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「食」に関する「道」って代物について [独り言]

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ラーメン道って代物



 添付の映像は、facebookにシェアされていたものだ。

コメントは千差万別。幸いにしてこういう店に行った事はないが近い体験はある。

しかし、客と店主のラーメンを介した過剰なまでのバトルはラーメン好きの私にとってかなり不快な現象である。

ラーメンはもっと気楽に食べれば良いじゃん・・・。それが私の率直な意見だ。

違う言い方をすれば、フランス料理だって楽に食べれば良いじゃん・・と思う。
店や周囲の環境でのTPOはあるものの、料理人と食べる側が戦う事は別にない。旨い不味いは個人差があるし、好き嫌いも同様だ。

だから、他人から旨い不味いを無暗に押し付けないで欲しいというのもある。個人の感覚は個人の問題だから、他人と合う場合もあれば違う場合もある。是非の問題でもなく議論も出来ない。食の評論家やタレントの取材コメントを耳にすることもあるが、全く信用しないタチである。

日本人は何かと「何とか道」が好きだ。それは全く否定しない。そういう在り方も一つの在り方だと思っている。でも私には何となく暑苦しい。若い頃はラーメンを語るなっていうのを飲み屋でやったこともあるが、結局個々の主張合戦になって話しが落ちる部分は無く、空しいものだった。それが単純に楽しい時間だったとも言えるが時間の無駄だったとも思う。そういうケースが多いだろう。

この漫画のような店主は恐らく数多く存在しているのだろう。でもこの漫画の店主を見る限り勘違いも極まるとこうなるのかな?というのが私の感想だ。

確かにラーメンのスープはとても手間がかかる。芸術的なものだってある。それは認めます。しかし料理人が自分をアーティストと勘違いしてとすれば、残念である。

客に自分のやり方を通して人から金を貰いたいなら、少なくとも自分のこだわりを客に分かるように伝えておければいいだろう。入り口に告知しておくならもっといい。そういう事をしないことを「美学」と呼ぶ人がいるが、それはただの不親切で迷惑なのだ。

(しかしそれでも口コミで伝わるものは伝わる場合があるが・・・)

店にルールがあるのなら客にキチンと伝える義務があるし、客がそれを選ぶ事が出来るのならそれはそれでOKだ。それもしないとすれば、単なる怠慢だし失礼である。非礼であることをあえて自慢するような客商売を有難がる面倒な人もいるが、それは単に馬鹿にされているのと同じだろう。

私は職(食)人技が好きだし、職人を尊敬している。でも職人技を判断するのはあくまでも客の側だという事を忘れてはならない。職人が仕事に関して一徹であることと、客との接点を無視して我を通すというのは全く違う次元の話だ。

 私はこの漫画を読んで、ふと昔NHKで見たあるすし職人のドキュメントを思い出した。

ある日弟子の店に師匠が来たのだが、師匠は弟子の出した寿司を眺めたまま手を付けず、そのまま帰ってしまった。

ナレーションでは子弟への修行の厳しさを伝え、子弟関係の空気の重さを映像に残していた。
しかし私はこの師匠はとんでもないヤツだと思った。

それは何故か?

残った寿司はどうするんだよ!?ってことなのだ。

捨てるの??  それとも弟子が食べたのか? まさか・・・。

食にこだわる人間が、食べ物を明らかに粗末にする姿を見て、食の「道」と呼ばれるもののあり方に根本的な疑問を持ってしまった私の視点はおかしいだろうか?
たとえそれが修行の一環だったとしてもだ。

この漫画も同じなのだ。

漫画の店主が客を帰らせた後、この手つかずに近いラーメンの運命はどうなるんだろう?

この店主は多分捨てるよね。

自分の大事なスープやラーメンじゃないのか?

客の振る舞いが自分の想定とは違い、気に入らないからそれらを捨てる事を良しとし、自分の勘違いした信念を貫くというラーメン(食の)道が正しいと思うラーメン職人がいるのなら、そんなラーメン道や職人はラーメンを作る資格がないんじゃなかろうか?

「食」において客に出したものは再利用が出来ない。
だから最大限度大切にすべきじゃないのか?

だから出す側は相当な準備や用意を必要とするはずだ。それは告知行為だって含まれる。

客はただ食べるだけだ。口に合えばまた来るだろう。また多少口の肥えた客なら、作った人間のこだわりや奥深さを忍ぶかもしれない。それは個々にあって良い事だ。

分かる人には分かるし、分からない人には分からない。

それでいいじゃないですか。

でも、食に関わる人間が自分のネタ元をむげに捨てるというのは、やはりあり得ません。

私は母親から第二次大戦直後の食うや食わずの話しを何度も聞かされました。本当に最低限食べる事が精いっぱいだった時代だったそうです。
あの時代を経験した人からすれば、このラーメン屋も例に挙げた寿司の師匠も馬鹿野郎と言われるでしょう。

そういう勘違いした「道」を歩む職人は、職業人の前に人間としての修行をし直した方がいいかもしれません。
だから私は、食通と自慢する人や食の道を極めたというような人を一切信用出来ない訳です。






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「自分の国 日本を好き」と言えない日本人の不幸 [独り言]



「自分の国 日本を好き」と言えない日本人の不幸



 



先に断っておくが、私は右翼でもなければ左翼でもない。どちらかと言えば、中道だ。保守的な部分もあれば革新的な面もある。世の中を生きていて、どっちかに極端に振れて事が成立・継続することはほとんどないと思っている。そういう意味で、現実主義者だと言えるかもしれない。



 



さて、私は日本という国が大好きだ。戦後生まれの私も50歳を超えたが、最近益々その気持ちが強くなる。



この気持が強くなったのは40代後半位からなのだが、それはこの年齢辺りから日本の歴史を自分自身で学び直した事が大きい。

学生時代、暗記一辺倒の日本史は全くもって苦手だったが、試験や学校の成績を上げるためにやるのではなく、自分の知的好奇心を満たすためだけに始めた日本史の勉強は、日本という国の凄さや奥深さを改めて知らしめてくれた。もちろん醜い部分だってある。



それに加え、これまで様々な海外出張をした経験で外から日本を見る機会もあったが、私の肌感覚の結論は、(日本人にとって)日本ほど暮らし易く素晴らしい国は無いという事だった。



 



しかし、この国において自国を愛するという発言や態度を示すと違和感を抱かれる。ほとんど脊髄反射のように最も多い反応は、「あなたは右翼ですか?」という反応だ。もちろんこんな事を言っている私自身にも同じような脊髄反射が起こるから始末に悪い。



一体この脊髄反射は何から始まったのだろう?



 



日本国への愛情と国旗への忠誠に違和感を覚えるような教育(洗脳?)を施してきたのは一体全体誰、もしくは何だったのか? 

よく言われるのが日教組だが、それも確かに一因あるとしても、国民全体の中に日本国への愛情と国旗への忠誠を表だって言えない空気が漠然と存在しているのは日教組の歪んだ教育姿勢はもちろんなのだが、それだけではないように思う。

これを引き起こした最大の原因が第二次世界大戦だった事は疑いようがない。もちろんこの大戦の悲劇が日教組の歪んだ歴史教育へと繋がったのだろうと思っている。



当時の軍事政権が、国家のために死ぬ事が是というような正当性を祭り上げるために天皇を利用し、日本国旗の御旗の元に国民を引きずり込み戦い敗けたあの戦争の悲惨さのトラウマから、我々日本人は未だに抜けられていないんだというのが私の解釈だ。



300万人以上を戦死させた日本国は、自国民から信頼を失い、それがそのまま日本国への愛情と国旗への忠誠に莫大な疑念を持たせたのだろう。

人類史が補足できる段階からにおいて、病死や自然災害で300万人以上が死んだ例は数少ない。毛沢東は大躍進という非科学的な政策を実行し、この10倍の数の自国民を死に追いやったが、いずれにしても人災とも言える先の大戦の死者数は狂気の沙汰ではない。
自国民をこれだけの数、死に追いやった当時の日本国家の在り様は、戦後
70年が経過した2017年になってもトラウマとして消えていないのは仕方なほどだだと思う。



また戦後の教育現場も戦争の反省や悔恨に基づいているにしても、我々のトラウマに過剰とも言える程に加担した部分があるだろう。戦争は嫌なのだが、人類が始まって以来戦争が無くなった事はなく、他国から攻められる可能性を排除出来ないのもまた事実だ。実際、北朝鮮の核開発や、ミサイル発射を見ていれば分かるだろう。

あの悲惨な大戦で多くの人が無暗に傷ついた。またヒトラーやスターリンのような怪物を産み、日本は原子爆弾を落とされるという結末を迎えた。
アメリカに殺戮と言って良い
B-29の大空襲で、短期間に3040万人近くの民間人を殺された。
日本だって自衛戦争とは言え、相手側からすれば侵略としか映らないような戦闘行為した事実がある。先の大戦が侵略戦争だったのか否かという言葉の論争が続いているが、市井の身の上として言えるのは、少なくとも日本人の中にもあれが侵略戦争だと思う人がかなりの数いて、攻められた側にもそう感じている人が多数いるという事実だ。自衛戦争と逃げたい気持ちは分からないでもないが、自衛だろうが侵略だろうが正直どうでもいい事だ。間違いないのは、他国に軍隊を持ち込んで満州国なんていう当時の日本政府の正式な承認もしていないものを現場レベルで勝手に進めたという呆れるような連中が軍事中枢に居たやり放題だった事実だけで十分だろう。


しかし結果的に戦争に負けた我々の正当性や理屈は世界の政治では通らない。従って先の大戦の是非や戦闘行為中の行為の是非を殊更のように問題にしても空しい。

結局戦争とは、狂った状況を平気で生み出す程狂った行為である事を決して忘れてはならないという教訓を噛みしめるしかなかろうと思う。またそれを繰り返さない知恵も必要だ。しかしただ反戦や世界平和を主張し、声を上げているだけでは問題解決しないだろう。主張を訴える事は大事な事だが、それより大事な事は問題や課題を具体的に解決する方法を出し実行することだ。
相手はいつもこちらの気持つを汲んで行動してくれるとは限らないのだ。
ちょっと前まで左派系政党が、非武装中立とか言っていたが、あんなお花畑的で眠い事を言っている連中が20年ほど前に政権中枢に居たと思うと背筋が寒い。政治は理念的なだけでは事を処理できない。実際連中が政権に居た時の危機対応のマヌケさは、国民としてゾっとする光景だった。阪神淡路大震災、そして東日本大震災。まだ記憶に生々しい。
付け加えておくが、自民党の連中にだって相当の非がある話だという点は決して忘れてはならない。

ちょっと話が逸れてしまった。

前の大戦によって日本国への愛情と国旗・国歌への忠誠は大きく傷ついてしまった。そして多くの国民は、その敗戦した国家に住み、本音を表に出さない事を美徳とし始めた。
私はそう考えている。


学校の卒業式で日の丸を拒絶する教職員が現れ裁判にまでなっている。



国旗・国歌に拭い去れない思い出が染みついていたとしても、他国ではこんな事は起こらない。

私は特に学校の教員の一部が、国家斉唱、国旗掲揚について拒否する姿勢を見ていて、都合の良いところだけをつまみ食いしているように思える。これは信条の自由とは別の問題だと思っている。

ところで、学校の卒業式で日の丸を拒絶する教職員たちは、オリンピックやスポーツイベントにおける国旗掲揚や国歌斉唱をどう思っているのだろうか?



野球やサッカー、スポーツ好きの教職員は、開幕時やメダル授与時等に行われる国家斉唱と国旗掲揚時を不快であり、個人の尊厳を無視する行為だと思っているのだろうか? それとも起立せず、歌わなければ自分たちの主義主張を貫いていると思っているのだろうか?



彼らはそれらに違和感ないのだろうか?



卒業式の国旗掲揚や起立拒否について裁判するなら、何故スポーツ等での国旗掲揚や起立行為についても裁判しないのか?
学校行事は強制性があるからだと主張するかもしれないが、国家、国旗と思想信条を公共の環境に持ち込んでいる状況という意味では全く同じではないか?



スポーツ等の大会で日の丸の元で戦うと宣言する選手やそれを応援するサポーターやファンが、国旗を身に纏っていても、彼らを絶対に右翼とは思わないだろう。むしろ日本愛=日本代表愛とすり替える事が出来、国家を全面に出していないからかもしれない。
実際、サッカーなどのサポーターで、対戦相手が海外のチームであればあるほど、日本国旗を手に応援している人たちを多く見かけるし、それが普通だ。何故スポーツで出来る事が日常では出来ないのだろうか? 皆さん不思議に思いませんか?



学校の入学・卒業式とスポーツイベントで何が違うのか? 左派系の人たちにキチンとしたロジックと理屈があれば聞いてみたいものだ。



私からすれば、これは要するに「筋が通っていない話」なのだ。
これは「大戦後遺症」とも言えるかもしれない。国旗、国歌と戦争を結びつけ、敵視する人たちと、スポーツイベントなどで、国旗、国歌を許容するというような人たちの間には統一的な見解がないのだろう。戦争により国旗、国歌の旗印の元に家族を殺されたという想いがあることは全く否定しない。またそのトラウマで国旗、国歌を容認できないという気持ちまでを否定する気にはならない。それでも、自分たちが海外と対峙する中で、世界の中で許容されている国家のシンボルを自国民が完全否定したら、我々は何を旗印にすればいいのだろう? 左派系が発案したデザインの国家、国旗、国歌を作るのか? よく日本国歌は日本人が作ったんじゃないから認めないという人に出会う。だったら現在の日本の政治システムは一体どこから来たのかを問いたい。
近代日本の国家システムは殆ど全て輸入品だ。そしてそれは歴史と共に培ってきている。日本国家も同様だ。ついでに言えば、日本のポピュラー音楽は全てヨーロッパ製だ。我々はそれをJ-POPだ、J-ROCKだとか言いなから愛好しているが、明治時代以前の日本の音楽は日本のポピュラーのひな形とは全く違う。つまり言語的な言い方をすれば現代の日本の音楽は英語でしゃべっているに等しい。



私は50歳を過ぎてもうすぐ還暦が見えるようになり、素直に自国や国旗・国家への愛情を表現できない空気に満ちている日本の現状を本当に不幸な事だと感じ始めている。
この理由が、私たちが大戦の悲劇を超えて受けてきた歪んだ教育の影響である事は全く否定できない。
そういう意味で、日教組教員の偏向教育に大変な迷惑を受けたと思っている。
だから私は40代を期に日本史を自分のやり方で学び直した。そして日本の歴史教科書や学校で教えられた内容が、かなり国家のフィルターや日教組のフィルターに満ちたものだという事が分かった。
特に日教組教員が期末の時間切れを理由に近代、現代史を意図的に教えなかったり、明治維新と言われる軍事クーデターを首謀した薩長史観が強烈にかかっているという点で冷静さを失ってきてしまったと思っている。山口県の人には大変に申し訳ないが、吉田松陰を始め、久坂玄瑞、高杉晋作は当時の感覚でもテロリストである。

日本の初代首相の伊藤博文に至っては、品川御殿山にあった建設中のイギリス大使館に放火をしている人物だ。
明治革命とも言うべき事象を維新という言葉で美化したくなるのは、歴史は勝者によって書き換えられるという点で許容したとしても、我々の国家がそういう歴史の流れの末にある点を後を、その後の国家人たちが違うフィルターで書き換えるのは許容できない。
会津の人たちが未だに長州人に恨みを持つほどの歴史的な事象がある点を時には美化し、時には恣意的に編集して脇においているようでは、本当の歴史教育なんで在り得ないのだ。その成れの果てが第二次世界大戦の悲劇だったと言っていい。



そうした歴史の流れから、日本国旗や国歌が、大戦の陰湿なイメージや極端な右翼的イメージによって本質から遠い部分で忌諱され、また左翼思想家たちによる極端な解釈を経て教育現場に影響を与えた点を残念に感じている。



若い頃は、天皇制の在り様に大変な疑問や違和感を持っていた時期が無かった訳じゃないが、自分で歴史をひも解いて行くと、天皇制こそが日本の歴史の背骨だという事が素直に理解できる。これは是非の問題ではない。事実なのだ。
そういう意味で天皇制とは、日本の深淵なる宗教的な部分に触れる事だとも言えるだろう。また、先の大戦が薩長の流れを組む軍部が天皇を統帥として利用した上でやらなくてもいい戦争を実行し、更に最終的には天皇が玉音放送で決着を着けたという歴史の皮肉は、我々が最も直視すべき点だろう。
仮に我が国に天皇が居なかった先の大戦の終結やその後のアメリカ軍の占領は全く違ったものになっただろう。


人類が生まれてこのかた、インダス、中国など様々な文明が生まれては消えた。ハンティントンの「文明の衝突」にあるように、数千年という歴史を持ち現在にも至る「日本文明」は、世界史の中で見ても稀な存在なのだという事を改めて自覚すべきことだと考える。



私は日本民族が他の民族と比較して優位だのなんだのというような不毛な議論をするつもりは毛頭ないが、有色人種である日本人が白人たちの文明に伍して「日本文明」を築き、風雪に耐えて営々と繋いできた点については歴史的事実として認識した方が良いだろう。





日本国にだって様々な欠点や欠陥がある。
実際、先の大戦では、日本国家は国民300万人を死に至らしめ、中枢にいた連中は国民個々の死に人間的には向き合わなかった。明治の革命で中枢に座った連中が国を動かすという過ちを長い時間をかけて形成してきてしまったからだ。
また2011年3月11日の東北の震災における被災者に対しても、国家は未だに答え出しておらず、日本領域内に実質的な死の地域を作り放置している。これは国民に対する裏切りと言っていいだろう。
また、非核三原則を掲げながらアメリカ軍が返還前の沖縄に1700発近い核弾頭を配備している事を日本政府が容認していた事をNHKスペシャルがスクープしたが、日本国家において、そういうどす黒い裏切りがあることは事実だ。
しかし他国にも程度の違いはあれど同様な部分がある。裏切りは無いに越したことはないが、残念だが、一般国民がそれを回避できる術もない。

しかし日本や日本人にはその欠点や欠陥を超える素晴らしさが多いと思っている。また民族の欠点や欠陥を認識して乗り越える力が我国民にはあると思っている。



四季があり、水や風土に恵まれ、狭い国土で国家が消滅するような諍いを免れ、相互互助を常とし、高い教育と識字率と道徳性を維持しながら長い歴史の風雪に耐えてきたのが日本であり日本人なのだ。世界で唯一「もったいない」を言える民族ではないですか。

明治維新という革命をあの程度の内戦で済ませ、近代化出来た事や、第二次大戦終戦時に殆どの混乱もなく銃を置き、昭和天皇の言葉に従いアメリカの占領を受け、その後奇跡的とも言える経済発展を遂げた事は、日本の底力の現れだ。アメリカに破壊されたイラクのその後を見ていると、日本の復興は奇跡と言っていいだろう。同じアメリカに破壊を受け、その後の違いが何故起きたかを問えば、やはり天皇の存在と地政学的な幸運に尽きるだろうと思う。政治のリアルで言えば、我が国は本当の独立国でなく、アメリカの支配体制の中にある国と言わざるを得ない。実際、東京の空域は未だに米軍支配下にある。



若い頃は西洋文化にドップリ憧れ、英語を学び、YES NOが言える西洋を美しく思い、一時は日本人であることすら嫌だった私も、歳のせいか日本と日本人の良さが肌で分かるようになった。少なくとも日本人には日本という場所が最高だと思う。

ありがたいことだ。



今の心境は、死ぬまでにもっと日本を学び、もっと世界を知り、日本人であることを誇りにし、清濁を合わせながらも日本人として死んでゆきたいと思っている。



日本人でよかった。今の私はそう思って毎日を生きている。




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