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ドキュメンタリー映画『Demain(明日)』を見よう!(と思っている) [独り言]

フランス話題のドキュメンタリー映画『Demain(明日)』が日本で公開されるようだ。
メラニー・ローランさん(女性)とシリル・ディオンさん(男性)という
共に30代の二人の映画監督による作品らしい。
TBSラジオの森本毅郎氏の番組で紹介されていたが、映画製作のきっかけはローランさんが妊娠している時、
2100年には人類のほとんどが滅亡する、という研究結果を知ったことであったという。
子供達の世代は、水やエネルギーに乏しい環境に暮らす可能性がある事実に戦慄したようだ。

そうなんです。私、独身で子供がいないのですが、子供を作る気持ちに全くなれなかったのは、
未来の状況が人類にとってかなりの困難が予想され、そこに自分の子孫を残す事をためらったからでした。
(それでも未来の人類が皆で問題を乗り越えられるかもしれないという希望は捨ててないのだが・・)

今の若い人たちの中からこうした恐れを抱く人たちが出て来るのは自然な事でしょう。


映画『Demain(明日)』はこれを書いている時点では見ていないので、映画へのコメントはできないが、
未来永劫人類が生きてゆくために、絶対条件は既にハッキリしていると思っております。

「地球環境に出来るだけ負荷をかけず人類の生活を営む」ということです。

しかし、上記の一行を実行するのは難しい。

でもそれを行わないと未来の人類は果てしない苦難の道を辿ると思っております。

悪貨は良貨を駆逐するではありませんが、人類の一部がこの思想と外れて勝手気ままな生活を営めば、
残念ながら未来の人類は果てしない苦難の道を辿るでしょう。
つまり、上記テーマは世界が一丸となってやらなければ解決できないのです。


私個人の感覚ですが、既に人間社会は必要以上に便利です。
経済や効率の観点とは真逆な発想ですが、持続可能な社会維持のためには
実は不便にした方がいいと思ってます。
またインフラ整備の環境も居住地の集約化等で整理統合しないと持続した社会を維持するのは
困難でしょう。

現代は必要以上にモノにあふれております。
食料にしても水にしても財にしても人間が一生を送るには過剰なほどのモノに囲まれております。
これは人間の欲との闘いなのでしょうが、冷静に考えればこれほど多くのモノは不要でしょう。

また、我々は処理できない以上の情報に囲まれております。
ネット社会の利点はよく理解しておりますが、
情報を得るためにかかっている負荷について考えるべきでしょう。

昨今シェアービジネスが活況を呈してきておりますが、私的使用を整理し、
公共利用で賄えるシステムを構築すべき時代が普通にならざるを得ません。
そうなると経済的な影響を無視できませんが、地球が維持できる人口のサイズに限度がある訳ですから、
経済が永遠と伸びると考えるのはむしろ変で、どこかにある均衡点でケリを付ける必要があります。

現在の人類はリサイクル不能なものによって命脈を保っております。
原子力発電はその最たるものですが、明らかに自然の成り行きと逆行するものに
依存し過ぎており、経済を維持するために離脱することが難しい状況です。

私の言っていることは現状では夢想に近いかもしれません。
しかし映画『Demain(明日)』のメッセージは私の言及していることに近いでしょうし、
正しいビジョンだと思っております。

人類が瀬戸際に追い込まれる前に実行できれば未来はあると思いますが、
それは未来を生きる現代の若い人たちに託されており、
我々の時代の人間がその先鞭をつけるべきと思っております。









NHKスペシャルは宮崎駿氏の新作長編ドラマへの壮大な予告編のような番組だった(?) [独り言]

11/13のNHKスペシャルは宮崎駿氏の新作長編ドラマへの壮大な予告編のような番組だった。
現在75歳の宮崎氏が己の性ともいえる作品作りの情熱と自分自身の寿命と戦っている様子がよく伺えた。
しかし私がこの番組を見ていて感じたのはトップクリエイターの残酷(非情)と純粋さなのだ。

短編作品をCGで制作するという宮崎氏にとって初挑戦において、ご自身も理解できないような「腑に落ちない」
何かに悩まされる。当初、CGクリエイターたちはある程度の時間でできるだろうと思っていたようだが、
いざ作り始めてみると宮崎氏からの想像を超えた要求に対応できなくなってしまう。
また、その理由が宮崎氏以外に分からず、本人でさえも明確に分からないという時間が経過してしまう。
本人すら回答のないものへの要求にCGクリエイターたちは追い込まれる。
CGクリエイターたちもクリエイター集団の一角を担っているが、存在も経歴も上の宮崎氏からの要求は
相当な重荷だった様子が伺える。
しかし作品の質が担保されなければお客さんに応える事が出来ないという宮崎氏の純粋な信念は揺るがない。
そしてその質の担保は宮崎氏が納得するか否かが全てという非常に個人的な世界観なのだ。

こうした作品成立過程を見ていると、トップクリエイターは成果に対して冷徹で残酷だ。
それはあたかもグローバルトップ企業の経営者が利益を希求・追求するためには、
理由の如何を問わないような部分と重なる感じがする。
作品を作る事と利益を上げることは性質が違うため比較するのが不適当かもしれない。
言い方を変えると目的達成のためには必要な犠牲を厭わないという姿勢だ。
作品の場合、その冷徹さが偉大な結果を生むとも言えるのだが、
実際、それら作品は宮崎氏が全てを作る訳ではない。
映画の場合に限らず、多くの手が関わっているからだ。それでも宮崎氏の存在とビジョンは圧倒的だ。

番組でも紹介されていたが、宮崎氏の作品が生まれる過程で関わった多くのアニメーターは現在ジブリにいない。
作品のヒットの金銭的・社会的恩恵は生みの親である宮崎氏と法人であるジブリに帰るだけで
その周辺で仕事をしていた多くの人達ではない。
それがこの業界の掟である。(世の中はそんなものだという言い方もあるが・・)
こうした現実は否定しないが、残酷な現実であることも事実だ。
映画は多くの人間が関わり1つの作品を作る。そしてその制作形態は「中央集権型」だ。
ジブリ作品の場合、ヒエラルキーの頂点にいるのはプロデューサーの鈴木氏であり、宮崎氏だ。

番組の終盤、長編作品の覚書なるものをプロデューサーの鈴木氏に見せる場面があった。
宮崎氏は「鈴木さんが資金を調達してきてくれたら出来そうだけど・・・」と言いつつ、
3年半後の公開予定を見据えた予定表を見せる。
そしてその表の最後には「80(歳)、果てして生きているか?」の文字が見えた。
宮崎氏のような特異なクリエイターは代わりが居ない。自分の余命を意識し始めたクリエイターの心中は計り知れない。

この覚書を読んだ鈴木さんの心の奥底は想像するしかないが、宮崎氏に長編を作るだけの体力と時間が
あるだろうか?という懸念と、宮崎氏が満足できるような作品を作る体制が構築できるか?だろうかという懸念が
頭の中に浮かんだ事だろう。
2016年10月、色彩設計を長年務めていた保田氏が亡くなった。
それだけでも体制構築にはかなりの損失だ。
鈴木氏が冗談めかして言っていたが、絵コンテの段階で死んでしまったら誰がその先を作れるのか?
宮崎氏を一番好きで理解しているだろう鈴木氏にとってこの覚書は悩ましいだろうと想像する。

この番組で非常に印象的な場面があった。
ドワンドの川上さんが持ち込んだAIを使った自動生成のアニメーションソフトだ。
画面には頭を使って動く気持ち悪い人間が映し出される。
それを見た宮崎氏が自身の知り合いである障害者との関係性を引き合いに出し、「これを作る人たちは痛みとかそういうものについて、何も考えないでやっているでしょう。極めて不愉快ですよね。そんなに気持ち悪いものをやりたいなら、勝手にやっていればいいだけで、僕はこれを自分たちの仕事とつなげたいとは全然思いません。極めて何か、生命に対する侮辱を感じます。」 と発言する。
そして「どこにたどり着きたいんですか?」と問う。
これを聞いたドワンゴ関係者は言葉を失ってしまう。
なんでもかんでも自由な発想ができ作れる時代に根源的な問い質しをされたからだろう。

宮崎駿監督、ドワンゴ川上量生会長を一喝「生命に対する侮辱の記事:http://www.huffingtonpost.jp/2016/11/13/miyazaki-hayao-dwango_n_12950618.html?ncid=fcbklnkjphpmg00000001

クリエイターに限らず世を貫く成果を上げる人たちには非情で冷徹な素養がある。
しかし上記の宮崎氏の考え方を知ると生命を描く事に対して、その位でないと描けないんだという気持ちが伝わってくる。
私はそうした素養も気概もないため、どうしても様々な場面で手加減してしまう。
そのため成果も中途半端だ。
仕事の成果に対して信念を持って非情で冷徹で成果を出せる人を羨ましく思う反面、もう自分にはそこまでせめぎ合う人たちとはエネルギー負けするな・・と感じている。
そういう意味で、今後は偉大なクリエイターたちの作品を純粋に楽しむ立場でいようと思う。

オリンピックまでに次の宮崎作品が見れるだろうか?



50代でこんな事を考えるのは早すぎるだろうかね??っていう記事 [独り言]

2016年11月8日(火)記載

ここ数カ月、気力の衰えに悩まされている。(相撲取か・・・)
現状のビジネスでの業績が上がらないという事もあるが、
新しいビジネスへのアドレナリンもなかなか出ない。
 
かつての私なら未知であればあるほど興味を抱くはずの新規ビジネスへの挑戦だが
若い頃のような無邪気なパワーが出てこない。
そう、若い頃のような「無邪気なアドレナリン」が出ないのだ。そういうものなのか?
 
先日吉田拓郎さんのインタビューを見ていたら、生活感や人生感が50歳を過ぎて圧倒的に変化したと言っていた。そうか、そういうものなのかもしれない。 

年齢を重ね、経験を積み、情勢分析をし、冷静になって考えられるようになったとも言えるのだが、
「夢に向かって・・・」的な野放図な事を言っていられないという感覚の方が勝ってしまっているようだ。

そういう意味ではある種の「鬱」なのかもしれない。
 
そういえばとありネット記事で読んだのだが、武田鉄矢氏やビートたけし氏が40代から鬱になったとあった。
彼らのような才能のある人達が鬱になったのは、その年齢で自分の考えられる夢の実現を
早くも果たしてしまった事が大きかったと分析しているようだった。

自分を奮い立たせる目標を失ったということだろう。

私は彼らとは違い凡人だ。

それでもここ最近の自分の思考回路を探ってみると
自分の中で新しい達成目標の設定に迷っていることが分かる。

若い頃に夢見て来た事の半分位は叶い、半分は能力不足で諦めたが、
我を知り、己を理解するに従い、残りの人生でどんなサプライズがあるのだろうか?と
見極めてしまっている自分があるのは確かだ。

会社の立場も若い連中を指導するような感じになりつつある。
守りに入ったとは考えたくないのだが、そういう冷めた自分がどこかに存在しているようでもある。

もちろん残りの人生で色々な事が起きるだろう。
60過ぎて新しい事を起こした人も多い。
でも、そういう人たちは実は極僅かだという事実もある。
五木寛之氏の「下山のすすめ」には人生の終盤に向う心構えが書いてあった。
抗なうのではなく、受け入れろ・・と。
 
 
タモリさんも友達に関してこんな事を言っていたようだ。 
 
そうなんだよね。その気持ち、凄くピンとくる。
友達って言える人間関係を持っている人って、良く考えると数人しかいないんだよね。でもそれでいいんだよね。自分がそれで良いと思っているのなら。それが自然なんだよね。
 
人の事はともかく自分の人生を今後どのように過ごし、そして終わらせるかは
私以外の人にとっても大きな課題なのだろう。
そしてそれは全ての人にやってくる。

最近問題を起こす高齢者の記事を読むにつけて、
自分があんな風になったら嫌だな・・とか思う。
またアルツハイマーで自分が誰だか分からなくなるという状況になるのも避けたい。

自分の資産状況も分かっているので、経済的な未来もある程度予測が立ってしまっている。
決して楽観できないことも事実だ。
そう考えてみれば、若い頃のように無邪気でいられるはずもないのだろう。

それでも、一体自分は何をしているのが好きで、何をしたかったのか?
あたらめて自問しようと思う。

何をやれるかはともなく、出来れば死ぬ直前まで自分のペースにあった仕事をやりながら逝きたい。

50代でそんな事を考えるのは早すぎるだろうかね??
もしかしたら人並みになったのかな?





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