを痛感している。

自分の昔を振り返り、はしださんが私にくれた小さなチャンスは、本当に有難い事だったと今でも思う。
そう思いながら京都の方向に身体を向けて祈った。



はしださん、ありがとうございました。
安らかにお眠りください。












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